Bar 月下美人

神虎

第1話 Adulutery

 「ようこそ!人生に迷える仔羊達よ!人生は常に選択の連続、間違いは誰もが犯す過ち。今宵、貴方は迷える仔羊。私は手を差し伸べる者。貴方が選んだ手は悪魔の手、それとも天使の手?過去に戻って間違いを正せるなら貴方はどちらの手を選ぶ?まぁ、どちらの手を選ぶにもそれ相応の代償が必要だわ。貴方が代償にするものは何?それは自分自身、それとも違う誰か?どちらでもいいけど…。今宵は幻、お楽しみなさい。」


 「さようなら、あなた。」今朝、妻の梨花が娘を連れて出ていった。テーブルの上には、離婚届けが置いてある。梨花のサインは入れられて、俺のサインを入れれば離婚は成立する。「何てこった!」頭を抱えこんだ。まあ、でも自業自得だ。今更、どう弁解していいものやら、解るわけもない。会社にも出勤したくない気持ちだが、どうしたらいいのだろうか?だるい気持ちを抑えながら、顔を洗った。


「おはよう!遠山君!梨花さんは元気かね?」よりによってこんな時に仲人を務めてくれた営業部長とエレベーターで一緒になった。「は、はあ、まあ、それなりには。」梨花を説得出来なければ、数日後には離婚の報告をして頭を下げなければならない。「君の係から出してくれた新しい企画がね。役員会議で通るかもしれないよ!次の課長候補なんだから頑張ってね!上手くいったら、飯でもいこう!」肩をバンと叩かれる。「あ、ありがとうございます!宜しくお願いします!」期待されているような話をされると益々、居場所に困る。


 営業フロアで一緒に降りて、営業一部一係の五つ並んだデスクの一番奥に座る。「はぁー!」「おはようございます!係長、どうしたんですか?朝から溜息ついて…。」私の机にコーヒーを置きながら、心配そうな顔で柏木理絵が見つめている。「いや、何でもない。ただの呑み過ぎだ。」係の責任者として部下に心配される訳にはいかない。簡単に部下のスケジュール確認と、簡単なアドバイスを送る。シンプルだが粘り強いのがこの係の良さだ。

「柏木は私と、あとは主任がまとめて。」テリトリーを分けて、営業に繰り出す。私は、主に現在の顧客を担当し、繋がりそうな枝葉を作り、部下達は飛び込み営業で顧客を探す。大口になりそうな見込み客があれば、私がフォローにまわるというシステムだ。

 会社の商品は、事務機器から作業ロボット、ソフトウェア開発である。

各係に営業車が1台ずつ、主に飛び込み部隊が使う。私は柏木理絵と自家用車のアウディに乗り込む。理絵が運転する私の左手を取り、右の太腿へと導く。「おい、今からクライアントのとこだぞ!」「今夜は、どうするの?」パンスト越しに柔らかな太腿の感触を楽しむ。更に付け根のほうに誘導される。「明後日から生理なんだけど、どうする。」理絵が股を開く。


 こんな関係が始まってもう三年になる。妻の梨花が妊娠し、五ヶ月目に入った頃、理絵は新入社員として入社し、私の係に配属された。強気で物怖じしない性格で、頭も良く、新人なのに営業の素質があった。私は理絵をトップセールスに育てることにした。営業成績でトップを取り続けるには、色んな智恵と努力、そして情熱が必要だ。最初は、一緒に飛び込み営業に回る。夕方に社に戻り、売上の処理、顧客データと見込み客リストを入力する。ソフトウェア関連はSEと打合せをする。レベルアップが必要と判断すれば、社に残して研修したりする。


 理絵は厳しい日々にも喰らいつくように付いてきた。研修で終電で帰る日が一週間続いても音を上げたりしない。ミーティングでの提案も多い。今、上に上げている企画も彼女が考案したものがベースになっている。男子顔負けのパワフルさだ。

