1-3
「――であるから、ここでの動詞の意味は異なるものに変化して……おっと、もうこんな時間か。何度も言うようだが、今日までやった他動詞と自動詞の内容は今回のテスト範囲で特に配点が大きいから、ちゃんと復習しておけよ。単語の方も今のうちにやってように。データベースのp50までだからな」
四限目の授業を知らせる鐘がなると英語の田中は板書を止め、ベージュのスラックスのポケットからウエットティッシュを取り出す。爪の隙間に付いたチョーク粉まで念入りに拭き取ると、いつもの悪い癖が出る。
「これも何度も言うようだが、一夜漬けなんてみっともない真似はするなよ。毎日の授業の復習さえやってれば誰でもできる問題なんだ。大体、いまどきの若い連中は教材ばかり買い揃えて満足して、学校の授業の価値を分かっていない。いいか、俺なんか金のなかった頃、中古で買ったよれよれの教材一つを何度も何度も……」
田中はテスト範囲の呼びかけにかこつけ、当時の自分が如何に努力し勉強をしてきたかを語りたがる。金が無かった、優秀じゃなかった、それでもK大に行き無利子の奨学金まで借りられるようになったと、耳が腫れあがるぐらいに聞かされた。英語に関係のない話も、価値ある授業の内なのだろうか?
『努力は必ず報われる』をモットーにこうして毎日教えを説くのは、将来教え子の中が有名国立大に合格し、同じ教師として共に働けることを願ってのことだそう。いかにも昭和のドラマに影響された、昭和生まれが抱きそうな夢だ。それならこんな公立こなくても、有名な私立進学校にでも行きゃあいいのに。
『努力は必ず報われる』なんて、誰でも知っている嘘を、よくもまあ平気でべらべらと語れる。これがオルゴールのような音色であれば、同じ繰り返しでも聞いていられるのに。私は途中から話に耳を傾けず、購買にいくため財布を準備していると、田中は何か思い出したように手を打った。
「おおっといけないいけない、忘れるところだった。今日はノートを回収する日だったな。後ろのやつからノートを回してくれ」
「えー、聞いてないっすよせんせー」
「前から言ってただろ。キョウタ、もしかしてこれまでの授業のノートを取ってないんじゃないだろうな?」
「いやいや、そんなわけないじゃないっすかー。俺、これでも真面目っすから」
「それなら早くノートを出せ」
「分かりました、分かりましたから! 黒板消すのは最後にしてください!」
あはははは。動かなかったクラスの空気が一気に弛緩する。
こういう、目立ちたがりのひょうきんものっていうポジションはどこの世界にも一人くらい紛れているもので、このクラスではキョウタって男子生徒がその役を担っていた。成績は、多分良くない。運動神経は、悪くなさそう。クラスの学級委員長を、あの荒川目当てで立候補する間抜けだが、荒川の方もまんざらではなさそうだったため、このまま私への興味が少しでもキョウタに向いてくれることを切に願う。
「あ、あの、武花さん。ノート……」
「ああ、はい」
私は今日写したルーズリーフをファインダーに綴じ、竹内に手渡す。
「……武花さん、ノート取ってたんだ」
「あ?」
喧嘩売ってる?
「いや、その、あんまり真面目に授業受けるタイプじゃないっていうか、ほらこの前の数学の授業も、先週先生が出した問題をノートに写してなくて聞いてきたし」
あの間違ってたノートか。もう二度と聞かないから安心してくれ。
「別に、英語はノート点がつくって言うからやってるだけ」
「そっか、大きいよねノート点。あれで一割補填できるんだから」
そう、ノート点。これがなければ教科書枕にふて寝している。
普通ならテストの成績を見て五段階の評価をするけど、田中の場合、テストに加えてノート点が加味される。九十点以上なら五、八十点以上なら四、六十以上なら三、三十以上なら二、それ以下を一として、ノートを毎日とっていればそこに十点が加算される。つまり、たとえ八十点台でも五の評価を貰うことができる。
そして何より問題なのが、一の評価がついた場合は休日学校に来て補修を課せられるらしい。授業を真面目に受ける気もないが、休日を棒に振るのはもっと勘弁だ。
それにしても、なぜ四限目に英語なんだ。眠気と空腹のハイブリットストレスで今にもデスってしまう。万能ツボと呼ばれる合谷のあたりを押したりつねったりひねったりしているけど、健康になっている気はさらさらしない。ああ、眠い。
「五、十、十五……四十。よし、今回はひとまず全員提出したな。これが卒業まで続いてくれるといいがな、キョウタ?」
「ちょ、せんせー俺のことなんだと思ってんすかー」
あはははは。田中とキョウタの掛け合いで無事授業も終わり……
ガラガラガラ、ぴしゃん!
