2日目、終止符
「お入りください!!」
拓真の声が響く、本座から射位へと進む号令をかけた。立ち稽古が始まったのだ。6人×2チームの選手達が、一斉に摺足で進むと、和弓を目線の高さまで持ち上げ、矢を弦に
「行射を開始してください!!」
少し高めの高音。数十メートル先まで響き渡るその声には、気迫があった。
拓真の号令を合図に、それぞれのチームの先頭に立つ選手らが、前から順に和弓を構え、両拳を持ち上げ、左手を押し開く。弓を反らせる際、右手に装着されている茶色いグローブのようなもの、
カシュンカシュン―――。選手らが弦を放すたび、右手は真っ直ぐと伸びる。そして断続的に風船が割れたかのような音が鳴った。
矢道の上を駆け、的を次々と射抜き、応援する矢声が聞こえてきた。
「しゃぁぁぁぁ!!」
「よしっ!」
拓真は射場に立ち、選手達の射を観察していた。射の観察は怠らない、これは拓真にとって趣味のようなものである。
やがて、それぞれの選手が矢を射終えると、拓真は矢を回収するための合図、矢取をする号令を掛けた。
「おねがいします!!」
射場に盛られた土、その両端にある看的小屋から赤旗が提示された。パンパンと手を叩き、両方の小屋から飛び出してくる人の姿。それぞれの的へと向かうと、片手で的をおさえ、矢を抜くたびにスパッ――スパッ――とリズミカルに音が鳴る。
同時に、パイプ椅子に座っていた選手達は立ち上がり、数歩前進する。本座と呼ばれる位置に立ち、拓真の号令を待った。
拓真は
拓真は鈴木のほうに目を向ける。入場から退場までを観察したところ、一連の動きに乱れはなかった。さすがは国体選手だと心で唸った。
「おはいりください!!」
矢取りが完了し、赤旗が看的小屋に引っ込んだのを確認した拓真は号令をかけた。選手らは一斉に摺足で前進。スッ――スッ――と音が聞こえてくるかのような乱れのない動き。まるで12人が同じ動きをしているかのように錯覚するほどに、和弓が弧を描く軌跡まで、何一つ狂いはなかった。さすがは強豪校だと、拓真は感心した。
だが拓真の目的は鈴木の射を分析し、その心の乱れを感じ取る事だ。まずは鈴木の一射目。拓真は壁沿いから目を細めた。
鈴木は矢を番えると、両拳を抱えるように和弓を頭上まで持ち上げる。左手を押し開き、弦を引っ張り弓を降ろしていく。カシュン―――パァンと破裂音。
「しゃぁぁぁぁ!」
拓真は思った。やはり不動心を持っている選手だと。心を操りその動きにはまったくの無駄が感じない。鈴木の集中力は本物だ。拓真はゆっくりと歩を進める。
鈴木が2射目を放った、
当然だがやはり矢摺籐に隙間はない、無論、あったとしてもアジャストする筈がない。そんな事は分かりきっていた。
だが、拓真にとってここまでが計算通りなのだ。ここから、拓真は鈴木に仕掛ける。1歩、2歩……そして―――鈴木の視線は、動いた。真っ直ぐと前を向いたまま、拓真を横切るその姿に、僅かだが反応しているのだ。椅子に座っていた成安は、その視線の動きを見逃さなかった。成安は机の下へと移動させていたインカムのマイクを持ち、数回ほどポチポチとする。
拓真のインカムに、断続的なノイズ音のみが鳴った―――合図だ。拓真はそのまま鈴木のほうには目もくれず、
その先頭に立つ選手は―――茶色いポニーテールの板野だった。
拓真は壁沿い、その隅まで移動する。板野が弓を左斜め前に構えたタイミングで、拓真は鈴木から見えるような位置で身体の向きを反転させた。その視線、顔、それは板野を疑うかのような視線を向ける。そして純粋に、板野の射を観察した。弓を持ち上げたが、矢と体が平行になっていない。
