第8話 思い出 3

          ◆     ◆     ◆


「温泉行こうよ」


 その日、彼女が突然そんなことを口走りました。

 相も変わらず、彼女は土にまみれていました。

 ただしこの日に限っては、わたしも同じでしたが。

 かなりの高さから転がり落ちそうになる彼女の手を、とっさに掴んだのが運の尽きでした。


 ふたり一緒に夏草の茂る坂を転がり落ちて、身体のあちこちが痛みました。はっとして隣で大の字になっている彼女を振り返ると、ぽかんとした顔でこちらを見て、それから彼女は笑い出しました。


「なにを笑っているんですか……」

「だって、さっきの「ヤバッ!!」って顔……くく」


 どうやら、よほどわたしは驚いた顔をしていたようでした。

 起き上がり、わたしは身体についた草や枝を取り払いました。夏草の汁で服のあちこちに緑色のシミがついていました。


「それ、洗わなきゃだね」


 その後に続いて出てきたのが、最初のセリフでした。

 どう反応すべきかわたしが戸惑っていると、彼女はさらに詰め寄ってきました。


「あたしのせいで泥まみれにしちゃって悪いからさ、ね、おごるから」


 ほとんど彼女に連行されるようにして、わたしは初めて温泉に足を踏み入れました。


「肌きれい。うらやましい」


 肌をさらすことに慣れていないわたしをまじまじ見ながら、彼女がそんなことを言いました。

 わたしはどう返せばいいのか分からないまま、彼女の真似をしてかけ湯をして、お湯に浸かりました。

 混乱していました。いったい、わたしは何をしているのかと。

 わたしと彼女の関係は、逃げる者と捕まえる者だったはず。それなのに、どうして肩を並べてお湯に浮かんでいるのでしょう。


「ホントはね、もっと前から誘おうと思ってたの」


 脈絡もなく、彼女が口を開きました。


「ほら、良く言うでしょ。同じ風呂釜に入ると仲良くなるって……あれ? それは同じ釜のメシを食べると、だっけ?」


 眉をひそめて首を傾げる彼女に、わたしは呆然としていました。


「仲良くなりたいのですか? あなたは、わたしと?」


 今度は彼女が目を丸くして、大きな声を出しました。


「そんな「あり得ない」みたいな顔しないでよ!」


 わたしたちしか居ない浴場に、彼女の笑い声が響き渡りました。

 誰かと「仲良くなる」という状況を考えたこともなかったわたしは、彼女のこの申し出にどう振る舞えばいいのか、さっぱり分かりませんでした。


「ま、いいわよ。今まで通りで。あたしはそれで充分オモシロ可笑しいし」

「わたしは迷惑千万なのですが」

「そもそも、あんたがあたしの原付ぶっ壊したのがいけないんだからね。パーツも全部回収して、元通りになるまで付き合ってちょうだい」


 なにが「付き合ってちょうだい」でしょうか。

 呆れて口も利けませんでした。とはいえ、この状況では何を言っても説得力に欠けるので、わたしはそのまま黙り続けることを選びました。


          ◆     ◆     ◆

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