第5話 トマト

 黒髪お下げの少女──ピエリスに案内され、アセビは建物の中を移動する。

 かつては大勢の人が利用していたであろう建物に、二人以外の気配はない。廊下のリノリウムが、射し込む日差しを反射していた。


「ねえ、この建物って何なの?」

「学校です」

「がっこう? がっこうって、子供たちが集まって勉強するあの学校?」

「はい」

「こんな大っきいの!? え? 何人いたのよ子ども」


 大人たちから話を聞いたことはあったが、建物の大きさとそこから想定される収容人数の多さに、アセビは目を丸くした。

 子供の数はどう考えても、十や二十じゃきかない。


「記録では、三百六十二人となっています」

「さんびゃ……っ!? 嘘でしょ? 戦争前ってそれが普通だったの?」


 未だかつて一度も、アセビは三百人もの子供が集まっているところなど見たこともない。それほどまでに、この世界の人口は減少していた。

 階段を一階まで降り、食堂らしき大広間にアセビは案内された。

 広い厨房とテーブルが広い窓口で隔てられている。厨房からは、微かに水の流れる音がした。


「食べてください」


 テーブルに座ったアセビの前に、ドンっ、と白い丸皿が置かれた。皿には水で冷やされたトマトとキュウリが山のように盛られている。


「……せめて料理くらいしなさいよ」


 小声で愚痴りながらも、アセビの口の中は唾液でいっぱいだった。

 ここしばらく、食事は携行食糧や保存食ばかりで、生野菜など望むべくもなかった。

 そんなアセビの目には、山盛りのトマトとキュウリは食べられる宝石のように映っていた。

 震えそうになる手を隠して、トマトを手に取る。しっかり冷えた、はち切れそうな表面。パンパンに実が詰まっているのが触っただけで判る。かぶり付くと、爽やかな酸味と甘みが、みずみずしい果肉と一緒に口の中に広がった。


「んんん~~~~~~~!!」


 思わずアセビは足をばたつかせる。間違いなくアセビの人生で一番おいしいトマトだった。

 悶えるアセビの向かいで、ピエリスもキュウリを手にとってボリボリと囓り始めた。ひどくシュールな光景に、アセビは唖然とする。


「あんた、ごはん食べるんだ……?」

「有機物からの栄養補給が可能なので」


 背中に定規が入ってるのかと思うほど綺麗な姿勢のまま、ピエリスが「ごくん」とキュウリを飲み下す。

 アセビは囓りかけのトマトを見つめ、次にピエリスを見つめる。


「これ、あんたが育てたの?」

「はい」


 素手で鋼鉄を引き裂いて、生身で宙を舞い、一撃でアセビを昏倒させたピエリスの姿と、畑でトマトとキュウリの苗に水をやる姿が一致しない。アセビの眉間にシワが寄る。


「へんなやつ」


          ◇     ◇     ◇

 

 食事を終えたアセビは、若干砕けた態度でピエリスに話しかけた。


「ねえ、あんたはこの島でなにしてるの?」


 背筋をぴんと伸ばしてイスに座っていたピエリスが、唇だけ動かして答える。


「待っています」

「待つ? なにを?」

「それは分かりません」

「なによそれ」


 アセビは呆れかえる。


「わたしにとっても「待て」という命令はひどく曖昧です。ですので、わたしはこの命令を次のように解釈しました。つまり、「現状を維持し、次の命令を待て」と」

「次のって……あんた分かってる? 戦争はもう二十年も昔に終わってるのよ? あんたに命令出す国はもういないし、そもそもあんたオルクなんでしょ? オルクって誰かから命じられて人を襲ってるわけ?」

