第22話 ファーストキス

 もとより一日で帰れる日程ではなかったので、アセビとピエリスは海岸でキャンプを設営することにした。


 コンクリートの防潮堤を越えると、海まで突き出した山の尾根と漁港跡の間にこぢんまりとした砂浜が現れた。リーゼクルス島の砂浜、先日大型機が墜落した海岸の三分の一程の大きさしかないが、アセビとピエリス二人で使うには充分すぎる広さだった。


「……こんな開けた場所で大丈夫?」


 キャンプと言えばオルクから隠れるため森の中か廃墟の中と相場が決まっているアセビは、遮蔽物の一つもない砂浜に不安を感じてピエリスを振り返る。


「このあたりにオルクはいません。いても、アセビにはわたしの敵味方識別信号を付与しているので、攻撃される心配はありませんよ」

「ほ、ほんとに大丈夫?」

「ええ」

「ほんとにほんと?」

「はい」


 再三の確認にピエリスが頷くと、アセビはゆっくりと海を見つめ……


「やったぁああああ~~~~~~~っ!!」


 腰に巻いていたジャケットを放り投げ、ブーツを脱ぎ捨て砂浜に駆け出した。ズボンの裾を捲って、白波をあげる波打ち際に近づくと、


「うわっ、つめたっ!? あはっ、あははっ!?」

 海水の冷たさに声を上げ、砂に沈んでいく足の感覚に笑い、両手を振ってピエリスを呼ぶ。


「ピエリスも早く! 海だよ海!」

「それは、見れば分かりますが……」


 アセビのはしゃぎっぷりに、ピエリスは目を瞬かせる。

 砂浜に降り立つと、サラサラした砂がローファーの中に入り込んできて歩き辛い。仕方なく、アセビを真似て靴を脱ぎ靴下を脱ぎ捨てた。素足で踏む砂は熱く、足は砂まみれになった。


「ほらほらピエリス~!」

 突然、やってきたアセビに手を掴まれて、波打ち際まで引っ張られた。ピエリスの真っ白な肌に波が打ち寄せ、あちこちに付着していた砂を洗い流していく。


「楽しいねぇ!」

 子供のような無邪気な顔で、アセビが言う。そこでふと、アセビはまだ子供なのだと思い出して、これが彼女の自然な表情なのだとピエリスは気付く。


「あれ、何かな」


 アセビが防潮堤の近くにある建物を指さした。


「海の家、というものではないでしょうか?」

「海の家!? なにそれ!?」


 アセビが好奇心の塊のような顔で振り返る。


「海水浴の時期に、飲食や物品を提供する店のことです」

「行ってみよ! 何かあるかも!」


 ブーツに足を突っ込んで、アセビは海の家に近づいていく。二十年近く放置され、完全に廃墟同然だったが、裏手にあるコンテナ式の倉庫はまだしっかりと鍵がかかっていた。

 アセビは適当に見繕ってきた鉄パイプで鍵を破壊すると、「おじゃましまーす」と倉庫の中に踏み込んだ。


「あ、これ使えそうじゃない?」


 アセビが倉庫の片隅に積み上げられていた白いプラスチック製の椅子を取り上げる。その他にも、使い掛けの木炭や着火剤、蚊取り線香など実用的な戦利品を回収することに成功した。


「ん~、こんなもんかな……? ピエリス、それは?」


 ピエリスは積み上げられていた段ボール箱の中を物色して、その中から大きな封筒ほどのビニールパックを取り出していた。カラフルな紙で作られた細い筒が、綺麗に並べられて収まっている。


「花火のようです」

「花火!?」


 とたんにアセビの目が輝く。


「でかした! 最高! よくやったエリーちゃん!」

「いえ、あの、使えるかは解りませんよ。二十年以上まえのものでしょうし……あと、エリーちゃんというのは……?」


 無意識に口から出た名前に、アセビはハッとする。母シオンが、ビデオの中でピエリスを呼んでいたときの名前だった。


「……アダ名! 今考えた。行こ行こ! やってみようよ花火!」


 椅子の上に炭や蚊取り線香を積み上げて、キャンプ地にとって返した。

 砂浜の上に、シートを広げてタープを張る。エアマットを膨らませて、夏用の薄い寝袋を広げれば、今日の宿営地は完成した。

 どれも物はピエリスが島の軍基地から拝借してきたものなので無骨な迷彩柄だが、アセビには気にならなかった。 


 石で炉を作って火を起こし、網の上に缶詰を載せて温めただけの簡単な食事を済ませると、夕暮れが迫ってきた。海岸は東向きなせいで、太陽は背後の山に沈み思ったよりも早く暗くなった。


