第7話 温泉

「はぁ、はぁ……っ! なんで、こんなこと……!」


 ぽた、ぽた、と汗が滴り、土に染みこんでいく。

 こんな責め苦を一体いつまで続けなければならないのかと、アセビは唇を噛んで軍手を履いた手で額を拭う。顔が汚れるが、もうどうでもいい。

 元気いっぱいに育った夏草は根っこがしっかり地面に食いついて、握力が見る見るうちに失われていく。

 アセビの背後では、ピエリスが同じように麦わら帽子に軍手姿で、地面にしゃがんで黙々と草を引っこ抜いている。


          ◇     ◇     ◇

 

 学校に連れ戻されたアセビに、ピエリスは「本日の業務」を与えた。

 ぽかんとするアセビを、ピエリスは校舎と校舎の間にある中庭に連行した。

 広さは一片二十五メートルほど。正方形の庭で、中央では樹が葉を茂らせている。

 そして、樹の周りは無数の墓標で埋め尽くされていた。

 立ち尽くすアセビに「草むしりをします」とピエリスは告げて軍手を履いた。

 

 それからおよそ一時間、アセビはピエリスと並んでむちむちと草を引っこ抜き続けた。

 腰が痛くなってきた。立ち上がって、伸びをする。

 麦わら帽子で顔を扇ぐ。足下を見回すと、地面が綺麗になっているのはせいぜい五メートル四方に過ぎなかった。遠い道のりにげんなりする。


「ねえ、これまさか今日中に全部終わらせるとか言わないでしょうね」

「ええ。これから毎日やれば良いだけです」


 それはあたしも付き合わされるってことか。アセビは舌打ちする。大きな樹が立っているおかげで、日差しは多少遮られるが、四方を建物に囲まれているせいでひどく蒸し暑い。


「これが終わったら、島から出てっても良い?」

「ダメです」


 麦わら帽子を地面に叩きつける。べしんっ、と跳ねた帽子が、地面に置いてあった蚊取り線香にぶつかる。

 ピエリスは蚊取り線香を拾い上げ受け皿にセットし直すと、丸い焦げ付きができた麦わら帽子をアセビに差し出す。


「もうすこし頑張ったら、本日分の報酬をあげます」

「……なによ、というか話逸らさないで──」

「お風呂です」

「おふっ!? マジでっ!?」


 風呂という単語に、アセビの目が反射的に輝く。


「入れるのっ? お風呂? 本当にっ!?」


 風呂。母を探す旅の間、アセビが食事と共に我慢し続けてきたものの一つだ。思わず食いついてしまったことに、アセビは顔が熱くなる。 

 島からの脱出という目的と、風呂という魅力を天秤にかけそうになっている自分にアセビは慌てて首を振る。まてまて、甘い言葉に目的を見失うな。

 でも、風呂には入りたい。


「……っ。そんなもので懐柔しようたって、そうはいかないわよ」

「いえ。アセビの体臭が衛生上問題になるレベルだと判断したためです」

「っさいわねッ!! そういうのはもうちょっと遠回しに言いなさいよ!」


 解ってる。自分でもヤバいとは思っていた。でもそんなに? 自分で思ってるよりひょっとしてあたし臭いの?

 スンスンと自分の匂いを嗅いでいると、ピエリスは話し合いは終わりだとばかりに草むしりを再開する。


 傾いた日差しが、窓ガラスに反射して中庭に射し込んできたころ、ピエリスが軍手を外して立ち上がった。


「とりあえず、今日はこのくらいにしましょう」

「ぅ、がぁ~~~~……づかれだぁあ……」


 全身汗みずくになったアセビは地面にべったりと座り込む。中庭の四分の一ほどの地面が綺麗になっていた。疲れでぼんやりする頭で、アセビは立ち並ぶ墓標を眺める。


「このお墓って、誰の?」

「恐らく、この島の住民のものでしょう」


 アセビは墓標の一つに近づいて眺めてみる。いつからここに立っているのか解らないが、思ったより綺麗だった。


「あんたが綺麗にしてるの?」

「はい」

「へんなやつ」


 ピエリスが小さく首を傾げる。


「だって……あんたオルクなんでしょ? 人間の敵じゃないの?」

「島の現状維持には、この墓地の管理も含まれていると解釈しています」


 オルクの墓守なんて人が聞いたら何て言うか。憎まれ口を言いかけたアセビは、しかし墓標一つひとつを見つめるピエリスの横顔に、口を噤んだ。


「どうかしましたか?」

「いや、別に……っていうか、ちゃんとお風呂入れさせてくれるんでしょうね?」

「約束は守ります。すこし歩きますが、問題ありませんか?」

「いっくらでも歩いてやるわよ!」


 意気込んで叫ぶアセビに、ピエリスはコクリと頷く。

 墓標を見つめる横顔に宿っていた、寂しげな表情はもう見えなくなっていた。 


          ◇     ◇     ◇

 