 ソフトウェア納品時にトラブルが発覚し、月曜に再納品となり、休日の土曜日に担当SEを呼び出し、付きっきりで打合せしながら作業する時も「私の担当なので。」と昼から出社してきた。トラブル修正が終わったのが、夜中の3時で、SEは奥さんに迎えに来てもらい帰宅したが、私と理絵は社に残った。

 高額案件なので、トラブルによる値引き決裁が私では難しく。日曜だが、朝一に課長に指示を仰がねばならない。

 理絵と近くのコンビニに行き夜食を買って社に戻った。「あ、ふぅー。」「大きな欠伸だな、はは、まぁ、こんなこともある。」「すいません。私の案件なのに。」「俺の仕事は部下のケツ拭きだから!」「係長、それセクハラになりますよ!(笑)」「あははは!とりあえず、何とかなって良かったな!」「係長、本当にすいません。身重の奥様も居るのに。ごめんなさい。」頭を軽く撫でると強気な理絵がボロボロ泣きだした。膝の上の手を握り締め、震えながら、大粒の涙を溢している。大きな愛らしい垂れ目から次々と落ちてくる涙が不思議なほど綺麗に思えた。

箱ごとティッシュを渡した。「おい、ラーメン伸びるぞ!」「はい、すいません。」暫くはグズる理絵を見ながら無口で夜食を摂った。

「あとは俺がやっとくから始発で帰りなさい。」「嫌です!最後まで付き合わせてください。」「課長にたっぷり説教されるぞ!」「私の責任ですから。」「やっぱ、いいな柏木は!」笑いながら頭を撫でた。

「じゃ、応接室でちょっと寝るか?」四人掛けのソファーに横になった。

 朝八時に課長に電話をし、何とか決裁にこぎつけた。金額を修正し、クライアントの担当者に連絡を取り、全てを終えたのが朝の十時頃だった。「さて、帰るか?」理絵と並んで駅に向かう。「あれ、係長、車は?」「ああ、家に置いて来た。渋滞だと困るしね。」最寄り駅が理絵と同じ方向で並んで座った。「係長?私次で降りますけど!」理絵に起こされた。最寄り駅は、30分ほど前に通り過ぎていたようだ。

「私の家で休んで行きます?折り返しの電車暫く来ませんし…。」通常なら帰る判断のはずが、眠気でぼんやりとしていたようだ。

 理絵は実家暮らしと以前聞いていたし、徹夜になったから親御さんにもご挨拶しておこう。理絵が不思議な顔をしていたが、駅前のショップでケーキを買って、彼女の家へと向かった。

 着いたのは普通の賃貸マンションだった。エレベーターを降りた。「ちゃんとご挨拶しとかなきゃな!」「えっ?私、一人暮らしですけど…?」「引っ越したって言いませんでした?」「すまんすまん!じゃ、これ?」ケーキの箱を渡して帰ろうとすると「こんなに食べれないですよー!お昼、これにしませんか?」このまま帰って、身重の梨花に食事を作らせるのも何だし、休日に一人でかき込むのも何だか淋しい。

 理絵に促されて部屋に入る。「お邪魔しまーす!」一人暮らしの女性の部屋に入るのは、何年ぶりだろう。良い香りがする。リビングの家具類も壁面収納で綺麗にまとめられている。ベッドルームへの扉が開いていて、部屋干しの下着類が見えた。「きゃー、ちょっとこっち見ないで!」理絵が慌てて部屋に入りドアを閉じた。「着替えるので、ちょっと待っててください。」赤いTシャツとグレーのニットのショートパンツで部屋から出てきた。「ケーキすいません!先に話しておけば良かったのに。」「たまにはランチにケーキもありだな!」ソファーに並んでケーキを頬張った。

「じゃ、そろそろ帰るかな!」立ち上がろうとすると左手を掴まれた。「もう少し居てください。奥さん身重で落ち着かないって言ってたし。」「ちょっと寝てからでもいいんじゃないですか?」「ビール一本呑んで寝たらスッキリしますよ!」溜まった疲れにも押されて、ソファーで横になった。妻には「トラブルでいつ帰れるかわからない。」とLINUしてある。少々遅くなっても問題ないだろう。