「ではでは! お待ちかねのっ、花火タ~イム!」


 まだ周囲が明るい内に、アセビは待ちきれずに花火の封を切った。


「大丈夫なのですか、これは」

「わかんない。でも試してみれば解るでしょ。バクハツするってことはないでしょ」


 色とりどりの紙が巻かれた手持ち花火を取り出して、アセビはロウソクの火に花火の火口を近づける。めらめらと燃えた紙が、火薬の詰まった筒に火を点けると、

 じゅばっ、じゅぅう……

 色鮮やかな火を吹いたのも一瞬、あとはバチバチと弾ける音を出して勢いよく燃えるだけになってしまった。


「え……花火って、これで合ってるの?」 


 正直な話、アセビは花火で遊ぶのは初めてだった。子供時代に見た映画の中では、もっと色鮮やかな火がもっと沢山でていたはずだけど……


「やっぱり、劣化しているみたいですね」


 ピエリスも一本手にとって火を点けるが、それもやはり同じように「勢いよく燃える」だけで終わってしまう。


「……なぁーんだぁ」


 予想はしていたことではあるが、一瞬期待を抱かされただけあってアセビの落胆は大きかった。

 燃え尽きた手持ち花火を焚き火に放り込み、アセビは他に何かないかとパックの中を漁る。すると、新聞紙で作られた封筒のようなものができてた。開けて見ると、紙を細く縒った「こより」のような物が数本姿を現した。


「なにこれ?」

「それは、線香花火ですね」

「あ、あ! それって、パチパチ、しゅばばっ! ってなるヤツ!?」

「えっと……? おそらくそれであっているかと」


 アセビは線香花火を一本手に取り、上下が解らずピエリスに訊ねて火を点けてもらった。

 手に持った細いこよりを、アセビはしゃがんだままじっと見つめる。

 じわりじわりと炎が花火を舐めるように昇ってくる。これもダメかな、とアセビが諦め掛けたそのとき、「しゅっ」とかすかな音を立てて、小さな火の粉が線香花火から飛び出した。


「ピエリス、これ使えるよ!」


 アセビの目の前で、こよりの先に溶けたガラスのような赤い玉がぷっくりと膨らみ始めた。そこから「しゅっ、しゅっ」と火花が飛び出し初め、やがてそれは勢いを増して大輪の花を描き始める。

 橙色の炎の花が、一瞬毎に姿を現し、次の瞬間には消え、また現れる。何枚もの絵を次々と見せつけられているような不思議な光景に、アセビの目は釘付けにされた。

 ぽつ、といきなり赤い玉が地面に落ちて、幻想的な風景は突然終わりを告げた。


「……綺麗だったね」


 隣で見ていたピエリスが頷く。


「もう一回やろ。ピエリスも」

「はい」


 今度は二人で、風を遮るように身を寄せ合って、小さくて力強い光の迸りを見つめた。

 ずっとこうしていられたら。アセビは線香花火を見つめながら思った。

 こんな風にキャンプして、遊んで、そうやって過ごすことが出来たらと思い描くだけで胸がわくわくした。


「一緒に旅ができたら楽しいよね」


 独り言のように、アセビが呟く。

 線香花火のかすかな煌めきに照らされたピエリスが、驚いたような、ちょっと困ったような横顔を浮かべる。

 解っている。アセビも重々承知の上だ。今回ここに来たのはピエリスの依頼があったからで、つまりは仕事だ。アセビは魔女だし、ピエリスはそもそも人間ですらない。今こうしていられるのは信じられないくらいの奇跡が重なっただけで、ずっとこうしていられるわけがない。

