第4話 ピエリス


 蚊取り線香の匂いがする。


 アセビはうっすらと目を開いた。

 どこだろう。薄暗い部屋の、知らないベッドの上だった。ふと、ベッドの傍らに誰かいることに気付く。

 椅子に腰掛けたその人物が、水を絞った布巾をアセビの額に乗せてくれた。

 冷たい指先がアセビの頬に触れた。アセビの瞼の裏で、母の記憶が蘇る。

 風邪を引いて熱にうなされるアセビの頬を包みこむ母の手の冷たさ。今アセビに触れる手の冷たさは、それによく似ていた。


「ありがと、ママ……」


まどろみの中でアセビが呟く。暗がりの中で人影が振り返る。


「わたしはあなたのママではありません」


 見知らぬ声に、アセビの身体に緊張が走る。寝汗で湿っぽくなったタオルケットをはね除けて起き上がる。


「ぅえっ!? あれっ!?」


 アセビは傍らの人物を振り返る。黒髪をお下げにして、染み一つない制服をかっちり着こなした少女が背筋を伸ばして椅子に座っている。


 ママじゃないじゃん……!


 カァ~っと顔が熱くなって、アセビは少女から顔を背けた。

 先輩魔女のことを「ママ」と呼んでしまったとき以来の恥ずかしさに悶えていると、お下げ少女が問いかけてきた。


「なぜこの島へ?」


 その言葉に、アセビはぽかんと口を開ける。少女の顔をまじまじと見つめ、

 思い出した。


「……アッ!? あんたッ!! ぶっ壊したでしょあたしの原付ッ!!」


 少女に掴みかかろうとした瞬間、アセビの視界がくらりと揺れる。少女の襟首を掴むはずだった手はへなへなと空を切って、アセビはベッドに仰向けに倒れ込んだ。


「ぅ、う~……?」


 ぐわんぐわんと目が回るアセビに、少女が水筒のカップを差し出した。少女の手からむしり取るようにカップを奪って、アセビは注がれていた水をひと息に飲み干す。


「もう一度訊きます。なぜこの島へ?」

「……あんた、何者?」

「なぜこの島へ?」

「人間じゃないでしょ」

「なぜ、この島へ?」

「……」


 アセビは口を閉ざし、少女から顔を逸らす。だんまりを決め込むアセビに、少女は苛立つわけでもなく、「後ほど、あらためて訊きます」とだけ言い残して部屋を出て行った。施錠音が響く。


「なによ、あいつ……」


 仰向けに倒れたまま、アセビは呻く。回っていた目は、だいぶマシになってきた。


「とにかく、ここから出なきゃ」


 汗臭くなったタオルケットを蹴り飛ばし、アセビはベッドから這い出る。

 ドアに歩み寄る。ドアノブを捻るが、当然、開かなかった。

 アセビは部屋を振り返る。ベッドと椅子が一台ずつしかない、狭い部屋だった。ドアの反対側には、鉄格子のはめられた窓。

 窓から外を見ると、ここが三階の高さだということが判った。アセビが原付で不時着した運動場と、三階建ての建物の一角が見えた。

 窓を開け放ち、鉄格子を掴んでみる。ぐっ、と体重を掛けると、僅かに鉄格子がたわむ感触があった。

 にやり、とアセビの口元に笑みが浮かぶ。


 バガンッ! とそれなりにやかましい音を立てて、鉄格子が外に吹っ飛んでいく。それに続いて、アセビ自身も跳び蹴りの姿勢を維持したまま三階の高さに躍り出た。

 タオルケットを引き裂いて作ったロープを命綱に、アセビは二階と一階の間あたりの壁に「だんっ!」と両足で着地する。

 地面までの高さを確認して、アセビはロープを手放す。三点着地で衝撃を受け止めるとアセビは立ち上がる。


「魔女を、舐めんなっつーの」


 蛙の鳴き声が辺り一面に響き渡っていた。


「さて、じゃあ逃げますか」


 姿勢を低くして、アセビは走り出す。気を抜くと目眩がぶり返しそうなのをぐっと堪えて、茂みに身を隠しながら、脱走した建物から離れた。

 しばらく進むと広い道に出た。アセビは海に向かって左方向、南に向かって歩き出す。

 見上げると、雲一つない満天の星空だった。思わず立ち尽くし、呆然と星々を見つめる。この一ヶ月、暗くなる前に眠る生活を続けていたせいで、星空を見ることなんて全くなかった。

 空を見上げるアセビの耳に、ゴォーン、ゴォーン、と鐘の音が届く。


「なんの音……?」


 首を捻って周囲を見回しても、それらしき音源は見当たらない。

 ふと、アセビはもう一度空を見上げた。そして、鐘の音の正体に気付く。

 星空の一角が、黒く塗り潰されていた。何か巨大な物が、空を飛んでいる。

 それほどまでに巨大な物の正体は、一つしかない。


「ケートス……あれが」


 全幅二千三百メートル。全長九百メートル。末端が無数の指のように枝分かれした不気味な形状の翼。胴体中央部に延びる艦載機用カタパルトが、巨体に突き刺さった剣のような印象を与える。

 大まかな形状は巨大な猛禽に似ているが、鳥ならばあるはずの、精悍な首のシルエットが存在しない。

 首を切り落とされた巨鳥が大空を占拠しているような、不吉な光景。

 