 ガチャっと音がして、目が覚めた。「あっ、起こしちゃった!ごめんなさい!」白いバスタオルを巻いた理絵が目の前にいる。一瞬夢でも見ているのかと思った。時計を見ると17時だ。連続してソファーで仮眠を摂ったせいか首周りが痛い。起き上がって、付け根をもみながら首を回す。理絵が後ろに回って肩を揉む。「わっ、ガチガチじゃないですかぁー!後でマッサージしますから、お風呂入ってください。お湯張ってますから、どうぞ!」「いやいや、さすがにそれは…。」「いいから、早く入ってください!」

 本音で言えばすごくありがたい。「ここに着替え置いておきますね。」「?」「彼氏のか?」風呂から上がると白いTシャツと新品のトランクスとストライプの入ったニットのショートパンツが置いてある。「係長のお洗濯中ですから…。」目の前の洗濯機が回っている。

「乾燥も出来るんで、すぐ乾きますよ!」風呂場から出るとベッドへうつ伏せになるように促された。腰あたりから背筋を中心に揉んでくれる。「痛くないですか?」「うんうん、気持ちいい。」「ガチガチですね!オイル使いましょう!」「えっ?」「アロマオイルです!私、学生時代、マッサージサロンでバイトしてたんですよ~!」バンザイしてTシャツが脱がされた。温められたオイルが気持ちいい。最初はベッドサイドから揉んでいたが、「係長大きいから…。ちょっと上に乗りますね。」俺の尻の上に乗り再びマッサージを始めた。痛気持ちいいというか、何とも言えない感覚に再び眠りに落ちてしまった。「えーっと、仰向けになって。」仰向けになって、鎖骨の周りから両肩へと揉まれていく。「上に乗りますね。」太腿の付け根あたりに乗った。彼女の股間の温度が伝わる。これはヤバい。最近、妻が身重で長らくセックスしていない。抑えてはいるが…。「ちょっと柏木、ありがとう!もう、十分だから…。」「ダメです!最後までちゃんとやらせてください。」顔にタオルが置かれ、マッサージの心地よさと疲れにまた眠りに落ちてしまった。

 気がつけば、下半身に温かい何かが這い回っている。夢の中か…。いや、違う!タオルを取って目を開けると目の前に理絵の股間が迫っている。梨花?状況が飲み込め無かった。

「あっ、起きましたー?係長の元気になっていたから!」「おい!ちょっとマズいって!」「もう、同じでしょ!」払いのけようとすると「痛!」強く掴まれた。「あはは!これもマッサージの続きですから!」ヤバい!気持ち良すぎる!快感から逃れられない。

「俺、嫁居るからダメだ!」「奥さん身重でしょ!奥さんの代わりと思って!」理絵が口を離してこちらを向いた。どけようとすると両脇を親指で強く突かれた。痛い!腕が動かせない!

ヌルっていう感触とともに中に入ってしまった。「さっ、仕上げですから!今更だから楽しんで!お願い!」確かにここまで来たら同じだ!梨花への罪の意識は薄れて、細い肢体を夢中で抱いた。一緒に風呂に入り湯船の中でまた始まり、再びベッドで抱いた。

 ショーツ一枚の上にエプロンを付け料理をする後ろ姿を見ながら、梨花へLINUを送った。「トラブルが重なって、大阪まで行くことになった。すまん!明日、帰る。」「愛してる!」罪の意識に苛まれながらメッセージを送った。


 ハンドルを握りながら、付き合い始めた日を思い出していた。「ねっ、聞いてる?」「今夜は、ちょっとマズいかなぁー?」「じゃ、早めに終わったら帰りにホテルは?」


 妻の梨花に怪しまれ一度は別れたが、理絵から強引に言い寄られ、拒否したら自宅まで行って身重の妻と話すと詰められた。理絵と過ごす蜜のような時間は、互いが溶け合うようで、快楽に溺れた。