 そんなことぐらい、重々承知だった。

 だから、ピエリスが答えてしまう前に、アセビは新しい質問を繰り出した。


「ピエリスはさ、何かしたいことないの?」

「したいこと、ですか?」

「そう。たとえば釣りとか~、遠くまで泳ぐ~とか、あと「スイカ割り」? ってヤツとか」


 冗談めかして訊ねるアセビに、ピエリスは真剣な顔つきになった。やがてその顔が、ゆっくりと俯いていく。


「それでは、あの……」


 おずおずとピエリスが切り出す。彼女にしては妙に歯切れが悪い。小さな唇が、もにょもにょと動いているのを見つめていると、アセビも何だかそわそわしてきた。


「ひとつ、お願いがあります」

「な、なに……?」


 ピエリスが顔を上げる。唇をきゅっと引き結んで、頬はほんのりと上気していた。なにやら覚悟を決めた表情で、ピエリスが言う。


「もう一度、したいんです」


 ピエリスの言葉に、アセビは一瞬何のことかと瞬きする。だが、ピエリスの覚悟を決めた表情、かすかに震えている唇を見て、ドキリとする。

 アセビの脳裏に、ピエリスの記憶を追体験した思い出が蘇る。

 唇に感じた、シオンの柔らかな体温……。


「え……? まさか、あんた」


 アセビは緊張で乾いた唇を湿らせる。ドッドッ、と心臓が跳び跳ね始めた。

 いや、たしかにあたしもあれは気になってたけど、いま、急に言われたって、覚悟というか、なんというか、その…………キスは……


 アセビの頬を汗が伝う。周囲を見渡すが、当然自分たちを見ている者など誰一人いない。

 雰囲気は良いのかも、などと考えてみる。

 夏の砂浜、遊んで、花火をして、二人きり……いやいやまてまて! それは、所謂カップルってヤツの場合でしょ!? あたしたち、その、カップルじゃないし、そもそも女の子同士だし、でも、ママはピエリスにキスしたんだし……気にはなるし……


「い、良い、よ……」


 ごくり、と生唾を呑み込み、アセビは頷く。すると、ピエリスは伏せていた目をぱっと輝かせる。

 そんなに嬉しいの……? アセビはピエリスとのモチベーションのギャップに目眩を感じながら目を閉じ、腰を屈めてピエリスの唇に顔を近づけ……

 ザッ、と砂踏む音がして、ピエリスが立ち上がるのが解った。


「では行きましょう」


 遠ざかっていくピエリスの声。恐る恐るアセビは薄目を開けると、ピエリスが彼女にしては珍しく、弾んだ足取りで歩いて行く。


「え、えっ? ちょ、ピエリス? あの、どこいくの?」


 ピエリスが足を止めて、不思議そうな顔をする。


「原付、ですが?」

「げんつきぃ?」


 間抜けな声で、ピエリスの言葉を繰り返す。そこでふと、自分がなにかとんでもない思い違いをしているのではないかという恐怖にアセビは思い至った。


「あ、あのさ。もう一度したい、って、何のこと言ったの?」


 アセビの問いかけに、ピエリスは一瞬言葉に詰まり、ほんの少し早口で言う。


「ですから、もう一度アセビと一緒に飛びたいと、そういう意味です」


 トスン、とアセビは砂の上にお尻を落とす。


「あーっ……あ。はい。了解です」

「大丈夫ですか。顔が真っ赤ですが」

「大丈夫じゃいっ!!」


          ◇     ◇     ◇


 今が夜で良かった。スロットルを開き、アセビは火照った頬を冷たい夜風で冷やした。

 悶死するレベルの早とちりをかましてしまい、脳ミソが沸騰しかけたアセビだったが、久しぶりの夜間飛行に少しずつ冷静さが戻ってきた。

 それでも、さっきの勘違いを引きずってしまっていて、真っ暗なのも手伝って思わず視線は前に座るピエリスの口元に向かってしまう。いけないいけない、と首を振って、アセビは訊ねる。


「ど、どこか行きたいところある?」

「……もっと高くへ、行けますか?」

「りょーかい」


 アセビはスロットルを開き、旋回しながら高度を上げていく。

 薄雲を突き抜け、高度計が機体の上昇限界高度を知らせる。もともとが低出力の機体なので、どんなにピエリスのアイリスリットが優秀でもそれほど高くまで上昇はできない。 


「ここが限界ね」

「そうですか……」


 ピエリスの口調には、かすかに残念そうな色合いが感じられた。


「さすがに、天国までは行けませんね」


 アセビは目を丸くする。ピエリスの口から天国という言葉が出てきたのもそうだし、それを残念そうに思っている彼女の姿も予想外すぎて、ピエリスには申し訳ないが笑えてきた。


「どうして笑っているのですか」

「あんた、案外ロマンチックな性格してるのね」


 その性格に免じて、アセビはライトを消した。推進プロペラも停止して、原付は滑空を始める。風を切る音以外は、互いのかすかな呼吸音だけが耳に届く。

 新月の夜だった。

 かつては二つあった、今では一つだけになってしまった月は水平線の向こうに隠れている。空には器をぶちまけたかのような星空が広がっていた。

 星の大河と破壊された月の破片が作り出すリングが交差している。軌道上を漂う巨大な月の破片が音もなく横切り、星空に真っ黒な穴を開けていた。

 互いに言葉はなかったが、アイリスリットを通じて渦巻く感情は、心地よい波を描いていた。

 あれだけ暴れていた心臓が、今は穏やかに凪いでいる。ほう、と溜息をついて、アセビは頭上の星空を飽きもせずに見つめ続けた。


「あの、アセビ」


 ふと、座席の前に収まっているピエリスが口を開いた。


「なに?」

「アセビは、キスがしたいのですか?」


 アセビの目の前に星が散った。原付がぐらりと揺れる。


「な、ななっ、なに言ってんのよいきなり急にっ!?」


 ピエリスが首を捻り、慌てて機体の水平を保とうとするアセビを見る。


「先ほどから、というよりも今日飛んでいる間中ずっと、アイリスリットを通じて伝わってきていたので。よっぽどしてみたいのかと思いまして」

「ぇぅぁぅあ~~~~~~~っ!!」


 ピエリスの背中におでこを押し付ける。

 バレてた。

 そりゃそうだ。アイリスリットは魔女の感情を伝達する。

 アセビの感情は、ずっとピエリスに筒抜けだったのだ。


「そこは知らんぷりしててよぉおおお……」


 悶絶するアセビに、ピエリスは淡々とした口調で訊ねる。


「してみますか?」


 ピエリスがシートの上で横座りになって、アセビの顔を間近から見上げる。


「そんなに気になるのなら、一度してみれば良いのではないですか?」

「えぅっ?」


 ピエリスの言葉は確かに一理ある。アセビだって一度は考えたことだ。けれども、こんなタイミングで奇襲を掛けられると、思わず身体が仰け反ってしまう。


「いやっ、でもっ、えーっと」

「では、こういうのはどうでしょう。これは報酬です」

「ホウシュウ?」

「はい。今回の依頼に対する、報酬です」


 報酬。

 その言葉がアセビの心のハードルをぐっと押し下げる。

 そっか、報酬なら仕方ないよね……と納得しかける。その一方で、ギロチンの如く下がってくるハードルを「ヤメロ馬鹿!」と必死に白刃取りするアセビもいた。

 いやでも、ここは一回試してみた方がおトクじゃない? というか、こんなことくらいで取り乱したら子どもっぽくて馬鹿みたいじゃない。それにピエリスは女の子だしさ。これが男の子ならナシだけど。同性ならセーフセーフ。お遊びみたいなもんよ。


「やめますか?」

「や、やる……!」 


 覚悟を決めて、アセビはピエリスを見つめた。次の瞬間、ピエリスの冷たい両手が、アセビの火照った頬を包みこんだ。

 ピエリスの手がアセビの顔を引き寄せる。されるがまま、アセビが首を屈めた瞬間、唇に柔らかい温もりを感じた。


 かすかに首を右に傾けて、ピエリスがアセビにキスをした。


 滑空する原付の上、周囲を照らすのは星の明かりのみ。それでも、アセビの目にはピエリスの白い肌が光を放っているように見えた。

 ピエリスの唇は柔らかく、ほんのりと温もりがあった。

 記憶の中で見た母シオンの唇によく似ていた。そして、砂浜で息絶えた魔女の少女の固く冷たい唇とは、まったく違う肌触りだった。

 ああ、生きている。そう感じた。


 その瞬間、アセビは胸の中に戸惑いが生まれた。唇を重ねる少女が、とても繊細で、華やかで、愛おしいものであるかのように思えたからだ。

 ついさっきまでのピエリスと、今こうして唇を触れあわせている少女は同じ存在のはずなのに。

 今のアセビには、まるで別物のように、暗幕が取り払われた星空のように輝いて感じられた。

 これは危険だ。アセビは歯がみする。

 キスには、人間の愛情に関わる部分を切り替えるスイッチのような機能があるのだ。これは、むやみやたらとすべきじゃない。これは、愛情の誤作動を引き起こす。

 冷静さを保とうと敢えて冷たく考えていたアセビは、ふと母シオンのことを思い出す。


 ピエリスにキスをして、シオンも同じような気持ちになったのだろうか。

 いや、違う。アセビは首を振る。「順序」が違う。

 シオンは本当にピエリスのことが好きだったのだ。

 だからキスをしたんだ。あのとき母が感じていたのは、いまアセビが感じている擬似的で後付けな愛情なんかじゃない。

 キスをしたい、と心から願う、本当の「好き」だ。

 キスが愛情を誤作動させるんじゃない。愛情がキスを生むんだ。

 そのときアセビは唐突に思い出す。以前、ピエリスがベッドの上で見せた追い詰められた表情、悔恨の色が滲んだ瞳を。


『お母様は、わたしにビデオを見て欲しかったのではないでしょうか……』


 遅れて効き始めた毒のように、ピエリスの言葉がアセビの胸をじくじくと締め付けた。

 シオンが命を投げ出して会いに行きたいと思うほど、ピエリスのことが好きだったのなら。好きな人が自分を憶えていないと知ったとき、一体どんな気持ちだったろう。


 胸が、心臓が、心が、ぎゅっと押し潰されるような気がした。

 ピエリスのあの言葉は、シオンを覚えていない罪悪感から生まれた言葉だ。

 ピエリスが罪悪感を抱く必要なんてなかった。憶えていないのだから。シオンとの記憶を持っているピエリスは、もういないのだから。

 それでも、ピエリスは自分が憶えていないことを悔やんでくれた。シオンに対して真摯な態度を示してくれたのだ。

 そのことが、アセビには嬉しくて、悲しかった。


 あたしは、忘れられたくない。

 ピエリスのことも、忘れたくない。


 アセビの胸の中、水底から昇る泡のように、ピエリスとの思い出を大切に思う気持ちが膨れあがっていった。

 スロットルを握り締める手が震えた。そこに、小さな温もりが重ねられる。


「アセビ」

 ピエリスに呼ばれ、アセビは顔を上げる。青い星の光に照らしだされたピエリスが、アセビを間近から見つめて言った。


「大丈夫です」


 言葉はたったそれだけで、けれどそれで充分だった。

 アイリスリットを通じて流れ込んでくる柔らかな温もりに、アセビの手から震えが消える。

 人形みたいなヤツだと思っていた。形だけ人間の、融通の利かない、感情のないオルクだと思っていた。

 今は違う。アセビにとってピエリスは、人形でもオルクでもない。ピエリスという名前の、大切な女の子だった。


「ごめ……ううん。ありがと、ありがとう。ピエリス」


 この気持ちをうまく言葉にすることはできない。したところで、きっとひどく陳腐なものになる。

 だからいいのだ。言葉は要らない。

 ふたりの瞳と同じ色の石が伝える感情の波は、言葉を凌駕して互いの心を包みこんでいた。

だからアセビはただ黙って、ピエリスをそっと抱きしめた。

ピエリスも、アセビを包みこむように腕を回した。


          ◇     ◇     ◇


「そろそろ戻ろっか」


 アセビがそう言って、原付の進路をキャンプ地のある海岸へ向ける。機体を緩やかに傾け、二人の頬を月の光が照らしだす。


「……?」


 ピエリスが首を捻り、空を見上げた。何か気になるのか、眉をひそめて空を見つめている。


「どうしたの?」

「なにか……いえ、気のせいです。すみません、戻りましょう」

「そう? じゃ、行くよ」


 前に抱くピエリスの体温を感じながら、アセビはスロットルを開く。

 二人を乗せた原付が、甲高いプロペラの音を響かせ、暗い海面へと降下していった。

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