第2話 Gambler

 「ようこそ!人生に迷える仔羊達よ!人生は常に選択の連続、間違いは誰もが犯す過ち。今宵、貴方は迷える仔羊。私は手を差し伸べる者。貴方が選んだ手は悪魔の手、それとも天使の手?過去に戻って間違いを正せるなら貴方はどちらの手を選ぶ?まぁ、どちらの手を選ぶにもそれ相応の代償が必要だわ。貴方が代償にするものは何?それは自分自身、それとも違う誰か?どちらでもいいけど…。今宵は幻、お楽しみなさい。」


 島原譲二は今日も咥え煙草の煙をくゆらせながらパチンコ台に座っている。「おーい、そろそろ出てくれ!」巨大な体躯、派手な柄のシャツ、スキンヘッドの頭、細い目、無いに等しい薄い眉毛がしかめっ面を強調している。勿論、彼の隣の台は誰も座ろうとしない!「一体、何だってんだコイツまで!」残りの玉はあと僅か…。


 譲二は、五年前まで売れっ子のピン芸人だった。190cmを超えるレスラーのような体格、モンゴル系のいかつい顔立ちは本職にしか見えない。だが、彼はその見た目を上手く利用し、柔和な可愛い笑顔は、迫力ある怒った顔とのギャップを生み出し、お笑いは勿論、ドラマの脇役、人気タレントとなり、持ち前の知性も発揮し、バラエティー番組やクイズ番組にまで幅を拡げた。

 そんな彼が何故こんなところに居るのかって?それは、ギャンブルにハマって抜け出せなくなったから。高校を卒業し、色んな職を転々としながら芸人として売れるまでは、ギリギリの生活だったという。勿論、とても博打など打っているゆとりなどはない。

 やっとの思いでレギュラー番組の出演が決まり、競馬のG1レース有馬賞の予想をし、自腹で一万円分、その場でネットで買うというバラエティー番組の企画があった。予想紙を見てもちんぷんかんぷんなので、三連単で適当に買った。中々、当たるものじゃないが、譲二なりに少しでもウケを狙った買い方だった。その中で、3ー2ー1が的中し、賭金千円が五百万になり、「五十万馬券を当てた男」としてパチンコパチスロ番組やらネットのギャンブル系番組から出演依頼が殺到した。

 今まで手を出さなかったギャンブルに仕事そっちのけでハマり、出演はギャンブル系番組だけになり、気が付けばラジオ数本の仕事しか無くなっていった。

 ギャラは減り、代わりに借金ばかりが増えた。先輩芸人どころか、後輩にまで借金している始末だ。周囲がどれほど説得してもギャンブルを辞めようとはしない。


 月末までまだ二週間もあるのに、財布の中には僅かな金しか入っていない。まあいい、またどこかで借りれば何とかなる。


 何で負けることがわかっているのにやめられないんだろう。仕事も無くなってきたし、俺はどうなっていくんだ?

 まあいい、また大穴当てれば…。


 人は都合の悪いことはすぐにわすれようとする。しかし、現実はそんなに甘く無いのだ。今、まさに死神の大鎌が振り降ろされようとしているのに…。


「いよっしゃー、勝った!明日も勝てるぜぃ!」久しぶりに万馬券をあて、譲二は五十万ほどの現金を手にした。今日も金を借りている先輩や後輩からの督促のメールや電話がひっきり無しだ。金融会社からも通告がきている。

 勝った金は、まずは自分が好きに遣う。

「久々に豪遊と行くか!まずはソープからだな!」高級風俗店から焼き肉店、キャバクラと豪遊して回った。もう、深夜の1時頃だろうか?

 酔った千鳥足でテナントビルの中に迷い込んだ。何となく押した7階でエレベーターから降り薄暗い通路を歩いていく。


 スナックやラウンジが並んでいる。突き当たりまで歩くと目の前に分厚く重そうな木製の扉がある。真っ白な字で扉の横の看板に書かれてある。「Bar 月下美人?」美人がいるのか?そいつぁいい。重い木製の扉を開けた。

 店内は薄暗く、カウンターの上に透明なフィラメント電球が並んで灯っている。使い込まれた木造りのカウンターはマホガニー製か?カウンター10席ほど、奥に四人掛けのテーブル席が2つ見える。カウンターには白い口髭を携えた老紳士、奥のテーブルには赤いワンピースを着た女性と黒いスーツを着た男、もう一つのテーブルにはOLらしきダークなパンツスーツの女性が二人。

