第5話 Musician

 この世は、陰陽の摂理の法則より成り立っている。光は影の為に存在しうる、そして影は光の為にその身を捧げるであろう。自由は不自由の中で生まれ、不自由は自由の足枷となって対となり因果の中を廻り巡る。栄える者も滅ぶ者も因果旋律の中では、一瞬の瞬きの如く。此の世の理の僅かでしかなく。宇宙を彷徨う塵のようなもの。

 彷徨える仔羊達よ、選ばれた者だけが今宵一度だけ開けられる重い扉を開くがよい。その身を捧げ、差し出された冷たい手に赦しを乞うがよい。但し、忘れてはならぬ。全ては陰陽の理の中にあることを。

 

「皆様、お待たせしましたー!今夜のスペシャルライブは、The stone like bloodの皆さんです!」テレビの中で番組パーソナリティは声高々に叫ぶ!

 「こんばんはー!」「こんばんは、ヴォーカルの美里ミリです!」「今、話題の大ヒットアニメBomb Peaceの主題歌をやられてるんですよね~!」「はい!」

 

「ゆうちゃん!ザストラやん!ザストラ!」恭子は仕事そっちのけで、壁に吊られた店のテレビに魅入っている。「きゃー、美里ミリめっちゃ可愛いー!」「こらっ、テレビばっか観とらんと仕事し!」「はーい!」おふくの聡子に怒られて空いた食器を下げに回る。

「ゆうちゃん、今度ザストラのライブ行かへん?初めての大阪城ホールやって!」トントントン、包丁の音を響かせながら答えた。「俺、ロックはあんまり好かんから、友達と行ったら。」「何でロック嫌いやのん?エレキ二本も持っとるのに!」

 恭子には、俺がザストラに居たこと、俺と美里が出会ってザストラが始まったことは、恭子には言ってない。言うと五月蝿いというのもあるけど、家の事情とはいえ、ザストラを去ったのは俺だ。今更、どんな顔をして話していいのかわからない。


 テレビ画面の中ではあの頃と変わらぬ美里が透き通ったハイトーンボイスで歌っている。その曲は、三年前に俺と美里が書いた曲だったなぁ。あの頃は、楽しかった。高校卒業してこの古びた居酒屋手伝いながら、寝る間も惜しんでギターを弾いていた。気まぐれな美里に深夜に呼び出され一緒に朝まで曲を書いたりしてた。

 今もどこかで燻っている気持ちを晴らしたくて、店が終わった深夜に駅まで出かけてアコースティックギターで弾き語りをしている。あの頃、書き溜めた曲としてボツになったものばかりを歌っている。たまに足を止めて聞いてくれる人もいるが、もうどうでもいい。


 The stone like blood(ザストラ)のスタートは、今から十年も前になる。プロフィールには高校時代に音楽好きが出会ってとあるが、正確には中三の夏から始まった。

 ギターを始めたのは、うちの店にバイトに来ていた大学生に薦められ高渕剛のCDを聞いてからだった。アコースティックギター一本で唄う剛は、カッコ良かった。感動してCDが擦り切れるほど聞いた。お袋には散々反対されたが、親父の「好きなことなら全力でやってみろ!」という一言もあって、貯めていたお年玉でギターを買った。わざわざ学校にギターを持って行き、休憩時間や放課後に弾いていた。夏休みに入りストリートミュージシャンを気取って、夕方の駅前で弾き語りを始めた。今から思えば恥ずかしくなるほど下手くそだ。

 それでも、たまに立ち止まって聞いてくれる人が居たし、中には投げ銭を入れて数曲聞いてくれる人も居た。

 美里もその一人だった。8月に入った頃、二日間連続で座って最後まで聞いてくれた。小顔で背が高く、鼻筋の通った小顔に大きくて垂れ目、意思の強い瞳をしていた。

 特に手拍子をする訳でもなく、一緒に口ずさむ訳でもなく、何時も黙って聞いていた。俺に気があると思って、気取って弾き歌った。

 二日目に演奏を終えてから、思い切って声をかけた。「高渕好きなん?」「全然、キライ!」「あっそう…。俺の弾き語り、どうやった?」「めっちゃ、下手くそ!」少し腹がたった。「じゃ、何で二日も来てんの?」「暇やったから…。」「ひょっとして…。」「ない、ない、絶対ない!」ちょっと喧嘩気味になって美里は帰って行った。


何だか悪いこと言っちゃったかなと思った。貴重なファン一号かもしれないのに…。

 翌日の夕方にも美里は来ていた。ちょっと怒ったような目で俺の弾き語りを聞いている。人が途切れて、一息ついていると、立ち上がり目の前に来た。「ギター貸して!」「お前が弾くの?」「いいから!それと、お前って言うな!アタシは美里(みさと)!」

