1日目、情報屋
自動ドアを備えた弓道場の玄関から外に出ると、アスファルトで舗装された駐車場が広がっている。拓真達が試合の運営のために来ているこの場所は、スポーツ施設が複合した敷地内、その一画にある。
自動販売機コーナーは玄関から少し歩いた場所にあり、建物沿いに設置されていた。飲み物を片手に持ち、休憩している人が複数人いる。鈴木と拓真は他の部員に会話を聞かれないようにするため、自販機から離れた位置にあり、木陰となっているベンチの近辺にいる。拓真はベンチの背面側にある太い木にもたれ掛かると、ベンチに腰掛けている鈴木に問いかけた。
「さっき情報料といってたけど、いったいどんな情報を?」
「やっぱり気になる?」
「やっぱりって……もしや、俺にカフェオレを買わせるめの罠か?」
「ふふ、罠ってなによ。私が知っている事は言うけど、それを聞きたいって事は、藤本さんは遠藤さんが言うように、誰かが色を塗ったって思ってるんでしょ?」
「可能性はあると思っている。さっきも言ったけど、上手くインチキしようと思うなら、わざわざ赤い色で塗って目立つような事はしないと思うんだよな」
「確かにそれは私も思うわ」
鈴木はカフェオレを一口飲んだ。自動販売機を眺めながら、鈴木は太腿にヒジをのせ、頬杖をついた。
「実はね。昼休みのときに、遠藤さんの弓を見てみたのよ。その時にはすでに、矢摺籐の隙間は赤くなっていたわ」
「弓を見た?」
「ええ。午前中の立ち稽古で、遠藤さんが左手を不自然に動かしていたから。友達の話でも遠藤はインチキ男だって聞いた事はあったし、もしやって思って注目してたの。でも結局、立ち稽古ではハッキリと見えなかったのよ」
「インチキ男……もともと細工した弓を使っていたって事か?」
「聞いた話だし、本当かどうかは知らないわ」
午前中の立ち稽古で、鈴木は遠藤のすぐ後ろで弓を引いていた。つまり遠藤の背中側に鈴木は立ち、矢を射っていたのだ。遠藤の不自然な動きを観察できていたとしてもおかしくない。
拓真は弓を見た、といった言葉を疑問に思い、鈴木にどのタイミングで弓を見たのか聞いてみる。
「私が遠藤さんの弓が赤いって気づいたのは、12時30分くらいかしら? 射場に弓を置いてあったのを見かけたから。名前のシールも貼ってあったしね。人の弓を勝手に触るってのは良くないと思うけど、午前中の稽古であまりにも不自然な動きをしていたから。インチキしているかどうか、最初は興味本位だったわ」
「なるほどな……」
細かいマナーを言えば、人の弓を勝手に触るのは良くない。ただ、名前のシールが貼っていなければ、間違えて手に取ってしまう場合はある。それを防止するためにも、弓にシールを貼り、持ち主を判別できるようにする。自分の持ち物に名前を書くのと同じである。
「見つけた時はビックリしたけどね。ただ遠藤さんが弓に仕込んでいた細工を見てたら、このみは怒って射場を飛び出しちゃったけど」
その言葉に拓真は、今日の昼休憩にあった出来事を思い浮かべた。おさげ髪の女性が、射場から飛び出してきたかと思いきや、パタパタと弓道場の廊下を走っていく姿を目撃したからだ。
「黒咲さんは、そんなに怒ってたんですか?」
「ええ。いくら怪しくても、人の弓を勝手に触っちゃ駄目だって。あまりにも急な行動だったから、思わず大きな声を出しちゃったけど。遠藤さんの弓が細工してある事は、決勝戦に残ったみんなが知ってる事なのにね」
「みんなが、知っていた?」
拓真は組んでいた腕をほどくと、驚いたように鈴木へと体を向ける。
鈴木は残ったカフェオレを飲み干すと、その場から立ち上がった。背中で手を組むと、ポニーテールを揺らし、拓真に含み笑う。
「そろそろ戻りま~す、またのご利用をお待ちしておりま~す」
「まじか……」
「ふふ、最後にひとつだけ言っておくわ。私は立ち稽古が終わったあとも射場にしばらくいたわ。いったんこのみと射場を抜けたその間は分からないけど、遠藤さんをのぞいて、決勝戦に残った選手の中に、昼休憩中に射場に来ていない選手はいないと思うわ」
「おい、ちょっとまてよ―――」
「ごちそうさまでした~」
拓真は鈴木を呼び止めようとするも、すぐさま背を向け、ポニーテールを揺らしながら弓道場へと戻っていく。これ以上何かを聞こうとすれば、ジュース1本で済まないのではないかと考えながらも、拓真はその後ろ姿を眺めていた。
腕時計を見た、14時30分。拓真は人影のない自販機コーナーをチラっとみたあと、我慢だと自分に言い聞かせる。
「なんか、鈴木って子にしてやられた感があるな……情報を小出しにしやがって」
腰につけたインカムのスピーカーから、ザザッとノイズが鳴った。
《寺尾です。藤本さ、いつもどってくるん?》
拓真はインカムにジャックを刺し、右耳にイヤホンをつける。懐に挟んでいたマイクを手に持ち、焦る様子もなく喋った。
「もうすぐもどる予定、もうちょっと射場にいてくれ」
《はやく戻ってきてください!》
電子音が鳴り終える頃、拓真は自販機コーナーを横切り、玄関へと向かっていた。自動ドアを通過してすぐ、広々とした下駄箱にサンダルを収納した。
弓道場──天井は高く、開放感のある木造建築の空間。寺院のような雰囲気がある。下駄箱に隣接する幅の広い廊下を挟んで、すぐ前方には障子をイメージしたような木材の間仕切り。その奥の空間が射場だ。