「いらっしゃいませ。」大きく胸元が開いた黒いロングドレスに左脚の正面の付け根まで入った深いスリット、胸まである長い髪に切れ長な瞳、玉子型の顔の整った上品な面立ちなのに、熟れた赤い唇がどこか淫猥に見える。「おお、ママさんか?美人だねぇ。」薄い笑みを浮かべたマダムが微笑む。「こちらへどうぞ!」カウンターの真中あたりの席に案内された。

 正面には、スキンヘッドに立派な髭を携えた。体格のよいマスターらしき男がいる。夜なのにサングラスをかけ、レンズの下に猛禽類のような鋭い眼光が微かに見える。

「あんた、どこかで見たような気がするなあ?」譲二は頭をひねったが思い浮かばない。

 良く見れば太い首、肩の肉は丸く競り上がり、胸のボックス型の筋肉がバーテンダーベストを押し上げている。

 酔った勢いも合って少し絡もうかと思ったが、サングラスの下の猛禽類のような眼差しに目を反らした。

 さっきのマダムが椅子の右側に来た。「お客様のご来店予定は、まだ先で御座いますね。一杯呑まれたら、今夜はお帰りくださいませ。」「おい、俺をおちょくっているのか?」右手をドレスの深いスリットに挿し込んだ。下着の感触が無い、冷たい湿り気と濡れたような肌の感触に驚いて手を引っ込めた。

「あらあら、坊やったら、おいたしたらめんめですよぉ」赤く淫猥な唇が吊り上がる。

「坊やってあんたら…。」

「自分の人生すら上手く生きれない貴方はまだまだ大人にはほど遠い坊やよ。」マダムがにんまりと笑う。

「今日はもう帰りなさい。人生に迷ったらちゃんとここに来るのよ。」「い、言われなくても、帰るよ」何故だが悪寒がして声が震えた。

 酔いはすっかりと覚めていた。


 マホガニーのカウンターの上に腰掛けて、スリットから露出した長い脚を見せつけるように組んでいる。黒くて長い髪、赤く淫猥な唇が葉巻の煙を吐き出す。カラカラとグラスの氷を鳴らしながら、琥珀色の液体を口に運ぶ。

 「変ねえ?島原さんはまだ先の来店予定なのに、何で今日来たのでしょうね?ね、マスター。」スキンヘッドのマスターは、グラスを拭きながら何も答えない。客が帰った店内では、いつもこんな会話がされているのだろうか?

 マダムは脚を組み直し、葉巻を持った右手で空いたグラスをマスターの前に滑らせた。ゆっくりとマスターの前に止まる。マスターがグラスを取り氷を捨て、新たに氷とアイラモルトのスコッチ入れ、マダムへとカウンターの上を滑らせる。ゆっくりと右腿の手前で止まる。

「アプリのバグかしらね?前も似たようなことあったし、早めにやっておきましょうね!」マスターに声をかけるが、こちらを見るだけで他に反応が無い。


 譲二は朝から競馬場に来ていた「今日も、元手はあるし、万馬券とるぞ!」 昨夜の残りが二十万ほどある。ギャンブルは元手が多いほど有利だ。

 LINUの通知の音が何度も鳴る。内容のほとんどが借金の督促だ。「ギャンブルがダメでも

 俺はまだまだ有名人だし、ちょっと頑張りゃ借金くらいすぐ返せるのに…。いちいちうるせえ!」

「お?Bar 月下美人って、昨日のあの店か?あまり憶えてないが、スゴい美人のママが居たよな。あと、辛気臭いスキンヘッド野郎と。」

 クリックしてトークを見る。「昨夜は、大変失礼を致しました。ご都合が合いましたら、明晩22時にこちらにお越しください。」

 続いて住所が送られて来た。「俺、LINUなんで交換したっけ?まぁ、いいや。あの美人ママに相手して貰えるなら…。」

 大穴こそ、当たらないものの第七レースまでは、ややプラスだった。以降、最終十二レースまで外し続け、手元には十万しか残らなかった。

「かー、今日はダメかよ!あの予想屋、五千円も取りやがって!」ハズレ馬券を投げ捨て、譲二は競馬場を後にした。


 適当に入った居酒屋で腹を満たしてから、LINUに届いた住所へと向かった。「あれ、この前はテナントビルの中だったよなあ?こんな路地じゃないよなあ?」スマホのマップを見ながら路地の突き当たりへと着いた。重そうな木の扉、横の看板には白い文字で「Bar 月下美人」と書かれてある。「ん?ということは姉妹店かな?」重い扉を開けて中に入る。