 妻の梨花は半年ほど前から興信所に浮気調査を依頼していたようで、数日前の夕食後現場写真を並べられた。理絵に火の粉が飛べば会社にも居られなくなってしまう。「全ては俺のせいだ!」と床に頭を擦り付け何度も詫びたが妻が選んだ結論は離婚だった。

 実家も裕福だし、生活に困るようなことも無いだろう。今、走らせてるこのアウディも外車のほうがカッコいいからと妻が半分出して購入した車だ。


「いや、お前んとこ泊まるよ!」「やったー!お泊りは久しぶりね!週末なのにいいの?」「嫁は実家に帰ってるから。」


 もう、ヤケクソだ!理絵をめちゃくちゃに抱いて気を紛らわそう。ろくな考えが頭に浮かばない。


 離婚届を提出した。弁護士を通じて、離婚の条件が提示された。賠償金500万円、養育費は要らない代わりに二人との面会不可、連絡は全て弁護士経由。アウディはそのままこちらで所有しといいという内容だ。


 自宅に戻り、ドラマみたいに何もかも壊してしまいたくなったが、あと片付けを考えると面倒になりやめた。結婚を機に購入した4LDKがこんなに殺伐とした空間に変わるなんて、夢にも思わなかった。

 いつも愛する家族の為にと思って、どんなに苦しくても歯を食いしばって耐えてきた。浮気がそんなに…。これほどの代償を払わなければならないのだろうか?

 買って来たコンビニの弁当をあてにビールとウイスキーを呑み始めた。


「おはようございまーす!」会社はいつもと何ら変わらないが、心なしか理絵と二人きりを遠ざけている。この幸せだった家庭を壊した原因を理絵に追及したいのだろうか?あれは、誘惑なのだろうか?断っていれば、どうなっていた?色んなことが頭をめぐる。理絵をどこか恨んでいる。ここ数日は、ずっと、こんな感じだ。


「柳井君、ちょっと。」課長に呼び止められた。「この数字あってないんじゃないか?ちょっと、調べて返事くれ!」「最近、ボーっとしてるぞ!夏バテか?カミさんにスタミナ付くもん食わして貰えよ!」最近、毎朝のように二日酔いで集中出来ていない。


 散々悩んで、一つの結論に行き着いた。いっそ、全部無かったことにして、理絵と一緒に新たな家庭を築けばいいんじゃないのか?一度別れたとはいえ、もう付き合って三年になる。

 貯金は無くなったが、食べさせてやれる程度の収入はある。


「今日は柏木は俺と、あとは主任の指示で動いてくれ!月末まで、全力で行くぞ!」「はい!」


「最近、私を避けてたでしょ?何かあった?奥さんにバレたとか?」女の勘ってヤツは鋭い。運転しながら、離婚に至った経緯を話した。「ふーん、そうなんだ。」喜ぶと思っていたが、まるで他人事のような反応だ。「あれ?喜ばないのか?」心でつぶやく。「今日、終わったら、晩飯行って、泊まってもいいか?」「今日は、ちょっとダメかなー?」「何で?」「友達が来るし。」


 2軒ほど打合せに回り、定食屋で昼食を摂りながら、話を続けた。「俺んち広いし、お前が良ければ一緒に住まないか?」絶対に喜ぶと思って、思い切って言ってみた。

「何か違うんだよね。私、奥さんと別れてなんて一言も言ってないし、幸せな家庭を築いているから、カッコいいなって思ってた。」「でも、家に行くって言ったら、お前いつも喜ぶ…。」途中で言葉が遮られた。「私にすがりたいの?何か、魅力無くなったね。」

 車内に冷たい空気が流れたまま、帰社した。


「柳井君か?」営業部長から内線が鳴った。「君、離婚したんだね!」まだ、人事にも言ってないのに?梨花から連絡があったのか?

