第26話 告白

 アセビは不満だった。もう一週間も、ピエリスと飛んでいない。

 沿岸環状地帯での調査が終わって一週間。ピエリスはデータの解析をすると言って部屋に籠もりきりになってしまった。


 そうなると、アセビはすることがなくなってしまう。食事のときなどにそれとなく、「このあとちょっと飛ばない?」などと声を掛けてみるのだが、ピエリスは表情を硬くして、眉根を寄せて首を横に振るのだった。


 今日も今日とて、朝起きると同時に、アセビは制服に着替えるピエリスに「今日は飛べる?」と訊ねた。けれど結果はいつも通り。

 だが、気まずさを感じていたのはピエリスも同じらしく、「軽二輪車があるので、島を回ってきてはいかがですか?」と提案してきた。

 制服の上から魔女のジャケットを羽織ったアセビは、運動場脇の倉庫に仕舞われていた二輪車のシートの上で溜息を吐く。


「……そういう意味じゃないんだけどな」


 かっ飛ばせれば何でもいいと、ピエリスは思っているのだろうか。アセビが毎日ピエリスを誘うのは、彼女と一緒に飛ぶのが楽しいからで、一人で二輪車を走らせても欲求は満たされない。


「あの時は一緒に飛びたいって言ったクセに」


 唇を尖らせて、八つ当たり気味にキックスターターを踏みつける。

 内燃エンジンが唸りを上げて、スロットルを開くと景気の良い音を立てる。その音を聞くと沈んでいた気分が少し晴れる。けれどもそれだとピエリスに言いくるめられたような気がして、アセビは緩んだ口元を引き締めてギアを入れた。


 特に目的地もなく、アセビは軽二輪を走らせる。夏の盛りは過ぎたとは言え、リーゼクルス島に降りしきる日射しは鋭い。じっとしていれば途端に汗が滲むような気温だが、走り出すと汗は一瞬で引いていく。


 長年放置されたアスファルトは損傷が激しい。道路はあちこちが陥没したりひび割れたりして、真っ直ぐ走ることは叶わない。だがそれらの障害物を回避しながら速度を出すのが楽しくなってくる。

 思わず口元が緩みそうになるが、その度にアセビは一緒に飛んでくれないピエリスの不満を思い返し、唇をすぼめた。

 確かに二輪車で走るのも楽しい。けれど、アセビが心から求めているのはピエリスとの飛行なのだ。

 ピエリスとの空は、楽しさの質が別物なのだ。

 あの夜間飛行を思い出す。音もなく滑空する機上で見上げた星空を思い出す。言葉にすることが馬鹿らしく思えるくらい、美しい思い出だった。


 夜間飛行の思い出は、ピエリスと交わしたキスへと繋がっている。思わず顔が熱くなる。だが、今アセビの頬を赤くするのは恥ずかしさばかりではなかった。

 ピエリスは優しい女の子だ。出会ったばかりの頃のアセビなら、とてもそんな風には思わなかっただろう。だが、彼女と共に時間を過ごした今となっては、彼女を杓子定規で感情の欠落した人形などと思うことはなくなっていた。

 心の無いただの兵器は、自分のことを慕ってくれた人のために苦しみはしない。

 自分を大切に思う相手を、自分が忘れてしまったことを悔やんだりはしない。

 ピエリスには、自分と同じ、心がある。そしてその心は、誰かを包みこむ温もりを、たしかに持ち合わせている。


 アセビの運転する軽二輪車は島の南斜面の端、旧市街地を抜けて北上しつつあった。周囲の風景は畑が多くなり、正面には露天掘りで山腹を削り取られた山がそびえ立っている。

 山に向かって伸びる一本道を、アセビは駆け上る。エンジンが唸りを上げて、アセビはギアを次々と上げていく。

 全身に風を浴びながら、アセビは確信する。やはり、ピエリスと一緒でなければダメだ。

 この物足りなさを表現する言葉をアセビは持っていなかった。けれど、ピエリスが一緒にいてくれたならこのもやもやは解消されるのに、ということだけははっきりしていた。


          ◇     ◇     ◇

 

