第三話 新しい訪問者
――ヒツジの鳴き声で目を覚ましたリーガンは、ゆっくりと体を起こした。
目の前には鍋が見え、パストラが朝食のスープをよそっているのが見える。
「おはようございます、リーガンさん」
「おはよう……って、ごめん! パストラ一人にやらせちゃって!」
リーガンは慌ててパストラの手伝いを始めた。
家屋内にはファノの姿はなく、どうやら話によると、朝から近くの町に物を売りに行っているようだ。
遊牧生活では牧畜を主に行っているため、ミルク、毛皮、肉などを入手することは簡単だが、穀類や、野菜、高度な工芸品を安定して手に入れることは非常に難しい。
そのため、遊牧民はその移動する特性を生かして岩塩や毛皮、遠方の定住地から遊牧民の間を伝わって送られてきた品物などを運び、定住民と物品交換を行うことによって生活必需品を得ている。
一見素朴な自給自足生活を送っているような遊牧民も、実は馬や羊、牛などの商品性の高い家畜を売り買いして生活を成り立たせているのだ。
正確にいえばパストラとファノは二人だけで暮らしているので遊牧民ではないが、彼らの生活はそれと同じノマドスタイルである。
「うわッ!? ちょっと!? いきなり後ろから来ないでよ!?」
リーガンがスープをよそっていると、ヒツジたちが家屋に入ってきて彼女に頭を擦りつけていた。
驚いて大声を出したリーガンを見て、パストラは嬉しそうにヒツジたちの体を撫でている。
もうこの暮らしを始めてから数週間が経ち、最初は文句を口にしていた彼女だったが、今ではもうすっかりここでの生活に馴染んでいた。
ヒツジたちが懐いているのがその証拠だ。
それからファノが戻り、三人で鍋を囲って朝食を取る。
スープにはラム肉やガーリック、様々な野菜やパンなどが入っており、飲み物はシープミルク、さらにはそのミルクを発酵させたチーズだ。
この時代の平民と比べると、朝からずいぶんと栄養たっぷりの料理である。
もちろん味も素晴らしく、最初は慣れない食事に怯んでいたリーガンも今ではすっかり虜になっていた。
ファノとパストラが料理上手というのもあったのだろう。
彼らが住むこのゴルゴダ大陸ではめずらしいものだが、味にうるさい人間でも納得させることができる料理に仕上がっている。
「さて、食事も済んだし。そろそろ行きましょうか、リーガンさん」
朝食を終え、後片付けをしたパストラがそういうと、リーガンは彼と共に家を出た。
それは、これから次の放牧地帯へと移動するためだった。
遊牧民の生活は移動するのが常である。
それは数十匹はいるヒツジたちの食事を得るためであり、つまりは同じ場所に居続けると食べる草がなくなってしまうからだ。
パストラとファノはヒツジたちにひもじい思いをさせないために、毎日良い草を求めて動いている。
それは、ヒツジたちが彼らの生活の中心であることに他ならない。
食事に着ている服、さらには町や村で得る物資も、すべて飼っているヒツジたちから得るもののおかげで彼らは暮らしていけているのだ。
「じゃあ、俺は家屋のほうを片付けておくよ。いい場所が見つかったら教えてくれ」
「うん。じゃあ行ってくるね、父さん」
ファノと言葉を交わし合い、パストラとリーガンはヒツジたちを連れて移動を始めた。
普通の放牧は、牧場で放牧している家畜の群れの誘導や見張り、人間による盗難やオオカミなどの捕食動物から守るように訓練された
だがリーガンの言うことはまだ聞かないようで、彼女をからかっているのか、たまに足を止めては囲んで挟んでは鳴いていたりする。
「とっても好かれてますね」
「いや、これは舐められているっていうんじゃないの……。あぁッ! もうさっさと歩いてよ! 日が暮れちゃうでしょ!」
声を張り上げたリーガンに向かって、ヒツジたちは「まだ遊び足りない」と言いたそうに鳴き返していた。
ここらの地域は気候も良いのだろう。
見上げれば青空。
そこには大きく真っ白な雲に輝く太陽。
吹く風も穏やかで、都市の喧騒などとは無関係だった。
ゴルゴダ大陸では今でも聖グレイル協会の異端審問官たちが各地へと派遣され、日夜、異端術師や悪魔との命懸けの戦いを続けているが、この緑に覆われた平原はまさに平和そのものだ。
「よし、今日はここにしましょう」
「えッ? いや、私には今まで歩いてきたところと何が違うのかわからないんだけど……」
「ヒツジたちを見ればわかるでしょう。ほら、あんなに美味しそうに草を食べてますよ」
しばらく平原を進み、今夜の家屋を立てる場所が決まった。
パストラはファノを呼びに行ってくると言い、リーガンにヒツジたちを任せてその場から去っていく。
心地良い風に吹かれながらリーガンは思う。
ヒツジたちが草を
パストラは悪魔憑きだが、こんな大自然の中で穏やかに暮らしていればこそ、自我を失わずにいられるのかもしれない。
「それにあの子……歳のわりに大人びていて、礼儀正しいしね……」
さらに言えばファノの育て方が良いのだろう。
パストラは、とても恐ろしい悪魔が体の中にいるとは思えないほど善良な少年だ。
むしろ都市部に住む人間たちのほうが己の欲望に忠実で、さらには他人に向けて嫉妬や敵意をむき出しにする。
「なんか……私も幸せな気分になってきたなぁ……」
この生活は悪くない。
このまま異端審問官を辞めて、パストラとファノと一緒に羊飼いになって暮らしたほうが幸せかも……。
リーガンは、ここでの生活をしているうちにそう思い始めていたが――。
「って、なに満ち足りてんだよ、私はッ!」
そんな自分の考えに突っ込みを入れていた。
それは、もし誰かが見ていれば、彼女がおかしくなったと思うほど激しい独り言だった。
「あれは、格好からして同業者のようですが、空に向かって何を叫んでいるんですかね……」
いや、一人で喚いていたリーガンのことを見ている者はいた。
その人物はゆっくりとした足取りで、彼女の背後から忍び寄る。
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