18 うちの娘(こ)

 七年越しのゴー君(仏像)ファンである井原いのはられんが、寄席よせ会場に見当たらなかった理由。

 それは、双子の姉である井原いのはらういをもってしても想像不可能なものであった。


※※※


 時は、寄席前のマイクリハーサルを終えた仏像が井原いのはられんを目撃した後。

 場所は『下水道』と大書された何十枚もの墨跡ぼくせきに囲まれた教室内。


「うぐあああああっ」

 下水道がゲシュタルト崩壊しそうな空間で、井原いのはられんは大人しそうな顔に似合わぬ奇声を上げてしゃがみこんだ。


「れんさん、どうしたの」

「済みません、お騒がせして。大丈夫ですから」

 れんは気丈きじょうに振舞おうとするも、明らかに具合がおかしい。

「足首をひねったの。歩ける?」

 仏像の父は、元妻が同じように奇声を上げてしゃがんだ時の事を思い出す。

 果たして、れんは情けなさそうな顔で靴を見た。

 仏像に会うために新品のハイヒールで決めたのが完全に裏目。

 足を通して三時間も経たないうちに、片方のヒールがぼっきりと折れたのである。


 ワイングラスのように細いヒールの残骸ざんがいを恨めしそうに見ると、れんはもう片方の靴を脱ぐ。

「歩けはしますが」

 微妙な返答で折れたヒールを見つめるれんに、仏像の父の判断は早かった。


「靴を買いに行こう。タクシーで行って帰っても寄席よせには間に合うよ。とりあえず事務所でスリッパを借りよう」

 仏像の父が書道部の生徒に声を掛けると、生徒は自らスリッパを借りに事務所へと走る。その間に、タクシーアプリでタクシーを手配。

 さすがは伝説のハゲタカ。

 れんに断るすきも与えない神業かみわざである。

 かくして、緑色の来客用スリッパを履いたれんは、仏像の父に付き添われて海沿いのショッピングモールへと向かった。



「靴修理のお店がありました。ここで直してもらえば」

 靴修理店を見つけたれんは、ほっとした表情でカウンターに向かいかけるも。

 

「待って。折れたヒールの交換はお店では出来ないはず。それに失礼なことを言うけれど、その靴をヒール交換に出すより、新しい靴を買った方が安上がりだ」

「でも」

 れんは仏像に会うために服とバッグに靴を新調したばかり。

 とてもではないが、靴を買い直す余裕はない。

「早く靴を買って戻らないと寄席よせが始まっちゃうよ。お代はオジサンが持つから。オジサンだって五郎君を見たいんだ。早く早く」

 仏像の父にせっつかれるように、スリッパの音をパタパタさせたれんが、靴売り場へと急ぐと――。

「ちーちゃん! 走らない!」

「きいいいええええええっ!」

 チョコレートジェラートとプリンセス♡変身ステッキを両手に握りしめた幼女がれんの方向に走り出し――。

「だから走るなって言ったでしょ!」

 れんの清楚系せいそけい勝負服が、前衛芸術も真っ青のリメイクをされたのである。

「申し訳ありません。お怪我はありませんか。新しいお洋服を。後はクリーニング代も」

 この世の終わりのように泣き出す幼女。つられて泣き出すベビーカーの乳児。抱っこひもにくくりつけられた幼児。

 三人のモンスターに目をやりながら、母親が恐ろしく不自由な体勢で謝りながら財布を取り出そうとしていると。

「ちーちゃん、戻りなさい!」

「ぎいいいいいいいきゃーーーーー!」

「ちーちゃん!!!」

 泣きながら走り回った幼女は、転げ落ちるようにエスカレーターに運ばれる。

 フロア中に響き渡る母親の絶叫とエスカレーターの非常停止音。

「うちのは気にせず。すぐにお子さんの所に行って!」

 フロア中が騒然とする中、仏像の父はパニック状態の母親に声を掛けると足早に立ち去った。


「オジサンので悪いけど、これで前を隠そうか。とりあえずそこの店で服を買おう」

 れんをなるべく視界に入れないようにメンズストールを渡すと、仏像の父は目の前にあるユニセックス系ショップを指す。

「いらっしゃいませ」

 声を掛けた店員は、メンズストールで微妙に隠されたれんの服に目を見開く。

 まるでダメージジーンズのように、ブラウスのレース部分が破れているのだ。


「うちのがそこで子供とぶつかってこんな状態に。着替えを買うので試着室をお借りできますか」

 仏像の父はれんを試着室に見送ると、フリーサイズのボートネックワンピースを買って渡す。

「とりあえずこれを着て。それから好きな服を選ぼう」

 れんは手早く着替えると、鏡に映った自分をしげしげと見た。

 マリンテイストでカジュアルな服は、自分で選んだ清楚系せいそけい勝負服より数倍あか抜けて見える。

「あの、この服気に入りました。お代は」

からお金を取る訳には行かないよ」

 仏像の父の一言に顔を真っ赤にしてうつむいたれんは、同じ店で靴を買う事にした。

 一並高校の名前が入った緑色のスリッパから、一刻も早く解放されたいのだ。

「これは多分歩きやすいし、脚のラインもきれいに見えると思うよ」

 仏像の父が差し出したのは、キャメル色のヴァンプローファー。

 ヒールは二センチほどでがっしりとしている。

 まるでシンデレラの靴のように、キャメル色のヴァンプローファーはれんの脚にすっぽり収まった。


「ほらね。やっぱりれんさんに良く似合うよ」

 自分では全く選ばなかったような服と靴。

 それなのに、今までの自分よりも数段輝く鏡の中の自分。

 値札をちらりと見たれんはさすがに遠慮えんりょしかかったのだが――。


「お父さんに遠慮する娘がどこにいるの」

 かくして、れんは自分で買ったハイヒールの十倍はする靴に、清楚系勝負服の三倍はする服に身を包んだ。

「首元がちょっとさびしいな。チョーカーって付けた事ある?」




「ありがとうございました」

 アクセサリーショップの店員の声を後ろに、仏像の父はちらりとエスカレーター前の時計を見た。

「これはどうやっても間に合わないな。五郎君の寄席よせを見に来たのに、ごめんね」

「いえ、お父様、じゃなくて、おじさまこそ楽しみにされていたのに済みません。それに、こんなに色々買っていただいて」

「止めてよ。ぼくらはお父さんと娘の設定なの。そんなにぺこぺこされたらお店の人に変に思われちゃう」

 仏像の父は苦笑いすると、下りエスカレーターに乗る。

「せっかくだから、みんなにお昼の差し入れでもしようか。そこで五郎君とお話しできたらいいね」

 仏像の父は両手いっぱいに買い物袋を下げて、れんと一緒にタクシーへと乗り込んだ。

 

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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