 坂道を登り切ると、正面に大きなゲートと、長大なフェンスの壁が見えてきた。


「……基地だ」


 空を飛んでいるといつも目につく、空軍基地の廃墟だった。

 島の北東部に位置した基地の正面ゲートにアセビは軽二輪を止める。かつては兵士が立っていたであろう詰め所は半壊し、ガラスとコンクリート片が道に散乱している。

 赤と白の縞模様の跳ね上げ式ゲートも真ん中でへし折れ、立ち入りを遮るものはない。ゲートから伸びる道の向こうには管制塔や兵舎が立ち並び、タイヤを全て失った錆だらけの兵員輸送車が傾いている。

 アセビが生まれ育ったのも、こんな軍事基地の跡地だった。

 だが、アセビの故郷には人の営みがあった。ここにはそれがない。打ち棄てられた車両と、崩れた建物。賑やかな喧騒はなく、日射しと蝉の音だけが打ち付けられている。

 汗ばむほどの気温なのに、肌寒さを感じる風景だった。


 基地内部の建物の多くは激しく損壊していた。しばらく基地内を歩き回って気づいたが、破壊の痕跡は一直線を描いている。上部が吹き飛んでいる管制塔の先では、四階建ての基地施設の四階部分が抉り取られている。

 破壊の痕跡を辿って歩いていくと、アセビの足が止まる。


 突然、目の前に空が広がった。

 そこはかつては格納庫だったとおぼしき建造物の中だった。だが、アセビが足を踏み入れた反対側は、建物の壁と天井が崩れ、そればかりか地面までもが崩れ落ちていた。

 島に辿り着いた日のことをアセビは思い出す。

 上空から見下ろした島の全景。基地は切れ落ちた崖ギリギリに位置していた。それに加えて、巨大な斧が振り下ろされたような痕跡があった気がする。ひょっとすると、昔はもっと先まで地面があったのかもしれない。