「君が気にすると思ってね!言わなかったけど、梨花さんの父親は私の大学時代のラグビー部の先輩でね。大変、世話になった人なんだよ!」「せめて離婚する前に一言くらい相談して欲しかったね!とんだ恥かいたよ!」頭から氷水をぶっかけられたような気分になった。「せっかく期待していたのに残念だ。」目の前が暗くなった。足元から何かがゆっくりと何かが崩れ始めた。


 暫く理絵と二人での行動は避けた。離婚したことは人事にも伝えたが、社内で噂が立っては出世に響きかねない。もう一度、奮起して彼女が惚れ直すようにしたい。

 一ヶ月ほど仕事だけに打ち込んだ。部屋はホームヘルパーを週二回来て貰うようにして、元通り綺麗に片付いた。作り置きしてくれる食事もあり、酒も禁酒した。


 ある夜、クライアントの接待後、駅への道を歩いていると、前に楽しそうにいちゃつきながら歩いているカップルがあった。さっさと抜こうと近づいたら、左側の女が右側の男のほうに向いた。ショートカットに垂れ目の大きな瞳、見覚えのある横顔、理絵だ。距離を取って、尾行を続けた。人気の無い川辺りの遊歩道に入って行く。理絵が男の左腕を抱きかかえるようにして歩いている。橋の真下にあるベンチに座った。横に向いてキスをし始めた。軽い喘ぎ声が聞こえる。理絵の身体をまさぐっているようだ。「ここじゃ、嫌よ!シャワーも浴びたいし!」立ってこちらに歩いて来た。逃げるのもしゃくだから、そのまますれ違った。理絵は目も合わせずに通り過ぎた。


 どちらからでもなく、理絵との蜜月は終わりを告げた。同じ係に在籍する苦痛さと疎外感からから、再び仕事に向かう熱がどんどんと冷めていった。その名の通り営業部一番の係が、今や五番目まで落ちた。部下との信頼関係も徐々に薄れ、一係は今や理絵を中心に営業展開している。私は、もう彼等に必要ないのかもしれない。

 営業部長代理に辞令があるからと呼ばれた。「トップセールスの君も最近、壁にぶつかっているようだし、ちょっとクールダウンしてきたらどうだ。」商品管理部へ移動の辞令が来る。

商品管理部の社屋は、海べりの倉庫街にある。大量の商品を並べておくのに便利だからだ。

 体のいい左遷の仕方である。表には出ていないが、おそらく営業部長筋から、理絵との不倫が発覚したのだろう。もう、何もないというのに何ということだ。どこにぶつけていいのかわからない憤りに震える。


 明日から主任に業務を引き継ぎ、来週からは商品管理部で勤務することになる。もう、出世の目も出ないだろう。退職するか悩みながら、居酒屋で日本酒を煽る。「すいません!そろそろ閉店で…。」

 コンビニで買ったカップ酒を手に酔いながら歩いた。道も家もどうでもいい。迷ってもタクシーで帰ればいい。

 迷いながら適当に歩いていると、細い路地に入った。目の前に分厚く重そうな木製の扉がある。真っ白な字で扉の横の看板に書かれてある。「Bar 月下美人?」美人がいるのか?今日は潰れるまで、呑んでいたい。重い扉を開けた。

 店内は薄暗く、カウンターの上に透明なフィラメント電球が並んで灯っている。使い込まれた木造りのカウンターはマホガニー製か?カウンター10席ほど、奥に四人掛けのテーブル席が2つ見える。カウンターには白い口髭を携えた老紳士、奥のテーブルには赤いワンピースを着た女性と黒いスーツを着た男、もう一つのテーブルにはOLらしきダークなパンツスーツの女性が二人。

「いらっしゃいませ。」ホルターネックの白いロングドレスに左脚の正面の付け根まで入った深いスリット、胸まである長い髪に切れ長な瞳、玉子型の顔の整った上品な面立ちなのに、熟れた唇がどこか淫猥に見える。「こちらへどうぞ!」カウンターの真中あたりの席に案内された。