 着替えを詰め込んだ籠を持ったピエリスに続いて学校を出る。

 左手を見ると、海に沈んでいく太陽が雲を真っ赤に染めていた。昼間はうるさかったセミたちも声を潜めて、代わりにヒグラシが涼しげな声を上げ始める。


 十分ほど歩いた。

 島の北側の大部分を占める山に向かう坂道の途中に、目指すべき施設が見えてきた。


「え……、ここ? 大丈夫? どう見ても廃墟だけど」


 アスファルトがひび割れ草ぼうぼうになった駐車場の奥に、二階建ての木造建築が建っている。

 窓は全て割れ、木々は建物を覆い隠すように枝を伸ばし、辺りには一足先に夜が訪れていた。

 オルクが潜んでいやしないだろうかと、アセビは怖じ気付く。ピエリスが首を傾げる。


「帰りますか?」

「帰んないわよ! なんのために草むしりしたと思ってるの!?」


 ガラス戸が外れて通り抜け自由になった入り口をくぐる。

 中は思った以上に綺麗に片付いていた。しかし、いかんせん暗い。

 ピエリスが懐中電灯を灯すと、かつてはフロントだったであろうスペースを照らし出す。革張りが破けてクッションがはみ出た長椅子、朽ち果てた観葉植物、空っぽの棚にホコリを積もらせた売店を横目に、二人は建物の奥を目指す。

 長い廊下を歩き、階段を上る。

 そこだけは綺麗なガラス戸をくぐると、むわっと熱気の壁にぶつかった。


「えっ? もうお湯張ってあるの……?」


 アセビは暗い脱衣所を駆け抜け、浴場に続く引き戸を開ける。

 浴場の奥はガラス張りで、夕日が沈みゆく海が一望できた。その絶景を見下ろす形で、二十人は一度に入れそうな湯船が、こんこんと湧き出るお湯で満たされている。


「なにこれ! なにこれッ!?」

「温泉です」

「温泉!? お湯が地面から出てくるアレよね。……ん? でもここ浮遊島でしょ?」

「アイリスリット鉱床が熱源になって、地下水を温めているようです」

「はぁ〜……? よくわかんないけど、入っても大丈夫なの?」

「ええ。どうぞ」


 思わず口元が緩むのも隠さず、アセビは脱衣所にとって返すと籐で編まれた籠に汗をたっぷり吸った服を放り込む。どうせなら後で洗濯もしてしまおうかと思ったが、今は一秒でも早くお湯に浸かりたかった。

 スキップでもしそうな気分で振り返ったアセビは、脱いだ制服を綺麗に畳んでいるピエリスの姿に凍り付いた。


「ちょっ!? なんで裸なのよっ!?」


 白い肌を晒して服を畳み終えたピエリスが首を傾げる。


「わたしも入浴するからですが?」

「へうぇっ!?」


 変な声を出して固まったアセビを残し、ピエリスはすたすたと浴場へと消える。


「な、なんなの、あいつ……」


 アセビには他人と一緒に入浴するという経験がほとんどない。せいぜい、幼少期、母シオンと一緒にバスタブに浸かった程度だ。

それなのに、敵同士と言っても良い関係のピエリスと一緒に入浴? どう振る舞えばいいのかさっぱり分からない。

 アセビの脳裏に、ピエリスの日焼け一つない白い肌が蘇る。

 ぶるぶると首を振る。いや、なにをドキドキしてんだあたし、と頬を叩いて、アセビも浴場に足を踏み入れる。


 ピエリスは一足先にお湯を浴びて身体を洗っている最中だった。歩み寄るアセビには、背を向けている。


(あれ、ひょっとして今倒すチャンスなんじゃ……?)


 アセビはそっとピエリスに近寄る。裸足なので、音を消すのは容易かった。お湯を被っているピエリスの背後、手を伸ばせば届く近さまで接近することができた。


(首ほっそ……)


 緊張に心臓が暴れ出す。頭の中で、ピエリスの首を絞めて床に引き倒す動きを描く。

 ……三回やって三回とも返り討ちにされた。


(やってみないと解らないでしょ!!)


