第18話 添い寝

 どうにも良くない。アセビは目を伏せて唸る。


 何が良くないかと言えば、ピエリスの口元についつい目が行ってしまうことが、だ。

 それに気づいたのは、アセビがシオンとの別れを告げてから一週間ほど経った日のことだった。


          ◇     ◇     ◇


「ニワトリ、いるじゃないのよ」


 裏切り者を尋問する顔つきで、アセビはカゴに山盛りになった卵をピエリスに突きつけた。

 背筋をピンと伸ばしてキュウリをぼりぼりやっていたピエリスは、ごっくん、とキュウリを飲み込み、コクリと頷く。


「はい、いますよ」


リーゼクルス島に残された民家から使えそうなものを探していたアセビが発見したのは、荒れ地と化した庭でのびのびと暮らすニワトリたちの姿だった。


「もっと早く言え! 携行食糧と野菜だけでいい加減気が狂いそうだったわ!」


 プリプリと怒鳴りながらも、アセビの口元には笑みが貼りついていた。

 卵、卵だ! これでオムレツが作れる!

 狩り尽くさないよう注意すれば、鶏肉だって食べられる!


「素晴らしきかな動物性タンパク質!」

「わたしは野菜だけでも充分ですが……」


 アセビには到底理解不能なことをのたまうピエリスを無視して、アセビは食堂のキッチンに飛び込むと、「オラオラオラァアアッ!!」とフライパンを振るう。


「できたッ! ピエリス、あんたも食べてみなさいよ!」


 喜びと興奮と食欲でテンションがおかしくなっているアセビが、トマト入りのオムレツが載った皿をテーブルにドンと置く。

 ぱちぱちと瞬きするピエリスを放置して、アセビは自分の皿に山盛りのオムレツをよそると、大口を開けてオムレツをかき込む。

 アセビの口の中に、まろやかな卵の風味と、いいあんばいに焼き目の付けられたトマトのうま味が爆発する。味付けは塩だけ。でもそれがいい、それで充分だった。

 まるでダストシュートに吸い込まれていくように消えるオムレツの姿を、ピエリスはポカンと見つめていた。


「ん~~~~っ、おいっしぃいい~~~~ッ!!」


 フォークを握り締めたまま、アセビが雄叫びを上げる。目尻にはうっすら涙まで光っていた。


「頭おかしくなるくらい美味しいから食べなさいよ、ほら」


 ちょっと目がイっちゃってるアセビに若干引いているピエリスの手元に、オムレツが盛られた皿が差し出される。


「……では、いただきます」

 ピエリスはフォークにオムレツをほんの少しだけ乗せると、ロボットアームのような動きで口に運ぶ。

 小さくもぐもぐと動いていた口が、急に止まる。


「…………んっ」


 最初より多いオムレツをフォークを、ピエリスが口に運ぶ。ぱちぱちと、普段より若干早くなった瞬きと一緒に、フォークを動かす手が早くなっていく。

 かちゃ、と空になった皿にフォークが当たり、ピエリスはハッとした顔で口元をきゅっと引き締める。


「……これなら、わたしにも作れそうですね」

「素直においしいって言えや!」


 声を荒げながらもアセビは笑顔だった。空になったオムレツの大皿を名残惜しそうに見つめるピエリスの口元に、卵の欠片がくっ付いていた。


「ほら、くっ付いてる……」


 アセビは苦笑しながら、手を伸ばしてピエリスの口元から卵の欠片を拭った。

 びくっと反応したピエリスが、ムッとした顔でハンカチを取りだして口元を拭く。その様子を、アセビは穏やかに笑いながら、内心では冷や汗を流しながら見つめていた。


(な、なにやってんのよあたし……お母さんじゃあるまいし……)


 卵の欠片をつまんだときに、ほんの少しだけ触れたピエリスの唇の柔らかさがまだ指の先に残っていた。その手をテーブルの下に隠す。

 アセビの視線は、引き寄せられるようにピエリスの唇に向かっていた。


(……はっ? どこ見てんのよ、あたし……!)

「もっかい作ってきてあげる!」


 動揺をごまかすように大きな声で言って、アセビは席を立った。


          ◇     ◇     ◇


 それから、アセビは自分がふとした瞬間にピエリスの唇を見つめていることに気がつかされた。

 その度に顔が熱くなり、声は跳ね上がって、心臓が早鐘を打った。


 なんでこんなことになってしまったのだろう。

 考えてみればみるほど、その理由はひとつしか思いつかなかった。

 ピエリスのアイリスリットから流れ込んできた、シオンの記憶。

 唇に感じた、あの温もり。

 キスの肌触りを、アセビは初めて知った。

 当然知識は持っているし、幼い頃から、シオンはアセビのおでこや頬に優しいキスをしてくれた。けれど、記憶の中でシオンがピエリスにした「あれ」は、そういう親が子にするものとは、全く別物だった。


 ピリスリと一緒に中庭の草むしりをしているときも、原付の整備をしているときも、温泉に向かう道すがらも、お湯に浸かっている間も、気付けばアセビの視線はピエリスの桜色の唇に引き寄せられてしまっていた。

 気が付けば就寝の時間が迫っていた。ピエリスは部屋に戻ると、するするとジャージに着替えてベッドに潜り込んでしまった。明かりの消えた部屋の中に、蚊取り線香の匂いと蛙の合唱、時折風鈴が風に揺れる音が響いている。


 寝間着代わりのジャージに着替えたアセビは、ベッドに横たわり天井を見上げる。目をつぶってはみたものの、眠気はなかなかやって来ない。

 ごろり、と寝返りを打つと、隣のベッドで眠るピエリスの横顔が目に映る。両手を胸の上で組み、ぴくりとも動かない。

 アセビは起き上がり、ピエリスを見つめる。人形がベッドに横たえてあるかのような、体温を感じさせない寝姿だった。


 そろり、とアセビは床に足を下ろす。足音を消し、床を軋ませないように、ピエリスのベッドのすぐ脇でしゃがみ込んだ。

 近くで見ると、より一層ピエリスの人形めいた雰囲気が強まった。眠っているにもかかわらず身動き一つしない様子が、「人間そっくりに作られた感」を強めてしまっている気がする。

 そういうものだと解っていても、身動きしないピエリスにアセビは不安になる。

 まさか、このまま二度と起きないのではないかと心配になり、そっと彼女の口元に顔を近づけた。

 かすかな吐息が鼻先に触れた。


(あ、呼吸しているんだ)


 小さな発見に安心したアセビは、ベッドの上に身を乗り出して、ピエリスの唇が刻む呼吸のリズムに耳を澄ませた。

 そうしていると気になるのはやっぱりピエリスの唇で、ここにママがねぇ……と、アセビはなにやら感慨深い気持ちになる。

 すると、アセビ脳内で多数派を占める行動主義者が言うのだった。


『たかがキスでしょ? そんなに気になるならやってみればいいじゃない。ほら、はやく。ちょうど目の前にいい的があるじゃない』

「む、無責任なこと言わないでよっ、できるわけないじゃんそんなこと……!」


 ピエリスから顔を背けて呟いた、そのとき、


「なにがですか?」


 パチッ、と目を開いたピエリスに訊ねられた。


「ぅあひゃぁああっ!?」


 間抜けな悲鳴を上げて、アセビが身体を仰け反らせる。爪先でしゃがんでいた足がもつれて、床の上に尻餅をついた。

 慌てふためくアセビを、ピエリスは横たわったまま首を捻って見つめ、


「いま、何かしようとしていましたね?」

「なななっ、なんのことかしらっ!?」

「口調が変です」

「そんなことないですわよっ!?」


 あからさまに狼狽うろたえているアセビに、ピエリスは黙ったまま二、三瞬きすると、


「入りますか?」


 いきなりバサッ、とタオルケットをはね除けて、ずりずりと壁際に移動した。


「へぁっ?」


 ぽかんと口を開けて目を丸くするアセビの前に、ひと一人が横になれるスペースができあがっていた。


「え、あ。えーっと、あー。じゃあ、お言葉に甘えて……?」


 突然の出来事に、思考回路がフリーズしているアセビは頭の上に「?」を浮かべながらピエリスの隣に横たわる。

 ピエリスが身体の位置をずらして、マットレスの揺れがアセビにも伝わってくる。自分の意志とは別に揺れるベッドに、アセビは幼い頃母の布団に潜り込んだことを思い出した。母の腕の中に潜り込んで、ぎゅっとしがみついて眠りに落ちるのが気持ち良かった。


 記憶に釣られて身体が動く。横向きになったアセビは、予想以上に近くにあったピエリスの顔にぎょっとした。

 アセビと同じように、ピエリスも横向きになってアセビと向き合っていた。

 ドッドッ、と心臓が飛び跳ねている。どうしてこんなに緊張しているのか、その理由がアセビには解りそうで解らない。

 いや、本当のところ解っているのかもしれないが、解ってしまうと取り返しが付かなくなりそうだから目を背けているだけかもしれない。いや一体何を言ってるんだあたしは!?


「アセビ」

「ひゃぃっ?」


 近くなった分だけ小さくなった声で呼びかけられ、アセビは肩を震わせる。それ自体が光を放っているかのような、ピエリスの瞳に見つめられて、アセビは言葉が出なくなる。


「その、すみませんでした」

「え? な、なにが?」


 突然の謝罪に、アセビは混乱する。なにかピエリスに謝られるようなことがあっただろうか。卵の存在を黙っていたことだろうか。


「ビデオのことです。わたしが、アセビのお母様から受けとっていたのに、わたしは見ようともせず、あまつさえ処分しようとしていました」

「あ……。いや、でも」


 ピエリスは母シオンとの記憶がなかったのだ。


「仕方なくない? ママだって、あんたと自分の関係はなにも言わなかったんでしょ?」


 それに、結果的にアセビが拾い上げて中身を見たからこそ、今この状況があるわけで。


「結果オーライってやつじゃない?」

「でも……」


 ピエリスの視線がアセビから逸れる。間近で見るピエリスの目元は、追い詰められた者が浮かべる悔恨かいこんの色が滲んでいるように見えた。


「お母様は、わたしにビデオを見て欲しかったのではないでしょうか……」


 ピエリスの呟きに、彼女もまた自分と同じような疑問を抱いているのではとアセビは思った。

 つまり、シオンとピエリスは一体どんな関係だったのだろうかと、気にしているのではないかと思ったのだった。

 シオンは傷つきながらもこの島を目指していた。その理由は、ピエリスに会うためではなかったのか。その証拠に、あのキス……

 あのキスは「好き」を伝えるためのキスだったと、そう思う。つまり、シオンはピエリスのことが好きだったということになる。それも、恋愛感情を伴った「好き」で……


 ボッ! と音を立ててアセビの顔が熱くなる。目と鼻の先にあるピエリスの顔を直視できなくなる。慌てて寝返りを打ち、ピエリスに背を向けた。


「あたし、寝るね」


 それだけ言って、アセビは目を閉じた。

 あのキスのことを思い返すと、頭の中がぐにゃぐにゃになってしまう。

 頭の片隅で、アセビは独りごちる。

 誰かを好きになるって、どんな気持ちなんだろ……

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