そして拓真は感じた―――焦りだ、焦りを感じている。これは気持ちの変化を表している。昨日までの動き、今朝の射込みのまでの動きと比較すれば、板野の動作はワンテンポ速いのだ。2呼吸の動作が、1呼吸になっている。それでは弦を引く右手が、弓を押す左手よりも微妙に先行している。その結果、板野は左右の力配分を乱した状態で弓を反らす。
カシュン―――ガァンッ、と的枠を蹴る音が鳴った。板野の矢は的よりも前側に飛んだ。
再び拓真は数歩前進したあと、板野の背を見る位置に立ち止まる。
拓真のインカムに断続的なノイズ音―――それは3回。拓真は方向転換、的を向いた鈴木のほうを見た、弓を押し開いている。
それは―――さきほどよりも軽やかに、反る弓はしなやかに。鈴木が弓を降ろすと同時に、拓真は1歩、2歩と進んでいく。すれ違う瞬間、甲高い弦音が鳴った。
鈴木の矢はビュンッと音を鳴らすかのように、的の中心を射抜く―――
「しゃぁぁぁ! よぉーしいいぞぉ!」
応援席からは拍手の音が鳴る。それは的に対し、鈴木が4本中4本とも射抜いたからだ。―――
入場の時よりも摺足がゆっくり動いている。それは皆中した喜びではない、拓真にとって、その理由は明白だった。
一動作にかかる時間が長くなればなるほど、何か考え事をしているという意味だ。拓真が板野を注視していたと錯覚した事から、気持ちに余裕が生まれた。もしくは何らかの安堵感を持ったのだ。もし皆中した事実に対し、気持ちを体配で表すならば、一動作が大きくなり動きにキレがうまれるはず。それに昨日までの動き、今朝の射込み稽古までの動きと比較すれば、鈴木は明らかに気持ちを変化させていることを示唆している。
やがて、拓真は号令をかけた。
「おねがいします!!」
*
拓真は腕時計を見た、12時20分。選手達は弓道場の外で昼食をとっていた。板野からの報告はまだなく、証拠になる画像が入手出来たといった連絡もない。つまり進展はなかった。
学連役員8人はそれぞれ表彰式、閉会式の準備をしていた。拓真は役員控室、室内ではパソコンを叩く成安だけだった。拓真はその横で弁当を食べていた。
呑気な様子の拓真を見かねてか、不安そうな表情で成安が言った。
「おい藤本、結局どうなったんだ?」
「犯人は鈴木だな。でも証拠がない」
「まじか、私は謝罪しないとだめなのか……」
「そうかもしれんな。まぁ、仕方ねぇよ」
拓真は弁当を食べ終え、緑茶をすすった。インカムを手に持ち、弁当の空箱を机の上に置く。的場で片付けをする今高達を手伝おうと、ドアを開け廊下へとでた直後。
カシュン―――。弦音の音、巻き藁練習場からだ。拓真が廊下を歩き出そうとしたとき、女性の声が聞こえた。「もういいわ!!」、怒っていたような叫び声がしたあと、板野が巻き藁練習場から出て来た。拓真の顔を見るなり、板野は言った。
「拓真さん! 学連の委員長さんはどこですか!?」
「役員控室にいますよ、ほら、そこの部屋です」
「失礼します!!」
板野はコホンと咳を払うと、ドアをノックした。「どうぞ」といった成安の声と共に、板野は役員控室へと入っていった。関係者以外は入室禁止のハズだが、板野が委員長に何か交渉をしようとしているのが分かった。その様子から、おそらく写真は見つからなかったのだ。
「巻き藁練習場に、誰がいるんだろうか」
先ほど板野が吠えた相手が誰なのか……気になった拓真は、巻き藁練習場をのぞいてみる。そこには、背中ほどまである黒いおさげを前に垂らし、座敷へと座る黒咲このみの姿があった。ふと、拓真は黒咲と目が合った。拓真は言った。
「巻き藁に矢が刺さったままですけど? あとそこの襖は……ごめんなさい、閉めといてもらってもですか?」
「あ……はい」
慌てて立ち上がった黒咲は襖をパタンと締めたあと、巻き藁に刺さった羽のない矢を抜き始めた。拓真は何事もなかったかのように、この場を去ろうとした時だった。
「あの……拓真さん」
「あ、はい?」