終わり、にはならなかった。
教室の誰もが、一言も発せず、あのキョウタでさえつまらないダジャレの一つもなくただ茫然と、開け放たれた扉の方に視線を置いていた。私も他の生徒に漏れずただ瞼を瞬かせるだけで、一瞬、彼女がこけしちゃんであることにすら理解が追い付かなかった。
「お、おい。もう少しで授業が終わるから、それまで……」
田中には一切目もくれず、時間割の書かれた黒板を通り過ぎ、掃除用具入れの少し手前まで行くと、教室の窓際最後方に座る荒川の前で静止した。
「返して」
「は? ちょ、急になに」
「英語のノート。もう出し終わったってことは書き写したんでしょ。だから返して」
「いや、周り見ろし。いま授業中ってわかんない?」
「四限目の授業は五分前に終わってる」
こけしちゃんの視界に、荒川以外の人間は見えていなかった。
「どいうこと?」
「なんでいきなり入ってきたんだ?」
「ていうか誰、何組の人?」
時間が経つにつれ、次第に教室はざわつき始める。田中は腕時計をわざとらしく確認し「これからまだ用事があるから、先生はもう行くぞ」と不穏な空気を察知して教室を出て行ってしまった。なんだその言い訳は、よく帰れるなとあきれているのも束の間、事態はどんどん不穏さを増していく。
「だから、昨日写したんだけどそのまま家に置いて来ちゃったんだって言ってんでしょ!」
どうやら荒川は、こけしちゃんから英語のノートを借り、それを写したが家に忘れたと主張している。しかし、問い詰められた荒川が苦し紛れに嘘をついているようにしか見えない。おもちゃだと思っていた犬に噛みつかれたからだろうか、やけに息が上がっているし、さっきから眼球がせわしなく右往左往している。あの感情のない黒い眼球に囚われてしまっては、無理もない。例え罪を犯していない人だって黒と答えてしまいそうな、そんな脅迫性がある。
「だいだい、ノートごときでなにマジになっちゃってんの? 優等生は勉強のしすぎで、頭までおかしくなっちゃってんじゃないの」
事態を見かね、ナオやキョウタが傍に寄って行ったことで少し平静を取り戻した荒川は、負けじと食ってかかった。ただ、その鬼気迫る顔は、到底気のある異性に見せていい顔ではなく、隣に立つキョウタの恋心が冷めていくのも見て取れた。
「……そう」
こけしちゃんはそう言って、荒川の机に掛けられていた鞄を手に取り、そのままチャックを引っ張って中身を床にぶちまけた。
メイク道具やら生理用品やらファッション誌やら、ひっくり返したおもちゃ箱みたくわんさか飛び出してきて。
「ちょ、何してんだよ! ナオも拾うの手伝って、男子はこっち見んな!」
ああ、ああ! これはすごいことになってきた!
手に汗握る、鼓動が高鳴る、自分が抑えきれず高揚していくのが熱でわかる。
――ようやく出会えた。
しかし、彼女の仕打ちはこれで終わらない。
「……違う」
つい先日、下駄箱で聞いたあの声が鼓膜を震わす。
きっと彼女は止まらない。
まるで路肩の石でも蹴るようにして荷物を広げ、ぶちまけた中に目的のノートが見当たらなかったのか、荒川たちが鞄の中身をかき集めている後ろで机を持ち上げた。初めにスマホがゴトン、次に教科書、ノートが緩やかに落ちていき、椅子のあたりで弾かれて左右にとっちらかってしまう。
「違う、これも違う」
一つ、また一つ、石ころのように床を滑る。
荒川はただ茫然と、無慈悲に散らかっていく自分のノートを目で追うだけだった。
「あった」
手にしたのは『英語 一年二組 風間翠』と書かれた水色のキャンパスノート。
「じゃあ、返してもらう」と、床で荷物をまとめていた荒川に言うと、入ってきた時と同じ道を戻って行った。さっきまでの惨劇が、まるで彼女の記憶からすっぽり抜け落ちてしまったのでは?と疑いたくな、そんな様相だった。
『薄気味悪い子』
そんな言葉じゃ生ぬるい。あれは、人間じゃない。
「……いかれてる」
私の近くでだれかがそう、呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます