第15話 お別れ
学校を飛び出し、アセビは走り続けた。
島を一周する環状道路に出ると、砂浜とは反対方向に向けて地面を蹴る。
どこかに行く当てがあるわけではなかった。
ただ、空を昇っていく太陽の日差しから逃れたくて、ひたすら西を目指した。
線路に沿って走り、果実の腐った饐えた匂いが漂う果樹園跡と抜けると、地面の傾斜がきつくなってくる。
進む先に、山の傾斜に張り付くような街並みが見えてきた。無秩序に増改築された建物同士がくっつき合って、狭い土地で蟻塚のように背を伸ばしている。
線路に飛び移り、バラストの小石を蹴り飛ばしながらあてもなく走る。雑居ビルが線路を挟むようにそびえて、辺りは薄暗い。
線路一本だけのちっぽけなターミナル駅の、誰もいない改札をくぐり抜ける。屋根に穴の開いたアーケード、傾いた飲み屋の看板、燃え尽きてフレームだけになったトラックが、アセビを見つめていた。
高い所に行きたい。空に近い、風を感じられる場所に。
迷路のように入り組んだ路地に漂うかすかな潮風を頼りに、アセビは背の高い雑居ビルに足を踏み入れた。
未開封の郵便物が散乱する玄関を抜け、非常階段を上る。最上階のドアを力づくで蹴破って、屋上に転がり出た。
冷たい潮風が、汗に濡れたアセビの前髪に吹き付けた。山の陰になって、屋上は薄暗い。
空を見上げ、手を伸ばす。遙か遠くを、白い雲が流れていく。
だめだ。こんな高さでは足りない。
「飛びたい……」
辛いことがあると、アセビは空を飛んで嫌な気持ちを吹き飛ばしてきた。空を飛んでいる間は、余計なことを考えずに済むからだ。
けれど、今のアセビには空飛ぶ魔法の箒がない。飛べない魔女は、為す術もなく空に手を伸ばした。
悔しくて涙が出てくる。助けて欲しい。けれど、自分を助けてくれる人はいなくなってしまった。
「ママは生きてる。あんなの、何かの間違い。ぜったい違う」
ちがう、ちがう、とうわごとのように繰り返す。しかしいくら繰り返したところで、少しも気持ちは楽にならない。
目眩がして、欄干にすがりつく。眼下は灰色の霧が立ちこめていた。やがて、日が射し込み、潮風に霧が吹き飛ばされていく。
霧が消えると、眼下に海が見えた。雑居ビルは切れ落ちた崖の縁に建っていて、そこから数百メートル下の海面まで遮る物は何一つ無い
足がすくんだ。
高さに怯えている自分にアセビは衝撃を受ける。今まで高いところが怖いと思ったことなんて、一度もないのに。
手が震える。手が白くなるくらい欄干を強く握り締めた。足下で軋む音がした。
ぼきんっ、と呆気なく、欄干が砕けた。
アセビの身体が投げ出される。とっさに手を伸ばして、残った欄干を掴む。が、潮風に晒され脆くなった鉄パイプがアセビの体重を支えられるはずもなかった。
──え?
転落した。その事実を受け入れるのに、時間がかかった。
雑居ビルの壁面が一瞬ですっ飛んでいく。コンクリートで固められた崖が、アセビの鼻先を掠めて行く。その光景は奇しくも地上ギリギリを低空飛行しているときに似ていた。
視界から崖が消え、縋る物の何もない空中が始まる。宙に浮いた島の底部が見える。アイリスリット鉱床の輝きが、まるで星々の輝きのように岩盤に張り付いていた。
走馬燈なんて嘘っぱちだとアセビは思う。
こんな状況に陥ったって、人は目の前の物を見るしかできないんだ。
それ以外、何もできないんだ。
ふと、脳裏に思い出らしき物が浮き上がる。
だがそれは在りし日の思い出でもなんでもなく、砂浜で息絶え、アセビが穴の底に埋めた少女の顔だった。
身体中の血の気が失せた。
ぎゅっと瞼を閉じる。何も見たくない。耳朶を打つ風切り音に耳を澄ませ、アセビは終わりがやって来る瞬間に備えた。
ごうごうと吹き付ける風の中に、かすかに甲高い音が混じっていた。
聞き覚えのある、懐かしいプロペラ音。
回転音が跳ね上がる。
「──アセビ!!」
名前を呼ばれた。
目を開いた。
落下するアセビを追いかけ、ピエリスがアセビの原付に跨がっていた。
持ち上がりそうになる機首を抑え込み、スロットルを全開にして、ピエリスが手を伸ばした。
「手を!」
腕を伸ばした。
風に煽られ、真っ直ぐ伸ばすことさえできない。
海面が近づく。もうだめだ。
目をつぶりかけたアセビに、ピエリスが声を張り上げた。
「お母様のこと、知りたくないんですか!?」
その言葉に、頭が熱くなった。
もう一度手を伸ばす。指先が触れた、けれど風に煽られすぐに遠ざかる。
目一杯腕を伸ばす。身体が痛む。それでも更に伸ばす。
波の形が解るくらい海面が近づく。
指が、絡んだ。
掴んだ手を握り締め、ピエリスが腕を引く。ピエリスを後ろから抱きかかえるような形で、アセビは愛機のシートに滑り込んだ。
海面まで二百メートル。
機首を上げろ、アセビはアイリスリットを制御しようとして、はたと気付いた。エンジンカウルにはまだ大穴が開いたままになっている。
その中は空っぽで、じゃあ今この原付を飛ばしているのは──
アセビの魔女の血が、アイリスリットに繋がる。
重力から解放される感覚を味わうと同時、アイリスリットに溜め込まれた膨大な情報がアセビの中になだれ込んできた。
◇ ◇ ◇
まずアセビが感じたのは身体の違和感だった。そうか、視点がいつもより低いのだ。
焼け焦げた匂いがした。
足元に血まみれの止血帯と、開封された止血剤のパッケージがいくつも散らばっている。
視点が動く。
ヒマワリ畑の中だった。
まるで群衆のように居並ぶヒマワリに囲まれ、その人は横たわっていた。
『これはきっと罰ね』
一年ぶりに聞く、母シオンの声だった。
下腹部に当てられた止血帯が、じくじくと赤黒く染まっていく。胸元で認識票が夏の日射しを照り返していた。その場に似つかわしくないビデオテープが、シオンの傍らに転がっている。
『罰?』
まるで自分が喋っているように、ピエリスの声が聞こえた。問いかけに答えることなく、シオンはかすれた声で言う。
『あなたぐらいの娘がいるの』
ピエリスが目をしばたたかせる。目の前の女性が何を言い出したのか、つかみ損ねているのがアセビにも解る。
『いきなり出てしまったから、あの子、私を追いかけてここまで来ちゃうかも』
シオンの瞳が、こちらを向く。
『そのときは、あの子と仲良くしてあげて?』
シオンが傷だらけの手を伸ばした。その手を掴むと、か弱い力で腕を引かれる。
『顔、良く見せて』
シオンの指が頬に触れる。アセビは自分の頬が触られたのと同じように、母の体温を感じ取った。
唇に、ぬくもりが触れた。
アセビは何が起きたのか解らない。きっとそれは視点の主も同じだっただろう。
僅かに揺らぐ鼓動が、アセビにも伝わってきた。
時間にすれば、ほんの二、三秒の出来事。
柔らかく湿った唇の感触が、離れていく。
トットット、と駆け出した鼓動が誰の物なのか判断がつかない。
『急に、なにを』
シオンが唇を釣り上げる。アセビも見たことのある、母の笑顔。
その頬を、涙がひとすじ零れ落ちる。
『最期の悪あがき、かな……?』
イタズラっぽい笑みを浮かべて、シオンが握る手に力を込める。
『もし、あの子が来たら、伝えて欲しいの』
蝉の音が遠のく。
『胸を張って、自分が望むように生きて。
お母さんはあなたのことが大好きよ。あなたが生きるこの世界も、お父さんと出会ったことも、全部。
愛しているわ、アビー』
視点が黒く滲んでいく。母の声が遠ざかっていく。
『私が死んだら、中庭の樹の下に。みんなと一緒に……おねがい』
『はい』
『約束』
『はい』
シオンの手から力が抜ける。懐かしい温もりが滑り落ちていく。
◇ ◇ ◇
「アセビ!」
ピエリスの声で現実に引き戻された。
眼前に海面が迫っている。ハンドルを引き寄せる。元の原付の出力では、ここから機首を引き上げることを間に合わない。
だが、今ならできる。
「ピエリス、出力全開!」
「はい!」
「ぅおりゃぁあああああああああああッ!!」
叫びながら、岩のように重いハンドルを気合いで引き上げる。
グリップのトリガースイッチを弾き、推進プロペラをホバリング設定にすると同時にアクセル全開で逆噴射。
骨が軋む。内臓が潰れる。
急制動に全身の血流が下半身になだれ込む。
視界が黒く霞んでハンドルから手が離れそうになる。その手に、小さな温もりが重ねられた。
途切れかけた意識で、アセビは腕の中に抱いたピエリスの体温だけを頼りにハンドルを強く握り締めた。
◇ ◇ ◇
ぬるい潮風に頬を叩かれ、アセビは目を覚ました。
下半身に溜まった血が頭に昇ってきて、こめかみがズキズキ痛む。そして、自分が原付の操縦桿を握っていることをハッと思い出し、計器を一瞥して周囲を見渡した。
海上、高度は三百六十メートル、機速は時速四十キロ。
背後には巨人の足のようなシルエット。リーゼクルス島が遠ざかっている。
「飛んでる……」
呆けた表情でアセビは呟く。スロットルを操作すると完璧なレスポンスでプロペラが回転数を上げ下げする。
抱きかかえるような形でシートに収まっているピエリスのつむじをまじまじと見つめる。
「あんたが、飛ばしてるの?」
聞くまでもない質問だった。
アセビには、ピエリスのアイリスリットに繋がっている感覚がある。これまで触れてきたどの主機よりも力強い。
そしてなにより新鮮だったのは、アイリスリットを通じてピエリスの感情が伝わってくることだった。
それは喩えるなら影絵を見るような、間接的な伝わり方だった。しかし、アイリスリットに触れることでこんな体験をするのは初めてで、アセビは思わずスロットルを開いて急旋回を決めた。
自分が思い描いたとおりの旋回軌道を描き、ぴたりと機体を水平に戻す。
全ての動作が、アセビの感覚と一分の隙もなくぴったりと噛み合っていた。
(楽しい……!)
アセビの口元に笑みが浮かぶ。
今までも空を飛ぶのは好きだった。けれどそれは、自分の身体とは別の、バイクという乗り物をいかに上手く操れるかという技術的な部分が楽しさのもとになっていた。
しかし今、ピエリスという「感情を持ったアイリスリット」と繋がり人機一体が達成されたことで、純粋に空を飛ぶことの自由さをアセビは噛みしめていた。
初めて単独飛行したときの、飛べるだけで嬉しかったあの頃を思い出す。小手先の技術云々なんて関係なく、重力を置き去りにして風を切るだけで楽しかったあの頃。
一八〇度回頭し、島に帰るルートを取る。
ピエリスが何か訊ねようとする感覚が伝わってくる。
「なに?」
「どうして、飛び降りたのですか」
「ち、ちがう! アレは手すりがボロかっただけで、別に、」
死のうとなんてしていない。そう口にする前に、ピエリスの頭の位置が少し下がった。
「そうですか」
ピエリスが安堵しているのが解る。彼女が自分を心配していたのだと知り、アセビにはそのことが驚きでもあり、心がくすぐったかった。
「あのさ、さっき————」
「わたしの記憶を見ましたね」
「あ、やっぱり。……そうなんだね」
ヒマワリ畑に倒れるシオンを看取る光景は、ピエリスの記憶だったのだ。
「ごめん、覗き見するつもりはなかったんだけど、急に流れ込んできて……」
「構いません。アセビがあの人の親族だと解った時点で、伝えるべきことでしたから」
「それでわざわざ伝えに来てくれたの?」
「……いえ、逃亡者を捕まえるためです」
ピエリスの答えには、かすかに誤魔化すような焦りが感じられて、そのことに思わずアセビの口角が上がる。
「そういうことにしとく」
声を上げて、アセビは笑った。目尻に浮かぶ涙が、朝焼けの光を閉じこめて光り輝いた。
「でも、ありがとう。おかげでママとお別れできたから」
◇ ◇ ◇
台風一過の紺碧の空を駆け抜けて、学校の上空を旋回。アセビは宿泊棟の屋上に原付を着陸させた。
繋留アンカーを屋上の床に打ち込んだところで、ピエリスが降りたら機体は浮かくなってしまうことを思い出す。
「ごめん、先に降りる」
センタースタンドを足で下ろして、アセビは原付から飛び降りた。ピエリスは原付を丁寧に床に着地させた。
「ありがと」
綺麗な着地に礼を述べて、アセビはピエリスに手を伸ばす。その手をピエリスは不思議な物を見る目つきで眺め、それからそっと手を伸ばしてアセビの手を掴んだ。
ピエリスがシートから降りる。舞い上がったスカートのはためきが、アセビの脳裏でビデオの映像と重なる。
とんっ、と軽い音を立てピエリスが降り立った。そして、握られたままの自分の手と、手を離そうとしないアセビを交互に見つめた。
「あのさ、お願いがあるんだけど。いいかな」
「なんですか?」
「ママのお墓の前に行きたいの。でも、一人だと……怖くて」
血の気が引いて汗の滲むアセビの手を握ったまま、ピエリスは頷く。
「行きましょう」
◇ ◇ ◇
二人は、日差しが射し込み始めた中庭に下りてきた。
辺り一面には、虫除けと死臭をごまかすために焚きしめられた線香の匂いがまだ残っていた。
アセビはピエリスの手を握ったまま、真新しい土盛りの隣の墓に向き合った。
動揺したアセビが落としてしまったのか、シオンの認識票が地面に落ちている。
アセビはそれを拾い上げると、表面の土を拭い、鎖に繋がれた二枚の認識票の内一枚を鎖から外すと胸ポケットにそっと仕舞った。
一枚だけになった認識票を再び墓標に掛けると、アセビは墓前に膝を突く。
なはは、とアセビは情けなく笑う。
「魔女の仕事勝手に放り出して来ちゃったから、きっとめちゃくちゃ怒られちゃう。ママもそうだよ? シオンさんじゃなきゃ頼めない仕事があるんだ、って言う人、結構いたんだからね。きっと、帰った途端怒り狂ったリナリア姉さんにまた飛行禁止くらっちゃう。
ズルいよ。ママと一緒に帰ればリナ姉に怒られずに済むはずだったのに……」
自分で口にした言葉に、アセビはハッとした。
自分は、もう母と一緒に故郷へ帰ることはできないのだと、自分が認めていることにそのとき初めて気が付いた。
途端に、目の前が滲んだ。
「あたし、ここまで来たよ? ママを追って、原付で飛んできたんだよ? それなのに……なんで、どうして……っ」
ひぐっ、と喉が鳴って言葉が詰まる。
傍らのピエリスの手を握り締める。
嗚咽を堪えようとしたけれど、だめだった。
「ぁああああ……っ!!」
空に向かって、胸にこみ上げてきたものを吐き出した。溢れる涙を拭くこともせず、アセビは大声をあげて泣き崩れた。
◇ ◇ ◇
アセビが泣き止むまで、ピエリスは手を握られたままじっと佇んでいた。
やがてアセビが立ち上がり、赤くなった目元を手で拭う。そのときになって、アセビは自分がピエリスの手を握り続けていたことに気付き、赤面しながらぱっと手を離した。
「ご、ごめん。痛かった?」
ピエリスはゆるく首を振った。
アセビが「うーんっ」と伸びをした。形の良い胸が反り返り、長い腕が空に伸ばされるのを、ピエリスはぼんやりと眺める。
ぴん、と伸ばした指で木漏れ日を受け止めていたアセビが、すっと腕を下ろしてピエリスを振り返った。
「ねえ、あたしさ。今まではママを探すために旅を続けてきたわけじゃない?」
「はい」
「でも、ここであたしの旅は終わっちゃった」
「はい」
「ほんとは、帰らなきゃ行けないのかもしれないけど、なんて言うか、まだちょっと「違う」かなって」
アセビが両手の指先を絡める。
「原付のアイリスリットもないままだし。それに、ピエリスにしたって、あたしに勝手に島から出て行かれると困るわけでしょ? だったら、べつに利害はズレてないというか」
「そうですね」
ピエリスは不思議に思う。アセビはどうして言い淀んでいるのだろうか。これまで見てきた限り、彼女は思ったことは臆せず口にするタイプのはずだ。
「島に残りたいのなら、わたしは問題ありません」
「マジっ?」
口元を緩めて、アセビが振り返る。
「ええ。食糧やエネルギー的には、ひと一人分は充分賄えます」
ピエリスが言うと、アセビが眉を寄せる。
「そうじゃなくて! その、ピエリスは良いのかな、って」
「わたしが、ですか?」
ピエリスは首を傾げる。アセビが自発的にこの島に残ることは、任務上も好ましいことだ。
だが、アセビが気にしているのはどうやら別のことらしい。
考え方を変えてみた。
記憶のある十八年間、一部の例外を除いてピエリスはずっと一人きりだった。
アセビと共に空を飛んだときのことを思い出す。アイリスリットを通じて流れ込んできたアセビの気持ち、空を飛ぶ喜びに震える感覚は、ピエリスにとって不思議と懐かしく、心地よいものだった。
きっとアセビが言っているのは「こういうこと」なのだろう。
だから、ピエリスはアセビを真似して思うことをそのまま言葉にしてみせた。
「わたしは、アセビといることは不快ではありません。脱走さえしなければ」
「もうしないってば」
アセビが笑う。
その横顔が、ピエリスが最期を看取った女性のものと重なる。
何故かその横顔に、ピエリスの胸は締め付けられるように痛むのだった。
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