02 おきつね男子、ケンちゃん-05
カウンター越し、きつね男子が酌をしてくる。
注がれた日本酒は、ほわっと甘い。けれども、こういう飲み口の酒は要注意、ついつい飲みすぎてしまったら翌日に大変なことになる。
ふわーんとした心地いい酔いに、全身をまかせてみることも悪くないんだけどね。一応は社会人なのだから、やっぱり節度を考えましょう。
帰り支度をはじめたほうが、いいのかもしれない。そう思っていたころだった。
「茉莉ちゃん? もう酔っちゃったの?」
ほろ酔い同期が尋ねてくる。
「そうでもないんだけど、やっぱり眠たくなってきたみたい」
笑って肩をすくめると、残念そうな表情をされた。
「久しぶりに、同期と朝まで飲めると思ったんだけどなあ。しかも嫁入り前の、心憎からず思っている女性部下と夜明かしとか、生涯に一度くらいしてみたかったなあー」
わたしは冗談めかして言う相手の背中を「ぽかっ」と軽く叩いている。
「社内で変な噂になったら困るよ、お互いに」
「あはは。だってさー、同期がどんどん会社を辞めて行っちゃうんだもん。こんな俺だって、おセンチにもなっちゃうじゃない」
……この男、口調が少しずつ砕けてきている。
ヤバい。
いつも職場で見せている不愛想で謹厳実直っぽい雰囲気とは別人だ。
「東堂くん、帰ろうよ」
わたしは言った。けれども東堂は、首を縦に振ってくれない。
「帰っちゃったら、二度とケンちゃんと会えないような気がする」
ヤケに乙女チックな台詞を言いつつ、わたしとカウンター内側にいる店主をチラチラと見遣ってくる。
ケンちゃんは、こそばゆそうに背中をすくめた。
「大丈夫ですよ、こっちは。ちゃんと週に二回は、店を出しますから」
言われた東堂が上目遣いにケンちゃんを見つめて、ぽりぽりと頭を掻く。
「でも、この店自体は夜明けまで営業しているんだろう?」
「ええ。まあ」
うなずいたケンちゃんの頭上にある、きつねのお面が「かさっ」と音を立てた。
無機質なはずのお面が、どことなく困ったような、けれども反面とてもうれしそうな表情に見える。
おきつね男子を見ている東堂の頬も、ちょっぴり紅潮しているみたいだ。
わたしは、つぶやいてしまっている。
「なんだか、変なの」
すかさず東堂が、こちらに顔を向けてきた。
「なにか、おかしい? 俺」
「充分に、おかしいよ」
わたしの口元が、自然にゆるんでくる。
「東堂くんが仕事帰りに『ひとりで来るのは怖い』って言って、わたしを連れて来たのに……当の本人がケンちゃんと、決められていた運命の出会いを果たしたように感じてしまう」
「そうかもしれん」
同期入社で上司の男が、ぽつんと言ったあと。顔を下に向けた。
「やっぱさ、俺だって。どこか人恋しいのかもしれないよ」
「それは誰にでも、あることじゃない」
東堂の目線が、わたしにふたたび寄越される。
「
とても素直な、まなざしだった。
「言いたいことは、わかるよ」
わたしは椅子から上げかけていた腰を、幾分か下ろしている。
「けど現実的なことを言えば。わたしは明日も仕事があるの。東堂くんだって、そうじゃない」
東堂が「あはっ」と砕けた調子で、体を開く。
「明日は休んでいいよ。茉莉ちゃんは働きすぎだ。他の人が当日欠勤で空けた穴を、本来の業務外でも埋めていてくれてることも、ちゃんと知ってる」
「ありがとう、いい上司に恵まれました」
東堂は何度もうなずき、スーツのポケットから財布を出した。
「茉莉ちゃん確か、阪急沿線から通ってたよね。万が一にでも、終電に間に合わなかったら使って。あとで返してくれたらいいから」
向こうから、一万円札が差し出されている。ここは有難く受け取って、帰ろう。
客ふたりの遣り取りを黙って聞いていたはずのケンちゃんが、いつのまにか店の引き戸の前にいる。
わたしが立ち上がると、待っていたかのように引き戸を開けてくれた。
「茉莉さん。絶対に、また来てくださいね」
「はい」
駅へ向かう大通りまで、ケンちゃんが付いてきてくれている。たくさんの人が地下鉄へ急ぐ流れの手前で、彼はわたしに頭を下げた。
「茉莉さんが、来てくれてよかった」
「そ、そんな」
屈託のない笑顔は夜の街に、妙に不釣り合いだ。それが逆に、ケンちゃんの素直な感情を浮き立たせている。わたしは、まるで子どものように戸惑いながらも、明るい調子で右手を振った。
「ケンちゃんが、望んでくれるなら」
こちらの言葉に、ケンちゃんがにっこりと笑ってくれる。
駆け足で滑り込んだ最終電車の窓ガラスに、彼の表情がつぶさに浮かんでは消えていく。
あんなふうに。
わたしがいることを無心に待っている人の笑顔を見たのは、一体、どれくらいぶりだったろう?
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