「それは分かりません」

「なんなのよあんた本当に」


 イスの背もたれに寄り掛かって、アセビはテーブルを指先でコツコツ叩く。


「こっちは原付ぶっ壊されて、ぶん殴られて軟禁されてるんだけど? せめて「ごめんなさい」くらいないわけ?」


 アセビに睨み付けられても、ピエリスは動じない。


「命令を遂行したまでです。わたしに謝罪する義務はありません」

「だから命令なんて無視すりゃいいでしょ! どーでもいいじゃないそんなの!」


 苛立つアセビの言葉に、ピエリスの表情に初めて険しさが生じた。といっても、目をほんの少しだけ細めただけだったが。


「この命令は、わたしにとって大切なものなのです」


 ピエリスから向けられた鋭い視線に、アセビは不意を突かれてドキリとした。


「……理由は?」

「それは分かりません」


 がっくりうな垂れ、アセビは首を振る。

 話にならない。少女型のオルクというだけでも既に意味不明なのだが、その上性格も不思議ちゃんでは相手をする側が疲れるばかりだ。


「もういいわ……あたしはさっさと出て行かせてもらうから」

「それは許可できません」

「なんでよ!?」

「人間の越境阻止はわたしたちのアイリスリットに刻まれた至上命令です」

「うっさいうっさい! あたしはやることがあるんだっつーの!」


 座っていたイスの背もたれを掴むと、アセビは上半身を捻って持ち上げたイスをピエリスに向かって投げつけた。

 対するピエリスは片手でイスを受け止めたが、勢いを殺しきれずに座ったイスごと後ろにひっくり返った。

 ガシャーン、とやかましい音が食堂に響き渡る。


「ざまーみろ!」


 チンピラのような捨て台詞を残し、アセビは一目散に食堂から逃げ出した。

 

          ◇     ◇     ◇


 四十秒で捕まった。


 アセビは地面に大の字にひっくり返って、腹立たしいほど澄み切った青空を見上げていた。埃っぽい土が舞い上がって汗の滲んだ肌にこびり付く。セミの声が「だからよせと言ったのに」と嘲笑している。


「逃げないでください」


 未舗装の、日差しで焼かれた土が剥き出しの道の上。ピエリスが麦わら帽子の下から冷たい視線を投げて寄越す。


「あーーーーー!! もーーーーーーっ!!」


 大空に向かってアセビは叫ぶ。大声を出すとほんの少しだけ気持ち良かった。


「無駄だと分かっていて、なぜ逃げるのですか」


 これだけ圧倒的な力を見せつけられると、負け惜しみも投げやりになる。


「あんたに会いたかったからよ」


 ふん、とアセビは鼻を鳴らす。ピエリスにこの焦燥感は判りっこない。この島に一分一秒留まるほどに、母との距離が広がってしまうこの焦りが。

 息が詰まりそうなくらい暑い。セミの声が腹立たしい。脳天気にもくもく膨らむ入道雲が恨めしい。


 この島から、自分は出ることができないのだろうか。

 全てが投げやりな気持ちになってきた。空も飛べず、母も追いかけられない自分に、一体何の意味があるというのだろうか。

 顔面を炙る日差しに舌打ちして、アセビは右手で日差しを遮る。さっきからピエリスが黙りこくっている。アセビはそっとピエリスの顔を盗み見た。


「……はぁ?」


 変な声がアセビの口から出た。

 ピエリスが変な顔をしていた。口を半開きにして、目を丸くして、鼻の頭を赤くしている。


「なによ、その顔」

「……?」


 ピエリスが首を傾げる。既に今まで通りの無表情に戻っているが、まだ少しだけ頬が赤い。

 ぺち、とピエリスが自分の頬に触れる。パチパチと瞬きをして、また首を傾げた。


「あなたが妙なことを言うので、表情筋がエラーを起こしました」

「あんたの方がよっぽど妙なこと言ってるわよ」


 目を眇めるアセビの顔に、ピエリスは被っていた麦わら帽子をぼすん、と乗せる。


「あによ、これ」

「熱中症対策です」


 麦わら帽子を手に取って、ピエリスを見上げる。どこから取りだしたのか、軍手をひと組、アセビにポイと放って寄越した。


「無駄な抵抗はやめて、わたしの指示に従ってください」



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