1日目、襟足に宿るもの
時刻は15時05分。スケジュールでは小休憩の時間になる。
拓真は椅子から立ち上がり、休憩時間となった射場を後にし、役員控室に向かう。射場を出て左に曲がり、廊下を歩き進むと、巻藁練習場からこっちへと歩いてくる女性と拓真の目が合った。
黒咲このみ。黒いおさげを背中まで垂らした女性、少しあどけない雰囲気だ。
和弓を左手に持ち、右手には羽のない矢を持っていた。その場で立ち止まった黒咲の「あの…」と、つぶやいた声に、拓真も足を止めた。
「藤本さん、あの……遠藤さんのことで……」
「遠藤さんがどうかしましたか?」
何かを思い悩むかのような様子、黒咲は震えた声で拓真に何かを伝えようとするが、勇気がでないのか、黒咲は口を閉じてしまう。もどかしい沈黙の時が流れる中、拓真は黒咲にこう言った。
「ここで突っ立っていてもなんなので、よければ巻藁練習場に行きませんか?」
「え……あ、その……」
拓真ら学連は8人とも紺色の弓道衣を着ている、その他の選手はみんな白い弓道衣の姿だ。巻藁練習場に行ったところで、目立つ事には変わりないが、ここよりはマシだろうと拓真は考えた。言いにくい話なのだろうとも察した。遠藤が退部するという話は、もはや他の選手達が共通する話題となるほど広まっている。
黒咲は小さくとうなずくと、拓真の後ろをついていくように巻藁練習場を目指す。拓真が巻藁練習場へと着くと、そこには誰もいなかった。
座敷のある反対側の面には、全身が余裕で映るほどの、大きな鏡があった。拓真は襖に背を向け、巻き藁とは反対の壁面に立った。
「黒咲さん、一本引いてもらってもいいですか? 個人的な趣味で、射を見てみたいんです。場所は一番奥の巻き藁でもいいですか?」
「…はい」
黒咲は和弓の上部を巻き藁の中心に添え、それを基準に立つ位置を決め、両足を開いた。黒咲の正面には身の丈ほどの鏡があり、鏡と平行になるように立った。
黒咲は無言で、羽のない矢をつがえる、カチっと音が鳴った。
黒咲は右手に着けた
カシュン───と弦音が鳴り、右手はキレのある動きで真っ直ぐと伸びた。上手い。
拓真は関心しながらも、黒咲の背からその射を観察していた。巻藁に深く刺さった巻藁矢に若干のブレはあったが、練度が高い事を示唆していた。同時に拓真は、黒咲は何か悩んでいるのだと悟った。
黒咲は弓を持ったまま巻藁に左手を押し添えると、右手で数回に分けて矢を抜き取った。
「あの……遠藤さんが退部したと聞いて……私、言わないとって、思ったんです」
拓真は腕を組み、おさげが垂れている黒咲の背中を見つめた。
黒咲は深呼吸すると、覚悟を決めたように表情が引き締まった。
「昼休憩中、私は舞香と一緒に射場へ行ったとき、遠藤さんの矢摺籐を見たんです」
「……矢摺籐を見た?」
鈴木の話では、それを見た黒咲は射場を飛び出したと聞いていた。
だが拓真はそれ以上何も言わず、黒咲の言葉に耳を傾けた。
「はい。舞香が勝手に遠藤さんの弓を触ってて、その時私に言ったんです。誰か赤く塗ったんだわって。でも私は……その行動に嫌な気持ちになって、射場を飛び出したんです。なんでそんな事するんだろうって……」
「………鈴木さんの事は、よく知っているんですか?」
「はい、高校時代は、同じ国体選手で……」
「なるほどな」
決勝戦に残った大学はそれぞれ違う大学だが、同じ地方の大学である。鈴木と黒咲の大学は同じ県にあるため、高校時代は同じ県の代表選手だった。二人の学年は1年生、それぞれ強豪校へと進学したのである。
黒咲は拓真の方を向き、表情を強張らせながらも、ハッキリと言った。
「その……最初に遠藤さんの弓を見たときは、色なんて塗ってなかったんです」
「それは……どういう意味だ? 2回見たって事か?」
「はい。私は昼休憩になって、道具を置きに射場に行きました。そこには弓を手に持っていた舞香がいて、私が道具を置いたあと、舞香にちょっと見てよと言われて、矢摺籐に隙間が空いているのを見ました……そのあと矢摺籐をスライドさせた舞香が、あの人やっぱりインチキしてたって……最初は誰のことか分かりませんでした。そこから飲み物買いにいこって誘われて、舞香と射場を出たんです」
拓真は脳内で鈴木の話と照らし合わせながら、黒咲の話を真剣に聞いていた。やがて黒咲は下をうつむいた。
「でも射場を出るとき……射場に入っていく相葉さんとすれ違って……そしたらすれ違う直前、舞香は言ったんです……」
拓真は耳からイヤホンを外すと、手に持った。
「金髪の男の人、やっぱり噂通り、矢摺籐に細工してたって……」