黒咲の言葉に振り向いた拓真は、心を痛めている様子の黒咲に声をかけた。
「どうしたんですか?」
「遠藤さんの弓に細工した人って………板野さんなんですか?」
拓真は、言うべきか言うまいか悩んだ。だが、言うべきだと思った。
「いいえ、鈴木舞香さんです」
「……………」
黒咲は悲しんでいるというより、何かを考えを巡らしているかのようだった。
拓真は、黒咲の気持ちが分からなくもなかった。同じ国体選手として弓を引いてきた人が、遠藤の弓に赤い色を塗った人物なんだと。それは、弓道が好きな黒咲にとって、どれだけ辛く、また悩み苦しむ事実であるのか。拓真は理解できた。
それでも拓真は言った。
「でも、証拠がないいですよ。だから、証明のしようがありません」
「………さっき、板野さんに……写真がないかって聞かれました……そんなの持ってないって……」
「まぁ、そりゃそうでしょうね。ないものはない、仕方ないでしょう。潔く、謝罪コースといきますよ。ま、そういうわけで。あまり個人のプライバシーには首は突っ込まない主義なので」
「…………もし」
黒咲が左手に持つ弓を、ギュッと握った。右手の
「もし……私が証拠の写真を持ってて、それでも渡したくないって言ったら、何て思いますか?」
拓真に―――迷いはなかった。
「なんとも思いません。それなら仕方ないし、大人しく謝罪しますね」
黒咲は呆気に取られたかのように、拓真を見つめた。
拓真の瞳は、嘘偽りなく―――真っ直ぐに黒咲を捉えていた。
巻き藁練習場には、黒咲と拓真が向かい合うようにして立っている。
拓真の言葉が理解出来なかったのか、黒咲の声が少し尖っていた。
「どうして……ですか? なんとしても手に入れたいって、思わないんですか!?」
「思いません。もし受け取れるなら、それに限ったことはないです。でも渡したくないっていうなら、無理に貰おうと思いません。それに、黒咲さんは証拠の写真を持っているんですか?」
「………持ってません」
「なら結論は出てますよね。なんでそんな事を言うのかは分かりませんが……そうですね、ここは仮定しましょう。黒咲さん、あなたは証拠の写真を持っていると」
黒咲が、小さく唇を噛みしめた。
拓真は、それでも言った。
「でも、渡したくない。どうしてでしょうね……じゃあ俺は、ここで推理してみますよ、その想いを」
「想いを……推理するんですか?」
「写真を渡せば、その人は犯人となってしまう。もしかしたら、友人関係が破綻するかもしれない。そんな事、絶対に嫌だ。そんな感じじゃないですか?」
「………でも………それだと学連の人達は……遠藤さんは……」
「学連は謝罪するでしょうし、炎上した原因は学連ってなるかもしれません。まぁそれは仕方ないです。遠藤はまぁ……なんとか部活に復帰できないか、説得しますよ。聞いてくれるかどうかはわかりませんが、少なくとも俺は声をかけます」
「どうして……それでいいんですか? 大恥をかくんですよ!?」
拓真は言った。
「恥をかくだけだろ? 黒咲さんの想いって、俺が頭を下げる事よりも、大切にするべきだと思う、とっても暖かい、優しい気持ちだと思うよ?」
拓真は、黒咲が証拠の画像を持っているのかもしれないと考えた。そのため、鈴木を庇うといった理由で、渡せない自分と葛藤し、思い悩む種を抱えているんだと察した。それでも、拓真は仮定として話を続けた。
今回の事件、確かに矢摺籐を色を塗り、その選手を失格にしたことにより、SNS は盛大に炎上した。だが、拓真はSNSをやっていない。
様々な人と交流し、同じ考えや趣味を持った人達と交流する楽しさ。
苦労してでも、誰かに喜んでもらうべく写真を投稿したりする楽しさ。
理想の自分を演じたり、素の自分をさらけ出す楽しさ。
世界が広がり、繋がっていく楽しさ。