 正面には、スキンヘッドに立派な髭を携えた。体格のよいマスターらしき男がいる。夜なのにサングラスをかけ、レンズの下に猛禽類のような鋭い眼光が微かに見える。

 シングル用の小さなシェイカーを取り出し、氷を入れ、透明、紫、オレンジの液体を入れて最後にレモンを絞った。鮮やかな手つきでシェイカーを振る。カウンターの上にショートグラスを置き、キャップを外して赤紫色の液体を注いだ。マダムが席の右側に来て、グラスを目の前に降ろした。「さ、冷たいうちに三口に分けてどうぞ!」「これは、何というカクテル?」「懺悔です。」「聞いたことないね。いくら?」「10万円になります!」「ふざけるな!帰る!」

「坊や!お待ちなさい!」「坊やじゃない!」「自分の人生すら上手く生きれないのは、大人じゃないわ。幼稚な坊やよ!」キレそうになった。淫猥な赤い唇に薄っすらと笑みを浮かべながら、マダムは言う。「このカクテルはね。三口に分けて呑み干すと1分間だけ過去に戻れるの。貴方、最近過去の出来事をやりなおせたらって、思ってるでしょ?」「な、なんで、知ってる。過去の出来事が貴方の顔に出てるわ。まあ、嫌なら帰って、この店は一夜限りだけ咲き誇る月下美人。二度とは辿り着けないわ。」

「ほ、本当なのか?」「呑めばわかるわ。さぁ。」後ろから両肩に透明感を感じるほど白く冷たい手が置かれた。「目を閉じて。」耳元で囁かれた。甘い薔薇のような香りがする。「一口呑んで、戻りたい時間を想像して…。」カクテルはレモンの味しかしない。息がわかるほど唇が近くなった。「二口めは、戻りたい場面を思い出して…。」耳の穴を舐められている気がした。「そうよ、最後は一息に呑んで、理想の未来を想像するの…」

 目の前が真っ白に光った。光が止むと電車に座っていた。「まもなく◯◯駅、◯◯駅

 ー。」自宅近くの駅。隣の理絵がもたれかかっていた。「じゃ、また月曜に!」立ち上がると手首を掴まれた。「私、ちょっと気分が…。おぇっ、うっ。」「大丈夫か?」過渡のストレスのせいかと思い、心配になって背中をさすった。「家まで…」音楽が鳴りホームに出ようとしたが、間に合わなかった。

 再び目の前が真っ白になった。風景が変わっていき自宅のソファーで横になっていた。「あれは、夢だったのだろうか?」ガラステーブルの上に置いた財布の中にラベンダー色のショップカードが入っていた。店名の下にLINUのIDが表記されている。他には何もない。

 どうやら、俺は失敗したようだ。あそこで理絵の手を無理矢理にでも剥がして電車を降りなければならなかった!頭を抱えて悔やんだ。

 どうにかして、もう一度あの店に行けないだろうか?LINUのIDにトークを入れた。「柳井様、ご連絡お待ちしておりました。明晩、お越しくださいませ。」その後に住所が送られて来た。


 夜9時に指定されたテナントビルの前に着いた。LINUの通知が来た。7階の突き当たりにございます。そんな馬鹿な?寄っていたとはいえ、路地の突き当たりにあったことぐらいは憶えている。それとも、何店舗もあるのか?どこかを間借りしているのか?まあ、いい。行けばわかる。

 エレベーターを7階で降りた。出て右側にスナックやラウンジが並んでいる。重い木の扉を開けて中に入る。「柳井様、いらっしゃいませ。」今日は紫を基調とした着物に白い帯を巻いたあの時のマダムが深々と頭を下げている。スキンヘッドに立派な髭のマスターも、カウンターの老紳士、テーブルに赤いワンピースの女、黒いスーツの男、もう一つのテーブルにOLらしき二人。

