第28話 遺言
それからの数日は、嵐のような忙しさのうちに過ぎ去っていった。
月の破片の地上への落下を防ぐためには、ケートスを衝突コースに乗せる必要がある。そのためには、兎にも角にもケートスへ行かねばならない。
ピエリスはケートスの中央制御装置として作られた存在らしいが、実はまだケートスに乗艦したことはないのだと語った。本来なら二十年前の戦争中にケートスへ搭載されるはずだった彼女は、月の破壊によってこの島に取り残されただという。
そのため、現在のピエリスはケートスを操艦することができない。簡単なデータのやりとりはできるが、操艦系などにはアクセスできない。
ケートスが周回する高度と軌道へ辿り着くには、アセビの原付ではパワー不足だった。だが今アセビにはシオンのコルベットがある。本来ならば時間をかけ丁寧に修理したいところだったが、応急処置でやり過ごすしかない。
その他にも、高高度を飛行するための酸素マスク、防寒着、いざというときの医療キットやサバイバル用品の準備。用意するもの、やらねばならないことは山ほどあった。
その上、アセビには「ピエリスをケートスから解放する」という重大な課題が残されていた。
ケートスが轟沈すれば、ピエリスも死ぬ。
それはピエリスがケートスの一部としてシステムに組み込まれているからだ。だが、ピエリスはバッテリーやエンジンではない。彼女単体で生きていられる独立した存在だ。
ならば、必ずケートスのシステムから切り離す方法がある。切り離しさせすれば、ピエリスはケートスと運命を共にする必要もなくなる。そのはずだ。
だが、その方法がわからない。
魔女としてアイリスリットの扱いに長けているアセビだが、正直、この問題には手も足も出ない。だが、破片の衝突まで残り数日しかない。コルベットを修理する手を止めるわけにもいかない。気を抜けば自分の無能さに叫びたくなる気持ちを、アセビは必死で抑え込んで、毎日コルベットのもとへ通った。
夏が、終わろうとしていた。
一つの季節が終わることが、こんなにも恐ろしく感じられるとは思わなかった。
いつもなら次の季節に対する期待がふくらみ始めるはずなのに。それぞれの季節に、アセビはそれぞれの楽しみを抱いていたのに。
けれどこの夏だけは──ピエリスと出会い、母と別れ、新しい旅立ちを迎えようとしているこの夏だけは、終わってほしくなかった。
この夏が終わらなければ、月の破片が落ちることも、ピエリスの命が脅かされることもないのに、と現実逃避の妄想を繰り返した。
新しい蚊取り線香に火を点けた。
あと少しで、コルベットの主機に点火できる。そうすれば修復はもう完了したも同然だ。ピエリスには遅くなると伝えてあるが、そろそろ作業を再開しよう。
投光器を発電機に繋ぐ。影に沈みかけていたバンカー内が白い光で照らし出される。
穴を塞ぎ、配線を繋ぎ直し油圧系を整備したコルベットが、真っ赤なカウルを輝かせた。
「さて、やりますか」
この瞬間ばかりは、アセビの心から不安は消え去り、胸は興奮に高鳴っていた。一年の沈黙を経て、ようやく母のコルベットは空に帰るのだ。
発電機からコードを引き、メンテナンスハッチに接続。バッテリーに電力が供給されていく。必要充分な電力をバッテリーが蓄えると、アセビはシートに跨がり、イグニッションボタンに指を押し当てた。
押し込む。
クンッ、とコルベットの中心でアイリスリットが震えた感触が伝わってきた。
眠りについていたアイリスリットが、あくびのように笛の音のような回転音を放つ。回転するアイリスリットが、コルベットの全身に電力を供給していく。
アイリスリットが安定した電力を供給できていることを確認して、アセビはアイリスリットと計器類の回路を接続した。ここでもし電力が不安定だと、最悪の場合計器類の回路がクラッシュする恐れがある。それでも、アセビは自分の腕を信じてスイッチを入れた。