拓真はそのような楽しさをSNSには感じていない、それは、興味がないからである。興味がないからこそ、炎上をどうにかしたい、と言った成安の考えに今一つ共感出来ていないのだ。
ただ、拓真が重視している気持ちがある。
〝誰かを想い、大切にする気持ちである〟
それは、和弓を持つものだからこそ、広がる世界があること。
それは、弓道家であるからこそ、互いに理解し合える関係があること。
それは、同じ目標に向かい、戦っていくチームという絆があるからこそ、共に弓の道を歩んでいけるといった想い。道しるべがあること。
それは、弓道が好きであるからこそ繋がっているもの。
「だから別にいいんだよ。だってオレ、めっちゃ弓道好きなんで。炎上をどうにかしたいとか、頭を下げたくないとか、そんなの1ミリも思ってないし。遠藤の弓に色を塗った、それは許されざる行為だと思ってます。可能であれば、遠藤に謝り、その男を弓道家として晴れて復帰させてあげたい、そう約束したんで。でもそれは俺の都合……黒咲さんの想いは……。どっちを重視するかなんて、俺には判断出来ません。それに、証拠があるなんて仮定の話でしょ? その事実を、無理に捻じ曲げる気もありませんから」
「そんな……そんな理由で―――」
黒咲の目に、涙が溢れそうになった。必死に声をひそめ、目をぬぐっている。拓真は、黒咲から写真を貰う気はなかった。
拓真はインカムを耳にあて、この場を去ろうとした時、役員控室のドアが勢いよく開き、板野が走り去っていった。―――その目に涙を浮かべて。
板野は成安に交渉した、炎上を消すために、正式な謝罪をしてほしいと。だが、成安は頑なに断った。それは、まだタイムリミットまで時間があるからだ。可能性がゼロではない限り、成安は謝罪を認める気はなかったからだ。拓真と相反するその性格、委員長としての立場上、安易に意見を曲げるような成安ではない。あくまで定められたルール、規律を守り、それを遵守する。それは、学連を統括する委員長として、必要な要素だった。
拓真が手に持つインカムのノイズが鳴った―――。
拓真はイヤホンを装着し、指を添える。
《國丸です。SNSに新しい投稿がありました……投稿した人物は遠藤綺羅……炎上どころではありません、大変な事になってます》
「遠藤が? ―――まさかあいつ!?」
拓真はある可能性を想定し、目を見開いた。慌ただしくも巻藁練習場を飛び出し、役員控室へと向かった。急ぎドアを開けると、そこにはキーボードを叩く成安、スマホをイジる今高と國丸の姿があった。
拓真は声を荒げ、言った。
「遠藤が投稿した内容ってなんだよ!?」
成安は眼鏡をクイクイっとすると、ノートパソコンをひっくり返した。ガタンとパイプ椅子が動く音、机に左手を置き、パソコン画面に右手を添え、食い入るようにその投稿内容を目で追う。拓真は―――驚愕した。
【今回の矢摺籐、細工事件は俺が自分でやった、まんまと騙されたな!! 面白かったぜ!! 弓道家がそんな事するわけねぇだろ、ちょっと考えれば分かる事だろうよ!!】
拓真の顔は引きつった。遠藤はこの事件の流れを変えたのだ。自分の名誉とプライドを引きかえに……コメント欄は荒れているどころではない。誹謗、中傷、それは遠藤に対し、とんでもない量の荒れたコメントだった。画面を更新するたびに、目まぐるしい量のコメントが増えていく。
拓真は愕然とした。遠藤は自らを破滅に誘い込み、この炎上に終止符を打とうとしている。矢摺籐に細工した弓道家の名誉を、守るために……。
「遠藤、お前ってやつは……カッコいいじゃねぇか」
拓真はぼやくと、脱力したようにパイプ椅子へと腰掛けた。
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