 そのときピエリスの手が、下ろしていた黒髪をかき寄せ身体の前に垂らした。髪で隠れていた彼女の背中が、露わになる。

 ピエリスの背中に刻まれた大きな傷跡が、アセビの瞳に飛び込んできた。

 思わず声を上げそうになり、アセビは慌てて口を押さえる。そのくらい、凄惨な傷跡だった。

 巨大な物体が身体を貫いた、人間なら間違いなく助からないレベルの負傷の痕跡だった。

 引き攣れた肌は、正常な肌よりも青白く、かすかに金属っぽさを感じさせるピエリスの骨格を透けさせていた。

 おそらく、胸の方にも、同じような傷跡があるのだろう。


 そんなことをぼんやりと考えながら、アセビの手が傷跡に触れる。

 ふにゅ、と思った以上に柔らかい手触りが返ってきた。次の瞬間、


「ぴゃっ……!?」


 ピエリスが変な声を出しながら、ガタンとイスを弾き飛ばしながら跳び上がった。アセビの脛にイスが直撃して、アセビの視界に星が散る。


「ぎゃっ! いっつぅ! ……あ」

 脛を押さえて呻くアセビが、顔を上げる。両手を胸に当てたピエリスに見下ろされていた。

 逆光でよく見えなかったが、その顔は真っ赤に染まっているように見えた。


「ぴゃっ、って言った」

「言ってません……」


 ピエリスはムッとした顔で、ほんの少し早口になった。


「……その傷、どうしたの?」

「鉄骨が貫通していました」


 アセビの方を向いているピエリスの胸元には、背中と同じように引き攣れた傷跡が残っていた。


「鉄骨って……なんでまた」

「その傷を負う以前の記憶を失っているので、分かりません」


 そう言ってピエリスはペタペタと湯船の方へ歩いて行った。

 アセビはピエリスの肌に触れた指先をまじまじと見つめる。

 血の通った柔らかさが、そこには残っていた。


          ◇     ◇     ◇


 久しぶりに周囲を警戒せずに身体を洗うことができた。なんだかそれだけで身体がもの凄く軽くなった。

 このままお湯に浸かったら、身体が溶けてなくなってしまうんじゃないかと思う。

 アセビは広々とした湯船の前でごくりと生唾を飲む。

 生まれてこの方、こんなに広い湯船に浸かるのは初めてだった。しかも、今回は貸し切り(ピエリスはいないものと考える)なのだ。


 ちゃぷ、と爪先を湯に浸す。やや熱めの湯だった。そろり、と脚を浸して、そこから先は一気に肩まで浸かった。


「…………ふぃ~~~~~~はぁぁあああ~~~~~~」


 我ながら情けない声が出たと思う。けれどもう知ったことか。アセビは開き直って久方ぶりの入浴を全身で味わった。

 つむじに天井から水滴が十回滴る間、アセビはどこにも焦点を合わせずただ湯に浮かんだ。

 ふと、窓の外を見ると、太陽が海に沈みきったところだった。

 空は橙色から群青のグラデーションに染まり、海はのっぺりとした灰色の絨毯のようにどこまでも広がっていた。


「きれい」


 ぽつりと呟く。母を追う度の生活の中では、日没は一日の行動を強引に終了させるタイムリミットでしかなく、焦りを募らせるものだった。

 自分の口からこぼれ落ちた言葉に、アセビは気の緩みに気づかされる。


(なにリラックスしてるんだ。こうしている間にも、ママは遠くへ行ってしまっているかもしれないのに……)


 けれど、こうして広い湯船に浸かりながらこの景色を見られたことは、その経緯はともかく良かったと、アセビは思うのだった。

 毎晩アセビが眠りにつく度に押し寄せてきた焦燥感さえも、今は湯にふやけて溶け出してしまったかのようだった。


          ◇     ◇     ◇


 脱衣所では、ピエリスがランタンの淡い光の下で制服に着替えていた。


「これを」


 来るときから持っていた手提げ袋を、ピエリスから手渡される。中を覗き込むと、ピエリスが身に付けているものと同じ制服が折り畳まれて入っていた。


「元の服は後で洗濯してください。この制服はお貸しします」

「あ、ありがと」


 袋には新品の下着まで入っていた。至れり尽くせりだが、これは……


「なんでサイズぴったりなのよ……」

「見れば解ります」


(なにその気持ち悪い特技……)


 ジトッとした目で見られていることに気付いたのか、ピエリスが少し焦ったような声で付け足した。


「体格を見抜くのは相手の戦闘能力や武装の有無を推定するためです。他意はありません」


 背中の傷跡に触れたときにしても、今にしても、ピエリスが感情を見せ始めた。

 なんだか妙におかしく思えて仕方なかった。野良猫がほんの少しだけ懐いたような、そんな気分だった。

 人形みたいなやつかと思っていたが、そうでもないのかも。

 そんなことを考えながら、アセビは制服に袖を通す。防虫剤なのか、薬品の匂いのするそれは、実用性重視の服ばかり身に付けてきたアセビには薄っぺらくて心許ない。

 けれど、鏡に映る自分の姿に、アセビは視線を奪われてしまう。

 襟付きの半袖シャツに、折り目の付いたスカート。これまでアセビが着てきたどんな服より、女の子っぽい服だった。急に頬が熱くなる。


(だめだこれ。なんか仮装してるみたいだ……)


「どうですか?」


 鏡をピエリスが覗き込む。同じ服を着た彼女と一緒に見ると、違和感がほんの僅かだが薄らいだ気がした。


「ん……。胸が少しきついかな」


 ピエリスが鏡越しにジッとアセビを見つめる。


「いちばん大きいサイズを選んだのですが、規格外です」

「どこ見てんのよっ!」


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