第22話 あとちょっと
夏が過ぎた。T氏の汗も引きやっと部屋の中の臭いも耐えられるレベルに落ちて来た。何だか最近、T氏の身だしなみの乱れがさらにひどくなっているように見える。
窓辺に置いたアジアンタムの鉢植えは緑が綺麗な観葉植物である。たまには日の当たる所にでもと場所を変えて三時間後、すべて茶色に枯れてしまった。直射日光厳禁であったらしい。
しまったあ、と思いながら、元の所に戻すと、次の日には新しい目がにょきにょきと生えて来た。
二度と同じ失敗はすまい、と心に誓う。
一人黙々と設計作業に勤しむ。この制御ASICが日の目を見るにはもう五百万円が必要となる。それだけの金を稼いで初めてモノができることになる。
その背後で二人は黙々と暇つぶしに勤しむ。自分の生き方に疑問を持たぬものは共に生きるには値しない。
仕事がやってきた。
渡されたコードに指定パラメータを組み込むだけの簡単な仕事である。それはTちゃんに割り当てられた。
ときたまM社長が訪れて作業の進行具合を尋ねる。返答は判で押したように同じ。
「あとちょっとです」
二週間が経過した。TちゃんがM社長に答える。
「あとちょっとです」
そしてある日、Tちゃんの仕事があとちょっとどころか、まったく進んでいなかったことにM社長が気付いた。
締切直前。もちろん阿鼻叫喚である。
慌てて前の会社の古株の一人に連絡し、ヘルプに入って貰う。流石に彼はそれだけの腕がありベースとなる部分をさくっと作ってくれる。後は指定されたパラメータ部分を個別に組み込むだけで、これは私とT氏が分担してその夜の内に作業した。
一件落着。ただし、今回の仕事の報酬はすべてその古株の人に流れてしまった。 弱り目に祟り目。
また仕事が入って来た。今度は会社のロゴを画像に転写するという簡単なソフト作成の依頼である。今度はBASIC言語で作ることになった。
この言語の発祥は古い。現在までほぼ五十年に渡って、さまざまに改良されて使われ続けている。
作業はまたもやTちゃんに渡った。今度は私が作業の監督役に任命された。
仕事の内容は極めて簡単である。データとして保存されている会社のロゴイメージをグラフィック画面にコピーするだけ。
もう出来た、という問いに、お決まりの「あとちょっと」の答えが返って来る。
「あとちょっと」
「もう少し」
「いま出来る」
二時間毎に尋ねて、同じ意味の返事を貰う。予想通り。
内容をチェックした。ロゴマークが櫛の歯のように欠けて表示される。データ転写を行っているループが1ラインじゃなく2ラインごとに動作している。
そのことを指摘すると、第二の口癖が返って来た。
「ああ、判った、判った」
いいや、君は判っていない。そう思った。それでも放っておく。
まったくの間抜けなのにプライドだけは大変に高い。そして全然学習というものをしない。
更に二時間が経過した。
もう出来た、という問いに、お決まりの「あとちょっと」の答えが返って来る。
デジャブだねえと思いながら、椅子から腰を上げて作業を覗きこむ。
全然直っていない。もう一度、同じ部分を指摘する。
「ああ、判った、判った」
いいや、君は判っていない。またもや、そう思った。いったい何度同じことを繰り返させるのだろうこの馬鹿は。
またもや、放置した。
今度は十五分だけ待った。
もう出来たとは、聞かない。いきなり背後から覗きこみ、問題の箇所を目で探し、指で示した。ここ間違っているだろう。ここを直すんだ。
ようやくTちゃんがそこを修正して、ソフトが正しく作動した。
この人間は駄目だ、と結論づけた。
あとちょっと、の口癖は修正できる。だが、判った判った、の口癖を言う者はこの先も決して技術の腕が上がることは無い。それを言わせるのは彼のプライドだろう。
自分は誰の助けもいらないと叫ぶなら、少なくとも実績の一つも残さなくてはならない。
何の努力も苦労もしないで、自分の妄想の中で世界の王になるなど、まさに傲慢と言うもの。
プライドというものは血を吐くような努力をして維持するものなのである。
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