暗く沈黙していた計器類に、蛍色の光が広がって行く。高度計、速度計、ジャイロコンパス、レーダースコープ、主機出力計、推進器出力計、燃料計……
あらゆるデータが、一年と少し前、シオンがこの島に不時着した当時で止まっていた。計器類が示す数字一つ一つが、母の足取りを示すものであり、アセビの頬に思わず笑みがこぼれる。
メインディスプレイが点灯して、アセビはパスコードを打ち込む。
いざというとき持ち主以外でも操れるよう、パスコードは簡単な数字にするのが魔女の習慣だった。そうでなくても、幾度となくこのコルベットを飛ばそうと試みたアセビにとっては幼い頃からなじみ深い数字だった。
搭載されたPCが起動して、直近の状態が表示される。それはもちろん母が不時着した日のデータだ。アセビは航空日誌のログをタップした。
「あれ……」
通常ならすぐに表示されるであろうログが、ロード画面のまま固まって動かない。何度も試してみるが、データの呼び出し中を示すシークエンスバーが、残り二割ほどを残したところで動かなくなってしまう。
「えぇ~……なんでぇ?」
シートの上でアセビが頭を抱えていると、ランタンを手にしたピエリスがバンカーの入り口に姿を見せた。
甲高い唸りを上げるコルベットに、修復がほぼ終わったことを知りピエリスの表情がわずかに緊張を帯びた。
だがそれも一瞬のことで、ピエリスはコルベットの傍らに歩み寄るとアセビを見上げた。
「修理、終わったのですね。よかったです」
アセビも、ピエリスの声に一瞬身を固くした。だが、今は頭の中から不安を蹴り出して、つとめて明るい声を出すことにした。
「ありがと! でもね、日誌のデータが開けないの」
「見てみましょう」
アセビの手を借りて、ピエリスがシートに着く。元々二人乗りなので、シートは広々して快適だった。けれども、アセビには原付のあの狭いシートに無理矢理二人で座る方が好きだな、と内心独りごちた。
ピエリスが端末を操作して、データの開封を試みる。が、状態は相変わらずだった。
「ここで開くのは諦めて、データだけ吸い出して学校のPCで開けるか試してみましょう」
メモリスティックをコルベットの端末に刺して、ピエリスがデータを移行する。作業が終わると、アセビは一度コルベットの火を落とした。
かすかに温もりを宿した鋼鉄の鳥を撫で、アセビは囁く。
「すぐ飛ばしてあげるから」
◇ ◇ ◇
ピエリスと共に学校へ戻ったアセビは、コルベットから取り出したデータを確認すべくPC室に向かった。
ピエリスは持ち帰ってきたメモリスティックを端末に刺して、操作を始めた。しばらくすると、画面上にログの一覧が展開される。
「これで、開けるようになったと思います」
「ありがと!」
「わたしは、退席した方が良いですか?」
気を遣ったピエリスに、アセビは首を横に振る。
「ううん、ここにいて。またデータ固まっちゃうかもしれないし」
本当のところは、一人で聞くのが怖いような、もったいないような気がしたのだった。アセビはピエリスの気配を背中に感じながら、ログの再生ボタンを押す。
『──……二十一年、八月三日。西部標準時午後五時一〇分』
スピーカーから響く母の声に、アセビの心臓がドクリ、と大きく脈打った。この日付は……
「ママが居なくなった次の日だ」
『航行距離二一〇キロ。現在地点は旧セベス州西部。気温は──』
シオンの声は淡々と記録を残して、結局そのログは事務的な記録で終わった。次のログも、その次も、しばらくそんなログが続く。何だか拍子抜けした気分で、なかば流れ作業的にアセビは次のログを再生した。
しばらく、無音が続く。再生ボタンが押せてなかったかとアセビは確かめるが、再生自体は間違いなく始まっている。その時、
『………二〇二一年、九月、十五日。西部標準時で……午前五時二九分。オルクの追撃を受け旧リーゼクルス空軍基地南部の畑に不時着。銃撃と不時着時の衝撃により、負傷……』