 ゆるりと弾きながら、曲に入っていった。聞き覚えのある英語の曲だった。カーペンターズ、ボズ・スキャッグス、知らないブルースまで、抜けていくような透き通った歌声に度肝を抜かれた。力強いシャウトまである。マイクの電源は切ってあるのに…。何と言う声量と音域…。

 気が付けば、俺の後ろにはたくさんの人垣が出来て、一緒に口ずさむ人や手拍子する人もいる。「す、スゴい!」気が付けば、俺も一緒に手拍子をして、歌っていた。

 五曲ほど弾いてから、「はいっ!」とギターを手渡された。もう、とても恥ずかしくて弾けない。それでも、暫く弾いて歌った。美里は何も言わずに帰って行った。

 その翌日も美里は来た。相変わらず、長い脚で地面にあぐらをかいて座っている。演奏が終わって帰ろうとする美里に声をかけた。「俺に教えてくれへんか?」これが美里とのスタートだった。

 三日ほどは公園で美里と打合せをしながら練習をした。発声から弾き方まで、美里に怒られっぱなしだった。

 数日後、美里をメインヴォーカルにして駅前で弾き語りを始めた。美里は両手のカスタネットをフラメンコのダンサーのように使いながら踊り歌い語る。透き通ったハイトーンボイスは夕方の駅前に響き、他の場所で弾き語りをやっていたミュージシャンまで集まって来た。

 ギターケースに沢山の投げ銭が入った。楽しかった、楽しくてしょうがないほど楽しかった。

「このお金は、アタシの稼ぎ!」千円だけ残して美里は全部持っていく。元々、千円も入ることはなかったのだから、それでいいか、楽しいし。

 夏休みの間に十回ほど美里と一緒にライブをした。中には、何度も観に来てくれる人も出来た。最後のライブの時、マイクを通して美里が語った。「今度、ここか、どこか、まだ何もわからないですけど…。次は、バンドとしてライブをやりたいと思ってます!また観に来てください!裕司と美里です!宜しくお願いしまーす!」

 夏休み最後の日に美里の家に行った。マンションで母親と二人暮らし。母親はスナックを経営している。「じゃ、晩御飯代おいてあるから適当に食べてなー。」夕方には店に行くそうだ。

 美里は俺の知らない音楽の世界を沢山知っていた。オールディーズから、プログレッシヴ、ハードロック、パンク、クラックまで、軽く千枚位はあるCDから美里に薦められたものを片っ端から聞いた。日に日に音楽の世界が拡がっていく。

 美里は隣の中学の三年で、家も遠くなかったから、毎日のようにどちらかの家で語り合いギターを弾いた。楽器屋にも何度も一緒に足を運んだ。「裕司、これ買うたら!」ストラトタイプのエレキギターを手にしていた。興味はあったがちゃんと弾いたことはない。座ってアンプに繋ぎ試し弾きしてみた。「ええやん!ええやん!これにしとき!」「俺、そんな金無いし!」「金ならほら!」美里が財布から一万円札を五枚出した!「そんな大金どうしたんや?」「夏休みの投げ銭、母ちゃんに言うて、両替してもろた。」「それを俺に?」「裕司やない、バンドとしてや!」

 それから、俺の友達でちょっとデブなタカシがドラマー、美里の友達で日韓ハーフのユニがベースとして加入した。受験で学校はバラバラになったが、高校に上がりプロを目指して本格的に活動を始めた。タカシはドラムスクールへ、ユニは知り合いのミュージシャンからベースを習い。俺と美里は作曲の勉強を始めた。

 タカシ以外は、貧乏だったから、学校帰りにバイト、週に二回はスタジオ練習、練習後はファミレスか美里の家でミーティングという日々だった。高二の夏休みからスタジオのオーナーの薦めで、何組かのバンドでステージ代を割ってライブをやるようになったが、来てくれるのは身内と友達位でライブをやる度に赤字だった。この頃は、まだThe stone like bloodではなく、「美里会(みさとかい)」だった。

 高校卒業後、俺は実家の居酒屋手伝い、美里はフリーターで週末だけ母親のスナック、タカシは大学生、ユニは実家の焼肉店手伝い。何とかスケジュールを合わせながら活動をしていた。親父が店を継げとうるさかったが、二十五歳までにプロとして売れなかったら、店を継ぐということで納得して貰った。この頃に美里の案でバンド名が、The stone like blood、通称ザストラに変わった。