 店内は薄暗く、カウンターの上に透明なフィラメント電球が並んで灯っている。使い込まれた木造りのカウンターはマホガニー製か?カウンター10席ほど、奥に四人掛けのテーブル席が2つ見える。カウンターには白い口髭を携えた老紳士、奥のテーブルには赤いワンピースを着た女性と黒いスーツを着た男、もう一つのテーブルにはOLらしきダークなパンツスーツの女性が二人。「いつも、同じ客がいるのか?前も見たような気がする。」

「いらっしゃいませ。島原様、お待ちしておりました。」V字型に大きく胸元からへそあたりまで開いた赤いロングドレス、胸まである長い髪に切れ長な瞳、玉子型の顔の整った上品な面立ちなのに、熟れた唇がどこか淫猥に見える。「おお、今日はセクシーだねぇ!」薄い笑みを浮かべたマダムが微笑む。右腕を両手で持ち「こちらへどうぞ!」カウンターの真中あたりの席に案内された。

「先日のお詫びに一杯奢らせて頂きますわ。」赤い唇が柔和に笑みを浮かべる、瞳の奥が銀色に反射しているように見えるのは気のせいだろうか?「ありがとうよ!俺からも一杯奢るよ!あんたもどうだい?」「あら、いいんですか?一杯10万円になりますけど…。」「えっ、そんな高いのか?」「色々と…。込みのお値段になりますので…。」「あー、そういうことね。」財布の中をまさぐる。「八万じゃダメか?ハハ、じゃ奢るのは今度にするよ!」

 マスターがシングルのシェイカーに手慣れた手つきで、氷、琥珀色の酒、青いリキュールと赤いリキュール、ライムを入れてシェイカーを振る。

 カウンターに置いたショートグラスに紫色の液体が注ぎ込まれた。マダムが右側に来てカウンターからグラスを目の前に置いた。すぐに呑もうと手を伸ばすと腕を抑えられた。「まだよ!坊や!」握った手が冷たい。

「ハハハ、坊やじゃねえぞ!そういうプレイなのか?」譲二は何かに不安を感じながらも笑って応えた。

「このカクテルを三口に分けて飲み干せば、1分間だけ貴方が思った過去に戻れるわ。」カクテルを右手に持った。「さぁ、目を閉じて…。戻りたい時間を思い浮かべて…。」一口呑んだ。「そうよ。いい子ね。」顎の下を冷たい手が撫でた。「戻りたい場面を浮かべて…。」二口目を呑んだ。「そうよ、次はそこから未来を浮かべるの?」右の肩に甘い薔薇の匂いと髪の感触がある。耳を噛まれているようだ。

「何かのごっこか?こりゃ、後が楽しみだ。」

 

 目を開けると眩しいスタジオのライトが目に入った。「それじゃ、島原さん!一万円、どう賭けますか?」見たことがある!あの番組の場面だ。「え、えーっと…。」紙に書いてあった三連単五通り各二千円の予想を線で消して、一万円一通りに書き直した。書いたパネルを正面に向けて「さん、にー、いちー、だー!」と有名プロレスラーの真似をしながら、置いた。

「島原さーん!それっ…。」「元気があれば馬も当たる!」スタジオが笑いに溢れた。眩しい光とともに遠ざかって消えていった。


「ねー、パパ!」隣に若い女が居る。ベッドで寝ているようだ。北欧家具で綺麗に整えられた広い部屋にいる。「ここは、どこだ?」「何言ってるの?パパの部屋だよ!」「いや、俺ん家じゃ…。」そうか、あれは真実で未来が変わったのか?

 慌てて飛び起きて部屋のカーテンを開けた。「ちょっとー、何か履いてよ!」ソファーにかけてあったタオル地のガウンを羽織った。テーブルには高そうな酒が二本並んでいる。

 かなりの高層階にいるようだ。「ここ何階?」「ボケてるー?36階!ねぇ、これ欲しいなぁ!見に行かない?」スマホの画面には百万円を超える高級ブランドのショルダーバッグが見える。「バッグに百万円って!高すぎだろ!」「先月、この指輪買ってくれたじゃん!いいよねー?」

 

 見覚えの無いスマホがなった。シーツを巻いた女が取って「はい、島原です!あ、サトシ?おはようー!お迎え?」スマホを口元から離して、「パパ、12時にお迎えでいい?」何のことかよくわからないが、「ああ。」と応えた。 

 一体、どういう未来になったんだ?訳が分からない。「シャワー浴びる?洗ってあげるよ!」金髪に近い髪色のこの女は誰だ?