 アセビは天井から落ちてきたらしい鉄骨のひとつに腰を下ろして、ぼんやりと目の前の景色を眺めた。格納庫の壁面を額縁にして、真っ正面には真っ青な空と海が広がっている。


 遠くで鳴いている蝉の数は、アセビが島に来た日より確実に少なくなっている。

 日陰から見た空は明るすぎて、自分が真っ暗闇の中にいるような気がしてくる。風がなく、じわじわとアセビの首元に汗が滲む。


「あつい……」


 突然、頭上で猛烈な轟音が鳴り響き、アセビは跳び上がる。


「ひゃぁあいっ!?」


 何事かと天井を見上げる。まさかオルク、と空を見上げると、天井から覗く空に灰色の雲が立ちこめていた。

 カッ、と白い光が弾け、腹に響く轟音が再び鳴り響いた。同時に、天井の穴からポツポツと雨粒が落ちてきた。あっという間に雨音と雷鳴があたりを支配する。

 慌てて天井のある建物まで避難する。軒先から覗いてみると、空を覆う暗い鉄色は濃厚で、しばらく薄まる気配はない。


 あいにく、雨具はなにも持っていない。この雨のなか、二輪車で学校まで戻るのは億劫だった。

 仕方なく、アセビは建物のロビーにあった長椅子を引っ張ってきてそこに横たわる。ぼんやりと雨音と雷鳴に聞き入る。

 ただの雑音のはずなのに、こうして屋内から聞く雨音はふしぎと心地いい。

 気がつくと、アセビはぼんやりとして、いつしか船をこぎ始めた。


 いきなり、肩を揺すられた。

 転がり落ちるように長椅子から飛び退き、埃だらけの床で受け身を取って相手に正対する。

 そして、相手が制服姿の少女だと気づいた。


「ピエリス……。びっくりさせないでよ」


 心臓がバクバクする胸をなで下ろし、口元を拭う。よだれ垂らした間抜け面をピエリスに見られた。顔が熱くなる。


「ど、どうしたのよ。こんなとこまで」

「雨が降ってきたので……」


 そう言ってピエリスは手にした透明なビニール傘を持ち上げる。

 ようは一緒に帰ろうと言っているのだ。何だかそれがアセビには無性に嬉しかった。


「そ、そうなんだ。ありがと……あ、ひょっとして原付で来た?」


 ここまでピエリスが来てくれたということは、とアセビは期待したが、ピエリスは首を横に振った。


「いえ、列車で来ました。基地の中まで線路が引かれているので……」


 その途端、アセビの浮かれた気分は急速に冷めていった。緩んでいた頬が、強張る。


「ねえ、どうして最近飛んでくれないの? 飛ぶの、嫌い?」


 問いかけは、無意識に尖った口調になっていた。


「いえ、そういうわけでは……」


 ピエリスが言い淀む。その態度にアセビは唇を噛む。何よ。言いたいことがあるなら言いなさいよ。ピエリスの態度に苛立ちを憶えたアセビは、直後その言葉が自分に跳ね返ってくる。

 はっきり言っていないのは、自分も同じだ。


「ピエリス、あのね……」


 妙に緊張する。思ったことを口にするのは得意なはずなのに、何故か今は緊張で声が震える。


「あたし、ピエリスと一緒に飛びたいの」


 ピエリスの肩がかすかに震えた。


「一人で飛べればそれで良いとかじゃないの。ピエリスと、あんたと一緒じゃなきゃダメ。ピエリスと一緒に飛ぶのが楽しくて、それ以外は、つまらないの……」


 顔が真っ赤なのが自分でも解る。心臓がバクバク言う音で周りの音が聞こえない。なんでこんなに緊張しているのか、アセビは理解できずにただ混乱する。


「だから、その」


 喉がきゅっと締め付けられる。心から溢れ出る想いが引っかかる。色々な想いが引っかかって、こんがらがって、ようやく転がり出たのはひと言だけだった。


「好きなの」


 雨音に掻き消されそうな、小さな声だった。けれど、その言葉は確かにピエリスに届いた。

 ピエリスが顔を上げる。明るい外を背に立ち逆光になってはいたけれど、彼女の顔が朱く染まっていくのがアセビには解った。

 ハッとして、アセビはあわあわと付け加える。


「あ、あのっ、ピエリスと飛ぶのが、って意味で、その、いや別にあんたのこと嫌いってワケじゃなくてっ、あでも前に嫌いって言ったけどアレはその時はそうだっただけで今は別に!」


「わたしもです」


 ピエリスの言葉に、アセビはブンブン振り回していた手をゆっくり下ろす。

 ピエリスが、アセビを見つめて、もう一度言った。


「わたしも、好き。です……アセビと一緒に飛ぶのが」


 小雨のノイズに乗って、ピエリスの声がアセビに届く。


「ほ、ほんとに? ピエリスも、あたしと飛ぶの、好きなの?」


 アセビは上ずった声で訊ねる。アセビの方が頭一つ分高いはずなのだが、思わず上目遣いになってしまう。


「本当、です。嘘じゃありません」


 コクン、とピエリスが頷く。


「じゃあまた、一緒に飛べる?」


 アセビの勢い込んだ問いかけに、ピエリスはコクリと頷いた。


「ええ。飛びましょう」


 そう答えたピエリスは、目尻が下がり、唇の端はかすかに持ち上がっていた。


「あ、あ! ピエリス笑った! あはは!」


 たったそれだけで、笑いがこみ上げてくるほど嬉しかった。


「……わたしが笑ったらおかしいですか?」

「ううん! おかしくない! ……やっぱちょっとおかしいかも! あ、ごめんごめん、ちがうちがう! 怒んないでエリーちゃん! おかしいんじゃなくて、嬉しい、だった」


 目尻に浮かんだ涙を指で拭って、アセビが再び笑う。釣られて、ムッとしてたピエリスの表情も緩む。


「アセビ」

「ん? なに?」


「見せたいものがあります」

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