 二十年前、この星の文明を崩壊に導いた月の破壊。

 その原因となった大量破壊兵器、アイリスリット臨界放射線射出装置を放ったのが、他でもないこのケートスだった。

 世界に破滅をもたらした死の巨鳥は、高高度を飛行しているとは思えないほどの威圧感を地上に振り撒く。

 それは、月の破壊を生き延びた大人たちが目にすれば恐怖と憎悪を掻き立てられる光景だっただろう。

 しかし、アセビには悠々と空を飛ぶケートスの姿は自由を彷彿とさせた。

 全身にまとう死の雰囲気すら、地上のしがらみから解放された者の気風にすら思えた。

 紫紺の航跡を夜空に刻みながらゆくケートスの姿に、アセビの口から吐息がこぼれる。


「……すごい」


 次の瞬間、


「どこへ行くつもりですか?」

「わっひゃぁああああッ!?」


 突然、少女の声がから降ってきて、アセビは素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 ? なんで上から声が? アセビは周囲を見渡す。高い場所に登れそうなものは、建物も樹も存在しない。

 見上げたアセビは、空中に少女の姿を認めてぎょっとした。少女は紫色の粒子をまといながら、宙に浮かんでいた。


 少女は音もなくふわりと地面に降り立ち、アセビの行く手をふさいだ。

 少女を取り巻く紫色の燐光は、浮遊鉱石アイリスリットによるものに他ならない。天使のように宙を舞い、素手で原付のカウルを引き裂いて、音速を超える投擲をこなすこの少女の正体は、どう考えても人間ではない。


「……やっぱり。あんた、オルクでしょ」

「違います」

「違う? じゃあなんなのよ?」


 アセビは少女を睨み付けながら鼻で笑う。


「ケートス型巡航要塞搭載中央制御人造魔女、ネレイスシリーズ初号機」

「……は?」

「ケートス型巡航要塞搭載中央制御人造魔女、ネレイスシリーズ初号機です」 


 馬鹿正直に繰り返した少女に、アセビは驚き半分、胡散臭さ半分の視線を向ける。


「人造魔女? なにそれ。ケートス用のなんかってこと? じゃあなに、あんたが二十年前に月をぶっ壊したってわけ?」


 アセビが投げつけた言葉に、少女は視線をアセビから逸らして、ほんの僅かだけ言い淀んだ。おや、とアセビは思う。今まで機械じみていた少女が初めて見せた、人らしい振る舞いだった。


「……その記憶はありません」

「はん、どーだか、ねッ!」


 少女が一瞬見せた隙を逃すまいと、アセビは全身の筋肉をバネのように弾けさせ、少女を昏倒させるため飛びかかった。しかし。


「かっ……!?」


 アセビの視界から少女の姿が消えると同時に、みぞおちに衝撃が突き抜けた。

 まるで砲弾のような一撃に、アセビはひとたまりもなく地面に頭から倒れこんだ。


          ◇     ◇     ◇


 翌朝、アセビが目覚めるとベッドにロープでグルグル巻きにされていた。そして、アセビの顔を覗きこむ、憎き少女の顔。


「目が覚めましたか」

「ええ、おかげさまでばっちり」

「では、この島に来た目的を————」

「ちょちょちょ! 待って! これほどきなさいよ!」


 顔を真っ赤にして叫ぶアセビを、少女が首を傾げてじっと見つめる。やがて納得したように口を開いた。


「ああ、排尿ですか」

「言い方ァ! ああもう! いいから早く! でなきゃここで漏らすわよ!」


          ◇     ◇     ◇


「改めて訊きます。この島に来た目的は?」

「あのさ、いまそれ訊く?」

「質問に答えてください」


 アセビはバン! とドアを叩いて、そのむこう側に立っている少女に怒鳴り散らす。


「トイレ中にしなくても良いでしょ!? なんなのよあんた! そういう趣味なの!?」

「趣味ではありません」


 アセビはズボンを穿きながらため息をつく。だめだこりゃ。会話にならない。 


「アセビ・フウセンカズラ」


 いきなりドアの向こうから呼びかけられ、アセビは身を強ばらせる。なんであたしの名前を……?

 そのときかすかに、チャリ、と金属プレートがこすれ合う音がした。アセビは襟首の軽さに気づいてハッとする。認識票がない。


「あなたの名前で間違いありませんね?」

「……そうよ」

「ではアセビ。どうしてこの島へ?」


 アセビは水洗レバーをへし折る勢いで捻ると、憮然とした顔でドアを開ける。ドアのすぐ目の前では、少女が直立不動の姿勢で待ち構えていた。


「オルクのあんたに、教える義理なんてない」

「わたしがオルクだと、なぜ答えられないのですか?」

「信用できないからに決まってるでしょ!」

「わたしは、信用に足りませんか?」


 アセビは呆れと苛立ちで、頭を掻きむしりたくなり、思いとどまって先に手を洗う。

 鏡越しに少女が頷く。


「いい判断です」

「なんなのよ、あんたは……」


 陶器製の白い洗面台に手をついて、アセビは深々とため息をつく。なんで朝からこんなに気疲れしなきゃならないんだ。

 ぐぅう、と腹が泣く。


「空腹ですか?」

「あんたが強制ダイエットさせてくれたおかげでね」

「質問に答えれば、食べ物を提供します」

「……」

「あなたに食事制限は不要と思いますが」

「……はぁ、わかったわよ。人探しよ。べつに、この島が目的じゃない、オルクに追われて辿り着いただけ。以上。ほら、答えたわよ、さっさとご飯食べさせなさいよ」

「いいでしょう。では行きましょうか」

「いいんかい」


 テキトー極まりない回答に満足した様子の少女に呆れつつ、アセビはふと思ったことを口にする。


「そういえば、あんたの名前は?」


 少女が振り返って答える。


「ピエリス」

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