第二話 遊牧の始まり

慌てて仰け反った彼女に、黒髪の少年は青い目を細めて言う。


「大丈夫ですよ。こいつは喋るだけでなにもできませんから」


「喋るだけってあなた……もしかしたら、悪魔憑きなの……?」


リーガンは異端審問官だ。


彼女はこれまで教会の職務で悪魔祓いをしてきた経験から、少年の体に悪魔が住みついていることを理解した。


しかし悪魔憑きの多くが闇の魔力を持ち、悪魔に操られて自我を失っているのだが。


少年からはそういう邪気というか、悪魔の力は感じられない。


リーガンがこれは一体どういうことだろうと思っていると、少年は彼女に答える。


「そうなんですけど、詳しいことは父から聞いてください。これから案内しますから」


「ちょっと!? 今話してよ! 大体悪魔憑きなのにどうしてあなたはそんな普通でいられるの!?」


声を荒げ、身構えながら訊ねたリーガン。


そんな彼女に少年は、少し困った様子で返事をする


「先にさっきあなたが訊いてきた質問に答えますね。僕の父はファノといいます。同じ名前の別人じゃなければ、多分だけどあなたが探している人かもしれないので……まあ、ついて来てください」


少年はそう言うとリーガンに背を向けて、ヒツジたちに声をかけて歩き出した。


リーガンは恐る恐るだが、ともかく彼の後について行くことにした。


今から十年前に突然姿を消した英雄の異端審問官。


そんな人物に手紙を届けるという仕事だったのだが、どうやら話は想像していたよりも深刻なものだったのかもしれないと、リーガンはいつ少年が襲いかかってきてもいいように、距離を取って彼の後をついていく。


それからしばらく歩くと、平原の中に家屋が見えてきた。


遊牧民が使用している伝統的な移動式住居である天幕だ。


「みんなはちょっと待っててね。すぐに戻ってくるから。お姉さんはこっちへ来てください」


黒髪の青い目をした少年――パストラはそうリーガンに声をかけると、家屋の中へと入っていく。


リーガンが中に入るのを躊躇していると、そんな警戒している彼女のことを、ヒツジたちが笑うように鳴いていた。


のどかな家畜の鳴き声のせいか。


リーガンは自分が馬鹿らしくなってきて、ため息をつきながら家屋へと入った。


「父さんにお客さんだよ。なんでも聖職者をやってる人みたい」


中へ入ると、パストラが地面に敷いた絨毯の上に座っている人物に声をかけていた。


くすんだローブを羽織った筋骨隆々の男が顔を上げ、家屋に入ってきたリーガンのほうへと視線を動かす。


「じゃあ、僕はヒツジたちとちょっと出てきます」


「まだ途中だったのか。気をつけてな」


男がそう言うと、パストラは家屋を出ていった。


去り際にリーガンに頭を下げていき、まだ小さいのに随分と礼儀正しいなと、彼女が思っていると――。


「聖職者というと教会の人間か。しかし、見たことのないお嬢さんだが、わざわざこんなところまで何の用かな」


男が口を開いた。


白髪交じりの髪で、ボロを纏っていてもどことなく品がある。


そんな仕草や言葉づかいから、この男が間違いなく英雄の異端審問官ファノだとリーガンは思った。


「急な訪問で失礼します。私は異端審問官のリーガン。おっしゃる通り、聖グレイル教会からあなたを探すように言われてきました」


「それは誰の指示かな?」


「私が口で説明するよりも、こちらを読んでもらったほうが早いと思います」


訊ねられたリーガンは、そっと背負っていた荷物から預かっていた手紙を出し、ファノへと渡した。


手紙を受け取ったファノは、表面についた封蝋ふうろうを見てその顔をほころばせる。


封蝋の印を見て差出人が誰かわかったのだろう。


それにしてもファノの表情は、なんだか子どもにイタズラでもされたかのような顔になっていた。


彼はそれから手紙を開き、内容を読み始める。


「お嬢さんはユダの弟子か」


「はい」


「ならさぞ大変だろう。あいつは努力しなくてもなんでもできるから、人に教えるのが昔から下手だった」


「そうなんですよぉ……って、それよりも手紙にはなんて書かれているんですか?」


「うん? お嬢さんは自分がどうしてここへ来たのかを知らないのか?」


リーガンがコクッと頷くと、ファノはガクッと肩を落として呆れていた。


さらに相変わらずだなとでも言いたそうな顔で、ため息までついている。


リーガンとしてはさっさと仕事を終えて、こんな何もない平原から自宅がある都市へと戻りたいところだったが――。


「やれやれ、十年も経って少しは大人になったかと思えばこれか。まあ、あいつらしいといえばあいつらしいが」


「えッ? だって私はあなたに手紙を届けろってユダ先生に言われて……それでここへ来たんじゃ……」


気の抜けた表情をしたリーガンに、ファノが言いづらそうに答える。


「手紙には、しばらくここで俺たちと暮らすようにと書いてある。まあつまり、ここで遊牧しろってことだな」


「えぇぇぇッ!?」


こうして若き異端審問官のリーガンは、何の因果かこの辺境の大地で、元英雄と悪魔憑きの少年と共に羊飼いとして暮らすことになった。

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