「そのあと、相葉さんは何か言ってたか?」
「相葉さんは、みんな知ってるはずって……軽く言葉を交わしたあと、相葉さんは射場に入って、私は舞香と飲み物を買いに行ったんです……そして一緒にお昼を食べたあと、射場に戻って稽古しようって。そしたら舞香は、もう一度遠藤さんの弓を手に取ったんです……」
「そう、でしたか………」
拓真は内心驚いていた、やはり誰かが塗っていたんだと……それも昼休憩中に。
黒咲は顔をあげ、潤んだ瞳で拓真を見つめた。
「私……誰が犯人なんかなんて……そんなこと……ただ、楽しく弓を引きたかっただけなのに……どうして、こんな事になったんでしょうか? 遠藤さんだって……退部する必要なんてないのに……弓道を辞める必要なんてないのに………」
拓真は今にも泣きそうな黒咲の姿に、心を痛めた。俺が失格を言い渡したからだと、悔やんだ。
拓真も弓道が好きなのだ。そのため、黒咲の悲しみが痛いほどに理解できる。目を擦り必死に涙をこらえる黒咲の姿に、拓真はどう言葉をかけていいか分からなかった。巻藁練習場に入ってくる人影がないか、入口に視線を向ける事しか出来なかった。
なぜ自分が言い渡した失格が、こんな結果になってしまったのだろうか。その想いだけが、拓真の胸を締め付けた。他の学連のメンバーは、遠藤の失格にあまり関心がないと感じている拓真にとって、目の前で黒咲が悲しむ想い、その気持ちを汲み取ってやる事しか出来ないのか。
拓真は目を閉じ、考えた。そして胸の中にある無力さを蹴り込み、悲壮感を振り払う。
藤本拓真は───心で眠っている獣を呼び起こした。
人の想いを喰らい成長していく獣を。常識を破壊する、
「大丈夫です。俺、名探偵なんで」
「…………?」
突拍子もない拓真の言葉に、黒咲は目を擦るのをやめ、意外そうに目を丸くした。
「俺は藤本拓真。みんなが嫌がる学連の役員に、好きでなったんです。射場の進行を統括する運営委員、そのプライドにかけて。この事件、推理します。貴重な情報、ありがとうございます。また何かあれば、話を聞かせてください」
拓真はインカムを右耳につけ、肩まである長い襟足をかき撫でた───。
紺色の弓道衣の襟を正し、マイクのクリップを止め直す。黒咲に背を向ける際、墨色の袴がスカートのようにフワリと広がる。白の足袋が、茶褐色の床を踏み込んだ。
拓真の眼に獣が宿る。悲壮感は消え、弓で悲しむその女性の想いを背中に宿し、心で吠えた。
遠藤に失格を言い渡した俺がやらなければ、誰がこの事件を推理するんだと。例えそれが殺人事件でなかろうと、刑事的に罰するほどの事でもなかろうと、遠藤が弓道家としての道を投げ出すほどまでの結果になったこの事件。一人の男を苦しめた事件には違いないのだ。
それは規模ではない、弓道に対する想いの強さなんだと。
「あ、あの!」
その声に立ち止まり、拓真は顔のみで振り向く。黒咲の瞳は、やはり呆気にとられているかのようだ。だが拓真は気にせず、決め台詞を放った。
「オレ、めっちゃ弓道好きなんで」
ポカンとした黒咲、そんな事は気にもせず、再び拓真は進みはじめた。
獣を宿した拓真はもう──誰にも止められない。
廊下には選手達が何人も往来している中、気にする事もなく拓真はインカムのマイクを口元に近づける。
拓真の気配に、選手達の視線が一か所に集まった───。
「藤本です。遠藤の選手生命を奪ったこの事件、推理します。まずは情報を集めます、昼休憩中に射場に出入りした人物がいたら、情報提供をお願いします」
イヤホンから───ノイズが鳴った。
《おいおい、まじで言ってんのかお前?》
だが拓真は動じなかった、もう遅い──選手達は目を点にしている。
拓真の眼光は犯人を追従するべく光らせ、静かなる狼のように鋭く、まるで猪突猛進に獲物を探し求めるハンターのようである。
「
拓真は突き進んだ───襟足をなびかせて───。
*
現役大学生で組織される、
通称〝
それは、数合わせのために仕方なく学連の役員になる者が多く、大会運営に関するモチベーションは低い者が集まってしまうからだ。
しかし……例外もある。拓真の代の学連役員は、みなが優秀なのだ。
それぞれが手際よく分担された役職をこなし、大会運営ではなんの問題もなくこなしてきた。圧倒的な運営力で、選手達からも絶大なる支持を得ていた。そして、この大会運営は拓真の代だからこそ、異例とも言われる練習試合の運営をする事になったのだ。
拓真は確信していた、俺達の代ならやれると。この事件を解決出来ると。