 メンバーのバンドネームも変えた。美里は、みさとからミリに。俺は裕司からバンに。タカシはタカに。ユニはそのままだ。スタイルもキャッチーさを上げて、テクニカル面も重視していった。メンバーの発想もやりたい音楽から、求められる音楽へと転換していき。地元ファンを中心にキャパ100席も無い小さなライブハウスでワンマンライブをやるようになった。

 ステージ衣装的なものも各自好きな服からスタイルにこだわったものに変えた。美里とユニは、革のショートパンツかミニスカートにガーターベルト、ニーハイブーツ、全体的にボンデージっぽいコーディネート。俺とタカはノースリーブの合皮のベストに合皮のパンツ。

  美里とユニのルックスの良さを全面に出したスタイルで、売っていくことにした。80年代っぽい古臭さと、最近には無い激しくシャウトするヴォーカル、疾走感のあるテクニカルなメロディーが人気を掴み始めた。

 ステージを駆け巡り、持ち前のハイトーンボイスと激しいシャウト、セクシーにハードに、時には吐息や喘ぎ声っぽい歌い方をする美里、恵まれたルックスと美脚に男性ファンが急増した。

 175cmの高身長で長い髪を振り乱し、日本の女性ベーシストには稀な六弦のロングフレットベースを操る中性的な魅力のユニは、異性よりも同性のファンが多かった。

 ステージでの俺の出番は、ソロプレイ位かな。ファンはちょっとはついてたな。

 タカシはタカになって、20kg痩せた。練習以外にも持久力を上げるために毎日ジョギングしたのが良かったみたいだ。髪を伸ばし、髭を生やしてワイルドになり、生まれて初めてバレンタインに本チョコを貰うようになった。

 美里いやバンドのファンの手前、公表出来なかったが俺と美里は高二から付き合うようになった。超がつくほど自己中で、良いフレーズが浮かんだからと深夜に呼び出されたり、友達と呑んでタクシー代が無いから、迎えに来いとか…。正義感も気も強く、喧嘩っ早いから一緒に呑むと、他のグループと揉めることも多かった。普段は強気だが、硝子ような危うい繊細さも持ち合わせている。

 人気上昇と共にライブハウスのキャパも大きくなった。インディーズレーベルからのオファーもあり、インディーズからのデビュー。学祭やイベントのライブの依頼も舞い込み。ネット放送のアニメやドラマの挿入歌も担当するようになった。最早、飛ぶ鳥を落とす勢いで、知名度も上がっていった。


「そろそろ、親父にちゃんと報告して、メジャーデビュー目指して皆で東京で暮らす。」そう思って居た矢先の出来事だった。

 その日は、法事の仕出しの注文が入っていた。居酒屋以外の注文はめったに受けない親父だが、コロナ禍で客足が遠のいていたから、少しでも売上の足しに思って受けたのだ。

 普段は作らない30人分の仕出し弁当を土曜日の夜、閉店してからほぼ徹夜で作った。納品が朝の9時、中々大変な作業だったが何とかやり終えた。俺が配達に行くと言ったが、「お前、昼からバンドやろ!俺が行くから、飯食ってちょっと寝てから行け!」

 配達に出て40分後、警察から親父が事故にあい危篤状態なのと、身元確認の為、早急に搬送先の病院に来て欲しいと連絡があった。

 まだ、現場検証しないとわからないが、恐らく居眠り運転で、赤信号の交差点に進入し、大型のダンプカーと衝突したらしい。

 血の染みた包帯まみれの親父が俺に遺した言葉は、「店を皆を頼む!」の一言だった。

 毎日、泣き続ける母親に大学入試を控えた妹、店はコロナ禍で火の車だ。借金もかなりある。葬式後、初七日法要まではぼーっとして過ごした。何をどうしてたのかも良く憶えていない。

 親父の後を継いで、居酒屋の大将として切盛りしながら、バンド活動を存続させるのは難しい。皆が東京に行こうとしているのに、俺が足枷になってしまうのは避けたい。仮に東京に進出しても、俺達はまだまだ全国的には無名だ。ライブをさせてくれるライブハウスを探してながら、バイトの日々になる。今のメンバーなら俺が居なくても何とかなるだろう。