 女が用意したダークスーツに、派手なネクタイを結んで貰ってガラス貼りのエレベーターに乗った。B2Fの駐車場まで降りると髪をきっちりとオールバックにまとめ黒縁眼鏡をかけた長身の男が立っている。目が合うと深々と頭を下げ、目の前に来るとようやく頭を上げた。

「社長、ミキさん、おはようございます!」「社長?俺が、何の社長?」心の中で呟いた。白い大型ベンツのドアが開き、後部座席に座った。「そのまま、会社でよろしいでしょうか?パパ、あれ先に見に行こうよ!」どうやらあのバッグのことのようだ。「いや、会社へ。」

 車は15分ほど走り、大きなテナントビルの地下駐車場へと入っていった。駐車場のエレベーターは、1Fにしか上がれない。ロビーに着くと受付らしきブースの二人の女性が立ち上がった。「島原社長、おはようございます。」深々と頭を下げる。「ああ、おはよう!」と手を振り、ミキに腕を引かれながらガラス扉の前に立った。右側のセンサーのようなところにサトシが手を置き、何桁かのナンバーを押すと、ガラス扉が両開きに開いた。

 エレベーターに乗り、フロアナンバーの下にあるさっきのようなセンサーに手を置くと、20F〜22Fまでの階のランプが光り、サトシは22Fを押した。

 社長室とドアの前で、今度はミキが手をかざす。ガチャっと音がして鍵が開いた。軽く二十畳はある部屋に幅3mは有りそうな木製のデスクと背もたれが長い革張りの椅子。デカいガラステーブルを囲んで四人掛けの黒い革張りのソファーが3台並んでいる。

 コンコン、ノックがした。「コーヒーとサンドウィッチはこちらで?」黒いスカートスーツを着た女性が巨大なデスクに置いていった。

 ミキはソファーに座ってスマホの画面を見ている。部屋に並んだ書棚の中に「島原人生記」という本を見つけた!趣味の悪い金色のスーツを着た俺が表紙になっている。座ってページを捲っていく。「どーしたの?今頃、そんなの見て!」「いや、ちょっと懐かしくてね。」「パパ、行かないなら、サトシ借りてっていい?」「ああ。」デスクに置いた長財布から黒いクレジットカードを抜いて、ミキは部屋を出ていった。

 俺は、あの番組で手にした。五千万を元手に芸人専門の金貸しをやっていたようだ。あれよあれよと儲かり、所属していた吉丸エンタープライズが超大物芸人の相次ぐスキャンダルやパワハラの内部告発で傾いたところ、株の25%を買い取り会社の救世主となった。

 やがて専務取締役に就任した。相次ぐ超大物芸人のスキャンダルで業界自体が騒然となり、経営危機から社長の海外資本の受け入れ派と専務の反対派に分かれ。全株式の51%を集めた私の専務派が勝った。私は、代表取締役社長になっていた。

 大株主に頭を下げて廻り、海外から投資を募って、会社を救った英雄のように本の中で祀り上げられている。

 コンコン、またノックが鳴った。ガチャっと音がして、男が入ってきた、白髪混じりのセンター分けに無精髭、透明な縁の眼鏡を掛けている。「カノウ演芸部長?」男が笑う「ハハハ、もう、いつも冗談ばかりだから!ちゃんと専務の仕事してますよ!」

「今度の興行のことで相談が…。」


 あのカクテルでこんな風に未来が変わったのか?あの1分間で…。仕事は、ほとんど専務や常務がこなし、夜の接待はミキが手伝ってくれた。最初は、楽しくて仕方なかったが、刺激が足りないのか、段々と退屈な日々に変わっていった。「ミキ、競馬観に行かないか?」「パパの馬が走るの?」知らなかったが競走馬も所有しているようだ。


「ちょ、ちょっと、パパ大変!テレビ、テレビ!」超大物芸人がまたしても事件を起こしている。しかも、うちの一番の稼ぎ頭だ。覚醒剤使用の罪で逮捕されている。これは、マズい。あの時よりも最悪な展開になった。会社にまで捜査の手が伸び、芋蔓式に大物芸人が検挙されていく。ミキは全財産を持って出ていった。芸人の覚醒剤を販売、後輩芸人に斡旋させた罪で、サトシが逮捕。それを指示したと、今度は俺に疑いがかかっている。そんな覚えはない!週刊誌には、黒い癒着として、広域指定暴力団組長、大物政治家、俺の名前が上がっている。ミキに促されて、確かにこの二人と数度食事をしているが…。