拓真が遠藤の弓に細工した犯人を探すという話は、そう時間もかからず強豪校全ての選手の耳に聞き渡った。「大丈夫か、あの襟足が長い学連?」といった言葉を発する選手もいる中〝決勝戦に残った6人〟の反応は───。
*
矢取り道──
腰まである、艶のある黒いポニーテール。目つきは鋭い。
「へぇ、面白そうね。もうちょっとジュースが稼げそう。ふふふ」
巻藁練習場──
背中まである黒色のおさげ髪。柔らかいたれ目の女性。
「藤本さん……けっこう変わった人なのかな……」
選手控室──
肩より短いこげ茶のサイドポニーヘア。美人。
「なによ犯人探しって。でも、いい話題になるかも」
自販機コーナ──
正義感の強い、いかついボウズ頭。
「あの襟足の長い男、馬鹿じゃねぇのか?」
射場──
愛らしくも気弱な、緑のアフロヘア。
「僕じゃ………僕じゃない………」
***
スポーツセンター内にある、宿泊施設。
イケメンの金髪ショート。3年生。
「え、あの学連の人が? ……そんな事に………あぁ、分かった」
遠藤はスマホで通話を終えると、部屋の隅に立て掛けている和弓と矢筒を見つめた。椅子から立ち上がると、和弓を手にとり矢摺籐をスライドさせた。その右側面、わずかだか空いた隙間から、赤い塗料の跡を眺める。
遠藤は心の中で何かと葛藤しながらも、ボソっとつぶやく。
「こんな俺でも…………信じてくれんのかよ……あの人は」
遠藤はベットの上に置いてあったバックの中から、透明なタッパを取り出す。蓋をあけ、茶色い
高校時代、部活動見学で弓道部の袴姿に一目惚れをし、勢い余って入部した部活だった。部員は多かったが、遠藤は高校2年生になってすぐ、レギュラーメンバーのエースとして活躍していた。インターハイでも活躍し、自信に溢れていた遠藤は、スポーツ推薦で大学にも行ける事となった。大学に入っても弓道をやれる、活躍してやる。そんな期待に胸を膨らませて入部した大学の弓道部だった。
遠藤の期待していた通り、入部して1年目は順調だった。2年生の夏頃にはレギュラーメンバーにもなれた。だが……ある日遠藤の目の焦点は狂いはじめた。的を狙っても、狙いが違うと言われ、突然的を射抜けなくなった。当然、レギュラーメンバーからも外されたことから遠藤は原因を探り、結果目の病気である事を知った。
自分の運命を呪った。こんなはずでは……癇癪も起こした。それでも遠藤は弓を引く事を辞めたくなかった。高校時代から築いてきた自分のプライドを捨て、弓に細工をしてでも、的を射抜き、あの破裂するような音を求めた。
大学の主将や部員にも相談し、公式戦には出場しないという約束で、遠藤は弓をひき続けた。
そして、今回の大会が練習試合であることで、遠藤は選手として出場する事を特別に認められた。矢摺籐の細工も完璧だった。学連の役員も気がつきまいと、タカをくくっていた。しかし……拓真は気がついた。遠藤の細工を見破ったのだ。
学連は無能のはず。突発的な心理に遠藤の心は支配され、気が動転した。弓を投げたのも、舐められまいと強がっていただけだった。金髪にしているのも、愚行に手を染めている自分に後ろめたさを感じ、舐められまいと遠藤なりの威嚇だった。
バレなければ……だが後悔しても遅かった、遠藤は後ほど、矢摺籐がアジャストするように細工した弓の〝右側の隙間〟に、赤い色が塗ってある事に気がついたのだ。しかも———。
〝狙いのために細工した左側、その反対側にあった事に〟
そのため遠藤は、大学の主将に自分から弓道部を退部するように告げた。強豪校としての名声を傷つけてしまった……バレなければと部員全員の優しさで、遠藤は細工した弓で練習試合に参加し、そして決勝戦に残れた……その時に、遠藤の中でどれだけ心躍った事だろうか。だが今では、自分の愚かな行動が強豪校の名誉を傷つけた、自分は悪く言われようとも、部員達が悪く言われてしまう事に重い責任を感じたのだ。
なぜ和弓を投げてしまったのか……あの時正直に言っていれば……遠藤の目から溢れるほどの雫が落下していく。乾いた
情けない呻き声をあげながら、遠藤の視界は前が見えないほどにボヤけていく。
「許されるならもう一度、みんなと笑いながら弓を引きたい……こんな俺でも一緒に練習してくれていた……チームのみんなと……俺は……俺は………」
遠藤は一人部屋の中、大粒の涙を流し続けた。
その涙の理由を知る者は、もう誰もいないというのに───。
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