 親父が亡くなって二週間が過ぎた頃、久々に皆で集まった。俺を元気づける会とかで、居酒屋を予約してくれていた。

 俺は、事情を全て話してバンドを抜けることにした。皆、落ち込んだが、まだまだ人生は長いから、何処かでまた一緒に音楽をやろうという話で終わった。

 その夜、美里と初めてホテルに泊まった。遠距離恋愛になってしまうし、生きていく世界も変わるから別れようと告げた。「何でやのん!新幹線ですぐ会えるやん!」これからのことを考えれば、彼氏の存在はバンドの障害になる。バンドのメンバー内や有名人ならともかく、地方に置いてきた脱退メンバーなど、マイナスにしかならない。美里がキレて俺の頬を何度も何度も叩いた。美里は泣いた。めったに泣かない美里が大粒の涙を流しながら、泣きじゃくった。「もう、嫌いや!触んな!」と言ったかと思えば力いっぱい抱きついてくる。


「裕司!頑張ってくるわ!メジャーんなって、有名になったら婿にもろたる。何度浮気してもかめへんわ!待っときや!」


 ザストラは、俺の代わりになるギタリストにライバルバンドから引き抜いたヒロが加入した。日仏ハーフの恵まれた身長とスタイルに雑誌モデルを兼業するルックス。メンバーから相談を受けたが、俺の決めることじゃない。前々からヒロが美里に気があることは知っていたが、それは美里が選ぶことだ。


 店を継いで二年が経った。ザストラは有名になった。プロデューサーにかってのカリスマバンドのギター恵比寿氏が入り、有名どころか今や日本の枯れたロックシーンを復活させた新たなバンドとして、来年には初の全米7都市でのツアーが決まっている。美里とギターで加入したヒロの熱愛報道も出て、ファンも世間も騒がせている。


 俺は一年前からバイトに入った恭子と付き合っている。製菓専門学校在籍時にうちの居酒屋にバイトに来て、恭子から告白されて付き合うようになった。彼女は今は洋菓子店でパティシエ見習いをしている。朝早いのに毎晩のように店を手伝ってくれて、屈託の無い明るさと元気で常連客にも大人気だ。

 お袋にも気に入られ週の半分は俺の部屋に寝泊まりしている。周囲から結婚をそそのかされるが、恭子はまだ二十一歳だ。


 今日も、店が終わってからアコースティックギターを片手に駅前に向かった。こんな深夜には誰も居ない。たまに居るのは酔っ払いくらいだ。

 缶ビールを呑みながら、弦を爪弾く。懐かしいあの日々を思い出しながら、弾いて歌う。ちょっと辛いけど、ザストラの成功と美里の幸せを願って歌った。


 ザストラの全米ツアーが決まって、嬉しいような淋しいような気分だった。コンビニでカップ酒を2本買って、夜空を見ながら呑んだ。

 少し酔いながら、駅前の路地に入っていった。バンドのメンバーとよく行った何でもワンコインの朝までやってるバーがあったはずだ。

 店を探していると突きあたりになった。重そうな木の扉の横に白い文字で「Bar 月下美人」と書かれてある。重い木の扉を開けると、店内は薄暗く、カウンターの上に透明なフィラメント電球が並んで灯っている。使い込まれた木造りのカウンターはマホガニー製か?カウンター10席ほど、奥に四人掛けのテーブル席が2つ見える。カウンターには白い口髭を携えた老紳士、奥のテーブルには赤いワンピースを着た女性と黒いスーツを着た男、もう一つのテーブルにはOLらしきダークなパンツスーツの女性が二人。

 「いらっしゃいませ。」この店のマダムのようだ。ホルターネックの深い紫色のロングドレスに左脚の正面の付け根まで入った深いスリット、胸まである長い髪に切れ長な瞳、玉子型の顔の整った上品な面立ちなのに、熟れた赤い唇がどこか淫猥に見える。「こちらへどうぞ!」カウンターの真中あたりの席に案内された。

 正面には、スキンヘッドに立派な髭を携えた。体格のよいマスターらしき男がいる。夜なのにサングラスをかけ、レンズの下に猛禽類のような鋭い眼光が微かに見える。

顎の下には太い首、肩の肉は丸く競り上がり、胸のボックス型の筋肉がバーテンダーベストを押し上げている。

 木製のカウンターの上に点々と赤黒い液が落ちている。マスターらしき男が腕を伸ばして何も無かったように拭き取った。

「あら、ローストビーフの血かしらね。」マダムが俺の右側に来て腰を屈めた。「阪東様…。辛い過去があるのね。」俺の顔を見ながら憐れむように囁いた。「帰りたいのね。あの頃に。」「うん。」思わず頷いてしまった。

 何故、俺の名前を知っている?友達か親父が来ていたのだろうか?近所で居酒屋をやってるんだから知っていてもおかしくはない。


 無口なマスターが、シングル用のシェイカーをカウンターに置いた。透明な酒、赤いリキュールと青いリキュール、ライムを入れて、慣れた手つきでシェイカーを振る。キャップを外してショートグラスに注いだ。紫色の美しいカクテルが出来上がった。何故か雲のようにグラスの液体が動いて見える。