 俺は誰かに嵌められたのか?誰だ俺を嵌められたのは?思えば数年前に俺も前社長のスキャンダルを裏で捏造し、役員や株主に流した。でも、負けたヤツが悪い。

 このままでは、逮捕されるか口封じに殺される可能性もある。スマホが鳴った。知らない番号からだ迷ったが出た。「あんた、やってくれたね!」あの組長だ。「何のことですか?」「ふざけんな!お前のとこのカノウがチンコロしたんだよ!お前の愛人と組んでなぁ!」「そ、そんな!」「しら切るなよ!今から来い!逃げたらわかってるな!」ガチャリと電話が切れた。


「もう、終わりだ。知らないうちに麻薬密売まで、やっていたなんて…。」このままでは命が危ない!こんな未来なら要らない!前のほうがずっとマシだった。ギャンブルなんて、手を出さなけりゃ。

「そうだ、あの店だ!名刺か何か…。」財布の中にラベンダー色のショップカードがあった。「月下美人、以前にやり取りしたはずだ。」LINUのトークが消されている。店に行きたいからもう一度住所を教えてくれるように頼んだ。


 返ってきたのは神社の住所だ。ふざけてるのかと、憤りを感じたが、そんなこと言ってる場合じゃない。1Fに降りタクシーに乗って神社へと向かった。鳥居をくぐった瞬間空間が波打ち、あの店の店内に変わった。「いらっしゃいませ。坊や、どうしたの?」黒い着物に真珠色の帯を巻いたママが、淫猥な赤い唇を吊り上げて聞いた。「助けてくれ!金は払う!あのカクテルを一杯だけ!」「あら、あれは人生に一杯だけよ!それ以上は、引き換えに大きな犠牲が伴うわよ!いいの?」「このままだと、多分殺される。」

 前と同じようにカウンターの席に案内された。相変わらず無言なままのマスターが慣れた手つきでシェイカーをふり、ショートグラスに深い青色の液体を注いだ。液体のなかに白いうねりのような濁りがあって、まるで何かの生き物のようだ。

「本当にいいの?」何故か笑みを浮かべているマダムが見つめている。

 一口、二口、三口…。


 目を開けるとスタジオのライトが眩しい。

 「それじゃ、島原さん!一万円、どう賭けますか?」見たことがある!あの番組の場面だ。「え、えーっと…。」紙に書いてあった三連単五通り各二千円の予想の一つ「3ー2ー1」を線で消して違う組み合わせを適当に書き、二千円五通りに書き直した。書いた面を正面に向けて「さん、にー、いちー、だー!」と有名プロレスラーの真似をしながら、パネルを正面に向ける。「こ、これできっと大丈夫だ。」

 再びスタジオのライトに包まれ目を閉じた。


 再び目を開けるとマダムの顔が目の前にあった。「島原様、そろそろ閉店時間なので…。」

 無口なマスターが蓋の付いたガラスの保存容器をカウンターに置いた。レバーだろうか?赤黒い。上からジンを注いで何かのハーブとオレンジの皮、乾燥した枯木のような物を入れて、軽く振る。薄く赤く濁っていく。「ま、まさか…。」「安いもんでしょ!ちょっと疲れやすくなるだけよ。ウフフ。」マスターがこちらをチラリと見てから、カーテンが掛かった棚の最上段に瓶を置いた。同じような瓶がいくつも並んでいる。

 冷たい汗が額から落ちてきた。「あらあら、坊やったら…。」マダムが白すぎる手で持ったおしぼりで拭ってくれた。

 「マスター、半年位かしら?」マスターが鋭い眼光のまま、無言で頷いた。「な、何のことだ?」「ウフフ、坊やにはまだ早いわ。もう、ここに来ちゃダメ。」


 また視界が光に包まれ遠ざかっていく。眩しすぎて、目を閉じる。再び開けるのがあまりにも怖い。

「パパっ!パーパ!」幼い子供の声がする。リビングのソファーに座っている。「パパっ!パーパ!」二歳位だろうか小さな女の子が腕を引っ張っている。目の前にエプロンを付けた美しい女性が膝まづいて、缶ビールとグラスを置いた。

「吉岡聡美、さん?」「もー、家の中までボケないで!」にこやかに笑っている。「パパ、お疲れだから、そろそろ寝ましょうね。」なだめながら抱きかかえ、奥の部屋へ連れていった。

「御飯作りますから、ちょっと待ってて。明日、早いの?ロケだったっけ?」よくわからないまま。「はい!ロケです!」「きゃははは、もうボケないで!今日ね、近所の…。」世間話が始まった。


「もういい、忘れてしまおう。」

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