 俺はいったいどこに来ているのだ?「前と場所が…。」「坊やに言ったでしょう。ここは月下美人、一夜しか咲かない花。」また同じようなカクテルが置かれた。「今度は間違っちゃダメ。二回目だから、ちょっと代償が伴うかもね。いい?」「ああ、もう何だっていい。覚悟は出来ている。」

 目を閉じてゆっくりと手順通りに三口で呑み干す。前回と違うことは三口めの時、マダムが右耳を噛んだことだ。


「じゃ、行ってきまーす!」あの土曜日の朝に戻っていた。「トラブルで土曜日に会社だなんて…。」「部下のミスは俺のミス」

 1分間しかない!走って駐車場へ行きアウディの運転席に乗り込みエンジンをかけた。ここまで50秒、何も問題ない。

 やはり渋滞で予定より1時間遅れて会社に着いた。担当SEと理絵がもう先に修正を始めていた。記憶にある過去より作業が少し遅れたが午前4時頃作業が終わり、担当SEを自宅まで送ることにして、理絵にはタクシー代として一万円を渡した。

 担当SEを送り、自宅へと向かう。これで、きっと大丈夫だ。運転しながら、猛烈な眠気と戦った。一瞬落ちていたようだ。気が付くと右から大きなトラックがクラクションとともに突っ込んで来た。俺は眩しいライトの光に包まれた。

 

「ここは、どこだ?俺は死んだのか?瞼を開けると白いが所々に茶色い染みが入った天井が見えた。顔の向きが変えれない。目線を下にやると、鼻と口に透明な何かが被せられている。両腕に何かが刺されているようだ。」

「あ、あなた!あなた!わかる?」妻の梨花がベッドの左側に座って、俺に声をかけているが夢の中に居るように遠くから聞こえているように感じる。

 また瞼が重くなった。また、柔らかい光に包まれていく。夢の中にあのマダムが現れた。美しい裸体が眩しいほどの光に包まれている。あの赤い淫猥な唇だけがやけに気になる。

 マダムは目の前まで近づき、にっこりと微笑むと、ゆったりと後ろに吸い込まれるように遠くなり、見えなくなった。


 次に目を覚ましたのは、朝だった。部屋の時計が7時を指している。ベッドのシーツを伝って優しい温もりを感じる。隣で背中を向けて眠っているのは梨花だ。「マーマー!」もうすぐ三歳になる娘がドアを開けて、ベッドに飛び込んで来た。「もー、もうちょっと寝かせてよー!」「ちょ、ちょっとなーに?」二人を抱き寄せた。涙が溢れた。「どーしたの?変な人。」「パーパ、ゆーえんちー。」「そうか、そうだったな!行こう遊園地!」起きて立とうとすると身体がバランスを崩して右側に倒れた。「大丈夫?ほら!」妻に支えて貰いベッドに座った。右膝から下が無い。どうやら事故で無くしたらしい。「ちゃんと義足付けなきゃ危ないでしょ!」


 テーブルに座り朝食を食べながら、聞いてみた。妻に「お前、あの書類は?」「何の書類?」「いや、何でもない。」「今朝からなんかおかしいわよ!大丈夫?」梨花が心配そうに見つめている。


 月曜に出勤するとエレベーターで営業部長と一緒になった。以前と同じ会話だ。義足の音が気になるが何とか普通に歩けている。机の前に着くと理絵が椅子を引いてくれた。


 退社後、礼を言おうとバーを探してあのテナントビルに行くが違う店に変わっていた。同じ階のスナックに入り尋ねてみるが、「あら、あそこはもう十年位同じよ。」。


 名刺にあったLINUのIDも無くなっていた。

 

 次の土曜日の朝8時にスマホが鳴った。うっかり音を切り忘れていたようだ。どうせ、セールスか怪しい勧誘だろうと画面を見る。

 

「係長、クライアントが注文した内容と違うって、話も聞いてくれないくらい激怒してて…。いっぱい問い詰めてくるんですけど…。ぐずぐず…。私ソフトのことわからなくて…。」


 


 

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