「これは、時を巻き戻すカクテル。一杯10万円よ、安いか高いかは貴方次第。一分間だけ一度だけ過去に戻ってやり直せるわ。」


「ほんとなのか?」「さぁ?飲んでみないとわからないわね…んふふ。」


「よし!」俺はグラスに手を伸ばした。「慌てないで、坊や。」マダムの白い手が両肩に置かれた。Tシャツ越しに伝わる手は異様に冷たい。


「目を閉じて。」耳元で囁かれた。甘い薔薇のような香りがする。「一口呑んで、戻りたい時間を想像して…。」カクテルはライムの味しかしない。息がわかるほど唇が近くなった。「二口めは、戻りたい場面を思い出して…。」耳の穴を舐められている気がした。「そうよ、最後は一息に呑んで、理想の未来を想像するの…」


 目の前が真っ白な光包まれた。あたりの光景が遠ざかっていく。 


「じゃ、配達に…。」「親父!俺が行くわ!帰りに買い物もあるし…。キー貸して!」


「ちょっと、あんた!ぼーっとしとらんと、刺盛り!」気が付けば居酒屋のカウンターの中に立っていた。左手の感覚がおかしい。刺身用の柵をショーケースから出すにも、何かちょっと反応が遅れるといか、オモチャの手を操っているようだ。何とか切れたが、盛り付けがし辛い。左右の手のバランスが馴染まない。

「ゆうちゃん、手の具合どうよ?いけとる?」「えっ?」左手を触る。何だか冷たい。

「先生のお陰でほんまに助かりましたわ!」お袋がカウンター越しにスーツ姿の客に愛想を振りまいている。「裕司!刺盛り一丁!」左側で頭に鉢巻を巻いた親父が居る。

 生きていたんだ!涙が溢れてきた。

「おい!何泣いとんねん!」親父が笑っている。


「恭子は?」「誰よそれ?あんた他に彼女出来たんか?」「い、いや、おらん…。と、思うけど…。」


 店のテレビにザストラが映っていた。大ヒットアニメの主題歌を歌っていた。番組パーソナリティとのやり取りで全米ツアーの話が出ていた。


 これで、良かったのだろう。バンドで一緒にやっていく未来よりも、親父が生き返る未来を選択したのだから…。きっと間違ってはいない。

 

 ガラガラ~。建付けの悪い店の引き戸が開いた。「おばちゃーん!久しぶりー!」「美里ちゃん、お帰りー!」カウンターの外に居たお袋と革ジャンにデニムの短パンの美里が手を取り合っている。後からバンドのメンバー三人が入って来た。「ウィーッス!親父さん御無沙汰してます!これ土産!」「おーっ!いつもありがとちゃんね!」


「兄貴〜!これ恵比寿さんから、あとPCメール見て返事くれって?」何故か俺の代わりにギターで入ったヒロから兄貴呼ばわりされている。確かに歳は一つ下だったはずだが…。


「親父さん、ごめんね~!裕司借りてくから!」「なんぼでも、持ってって!」美里がビール片手に親父と話している。

「借りてくって、俺を?」「おーい!ボケとんかいな?来年全米ツアー一緒行くねんから、新曲とアレンジ頼むで!お前、ツアー用のピアノ発注したか?スタイン何とか言うヤツ!」タカシが笑いながら俺に言う。

 話の流れを聞いていると、仕出しの配達の時に事故で左腕の肘から先を失った。神経信号を感知して、自分の手のように動かせる義手を世話してくれたのがカウンターのスーツの男性。

 事故後は、ザストラの作曲を手掛けながら、ピアノの練習に励んでいたらしい。幸い妹が幼い頃からピアノを習っていたから、家にピアノがある。俺にピアノを教えているのは妹の瑠璃らしい。

 今度の全米ツアーで俺はザストラのバンドメンバーとして復活する。


「おい!裕司、今日はもう上がれ!」「上がれって、親父、まだ9時やで!」「ええから、これ!」折りたたんだ数枚の一万円札を渡された。


「美里ちゃん、今日は泊まってく?」「えっ、どうしようかな?」「母さん、邪魔したあかんて!」親父が不器用にウインクした。


「ご馳走様でしたー!じゃ、また明日!」


「裕司、行こ!」美里が俺の左腕を持つ。


 バンドのメンバーに冷やかされながら、俺と美里は外に出た。




 

 

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