苦しげな声が、途切れ途切れに流れ始めた。
ノイズが激しく、時折シオンの声が聞き取れなくなる。音量を調節した直後、それまでの事務的な口調ではない母の声にアセビは話しかけられた。
『アビー。もしあなたがこのログを聞いているのなら、それはあなたがこの島に辿り着いたとうことね……。一度も話したことはなかったけれど、このリーゼクルス島は私の故郷なの。ここで、私はあの子と出会って、そして──』
咳き込む声がマイクから遠退く。
『もし、あの子に会っても意地張っちゃダメよ。ケンカであの子に勝てっこないんだから……ちゃんと事情を説明して、それから、私の分まで仲良くしてあげてね……』
ザァ、と割り込むノイズに混じり、かすかに息を堪える音が聞こえる。それに気づいたとき、アセビは胸が締め付けられるような気分がした。母が、嗚咽を噛み殺している。
『いいなぁ、アビーちゃんは。あの子と一緒にいられて……。お母さんも、もっと一緒にいたかったなぁ。羨ましい。私、悔しいよ……! わたしが、そこにいたかったのに』
ざらついたノイズの向こう側で、母が泣いていた。まるで恋に破れた少女のように。アセビが一度も聞いたことのない、母シオンの剥き出しの嫉妬だった。
再び咳と嗚咽が混じる。これで終わりかと思いかけたそのとき、スピーカーから、己を奮い立たせるような咳払いが響いた。
『ごめんなさい、アセビ。あなたを責める筋合いはないわ。むしろ、良くここまで来たことを、褒めてあげなきゃ。さすがね、アビー』
アセビはスピーカーに触れる。かすかな振動が、アセビの指から伝わり心を震わせた。
『私はね、アビー。あなたに救われたのよ』
シオンの言葉に、アセビは顔を上げる。
『あの子と一緒にいたくて、取り返しの付かないことをして、その結果世界を引き裂いて、その上あの子も失って……ずっとこの世界をずっと怨んでいたわ。
それでもね、あなたが生まれてくれた。この壊れてしまった世界でしか出会えなかった人との間に芽生えた命のおかげで、私はこの世界も愛せるようになったの。
選び取った結果が世界を変えてしまっても、その結果に死にたくなるほど後悔しても、いつかその世界を愛せるようになる。変わってしまった世界をもう一度変えることだって、自分自身が変わることだってできるのだから。
だから……、世界を大きく変えてしまうような選択を迫られても、あなたが望む道を選びなさい。
他人の意見なんて気にしないで。あなたがどれだけ悩み抜いた選択だろうと、どうせ他人は非難しかしないのだから。
……願うなら、あなたがそんな選択を迫られないことを祈ってるわ。でも、世界は優しくない。だからいざというときは、思い切り我を貫きなさい。
とっくに世界は壊れてしまっているのだから、あと一度や二度壊れたって、どうってことないわよ』
ログは、そこで途切れた。
「なに、これ……」
アセビは椅子の上で放心したように画面を見つめていた。
背中を押すような母の言葉は嬉しかった。けれど、その内容には不穏さが漂っていた。
あの子と一緒にいたくて、世界を引き裂いた?
母は、一体何を言っているのだ? 何か、自分がとてつもなく重大なことを見落としている恐怖感にアセビは襲われる。かといって、一体どうやって母の過去を知れと……
ハッとして、アセビは呟く。
「ビデオ」
シオンとピエリスの学生時代を映した、あのビデオ。
前回ビデオを見たとき、ふたりの姿が映し出されたことに動転してテープを止めてしまった。もしかして、あのテープにはまだ続きがあるのではないのか。
椅子を鳴らして、アセビは立ち上がる。背後で不安げな表情を強張らせていたピエリスの手を取り、アセビは歩き出す。
「ビデオの続き、見よう」
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