射場に向かって左手側を進むと、射場に似たような空間があり、そこが選手達の控え場所となっている。射場と違うのは、全身が映り込むほどの大きさがある、鏡が設置されていることだ。
射場に向かって右手側をしばらく進むと、巻藁練習場がある。巻藁とは藁の塊のようなもので、至近距離から矢を射る稽古に使用されるものだ。
学連の控室がある場所は、射場と巻藁練習場の中間地点ほどにある。今現在、巻藁練習場の隣にある座敷では、成安と小町(女子委員長)が各大学との打ち合わせをしている。
拓真は玄関から射場へと進み、出入り口をまたいで右を向くと、神棚に浅い礼をした。射場では相変わらず弦音と、破裂するような音、的中音がせわしく響いていた。
拓真は神棚がある面を壁に沿って進む。ひな段を登った場合にある放送席、射場が見渡せる向きに座っている黒いロングヘアの女性、寺尾に声をかけた。
「ありがとう、交代するわ」
「やっと戻ってきた。なにやっとったん?」
「事件の調査だよ」
「うーん、ちょっとよくわかんないんだけど……てゆうかさ、ウチは招集係だから、射場の事よくわかんないし。めっちゃ緊張するやん!」
「そうか? 今の時間は特にやる事ないから、大丈夫だったろ?」
「そうだけど、やっぱり緊張するじゃん!」
寺尾は、すこし慌てたようにパイプ椅子から立ち上がった。拓真はもう一度礼を言うと、寺尾は「どういたしまして!」と言って、スタスタと射場から廊下へと出ていった。
拓真はパイプ椅子に腰掛け、イヤホンを耳にはめたまま、射場内で稽古する様子を眺めた。どうやら遠藤と鈴木はいないようだ。
しばらくして、アフロ頭の相葉が矢を放ち、パァン―――と鳴った破裂音の後に「お願いします」と言う。矢取りの合図である。だが声が小さいせいか、的場から何の反応もない。それを見兼ねてか、「矢取りお願いします!」と大きな声が響いた。
それを合図に、的場の両側にある看的小屋から赤旗が掲示された。パンパンと手を叩く音が響き、的場では矢取りが開始される。
先ほど、大きな声でお願いしますと言ったボウズ頭の小野田は、相葉をからかうようにこう言った。
「おいアフロ、頭は派手なのに声が小せえんだな。ちゃんと声出せよ。かえって危ねえだろ!」
「ご、ゴメンナサイ……」
小野田光。正義感が強そうな雰囲気を持つ、いかつい坊主頭の男。
相葉英二。気弱そうな表情だが、体つきは筋肉質である。
相葉は他の選手からもクスクスと笑われているが、小野田が言う事は正しい。言葉こそ荒いが、実際に矢を射終わる合図としては、ハッキリと伝えなければ事故を助長しかねないからだ。
しかし、そのあと小野田が発した言葉に、拓真は眉をピクりと動かす。
「あの糞金髪野郎を失格させたのは、もしかしてお前か?」
「え……ち、ち、違うよ! 僕はそんな事しないよ!」
「否定する時は声がデカくなるんだな。俺は誰がやったとかはどうでもいいけど。むしろ胸糞野郎が消えてくれて感謝だけどな。ありがとよ!」
「そ……そんな……僕じゃ―――」
「ちょっとあんた、それは言いすぎじゃない?」
ビクビクとしながら否定する相葉をかばうように、イラついた表情の板野が小野田と向かいあった。板野は穏やかに小野田を威圧している。
板野宇美。ミス大学弓道があるとすれば、優勝候補だと思わせるような美貌を持つ、茶色いサイドポニーの女性だ。
射場では一瞬にして不穏な空気が漂う。
小野田は萎縮したように身を怖がらせ、板野を眺めた。
「いや……でも……」
「私にとっては、誰がやったとかは関係ないし。どうせ遠藤は自分で色を塗ってたんでしょ、弓道家としての礼儀も欠けてるしね」
「いや……あの金髪男は自分じゃ塗ってないって言ってたんです……その、板野さんの爪みたいに赤色だったって……」
板野は鋭く目尻を釣り上げ、声が大きくなった。
「このネイルは──たまたまよ! なによアンタ。アンタこそ自分がやったのを、他人になすりつけようとしてんじゃないの? どうなのよ!?」
「すすす、すいません! でも俺は人の弓にイタズラなんかしません、弓道家としての常識は守ってます!」
「常識ってなによ!!」
小野田と板野のやりとりに、周囲の選手達が困惑している中、相葉はしゃがみ込みガタガタと震えていた。射場の隅からその様子を見ていた黒咲は、立ったまま両手で弓を持ち、硬直している。
拓真は椅子から立ち上がると、急いで二人の元に駆け寄る。片手に和弓を持ちながらも、興奮する板野をなだめるように、その間に割って入った。
「落ち着いてください、今は合同練習の最中です。遠藤さんの事はともかく、この場では騒がないでください。他の選手達にも迷惑ですから」
「そっか……ごめんなさい。ついカッとなっちゃって」
板野は沈黙すると、拓真の襟足を見つめた。
拓真の行動に小野田は顔をしかめると、拓真の顔を指さした。
「そもそも、おめぇら学連が無能だからこんな騒ぎになるんだろ! 招集してた奴はなに見てんだ、道具のチェックすらまともに出来ねぇのか?」
「それはこちらの非である事は理解してます。ですが、だからと言って、練習を妨害するような事をしないでください」
「ハッ、イケすかねぇロン毛だな」
「それは関係ないでしょう。ですが練習試合の進行を統括する、運営委員として申します。射込み稽古中です、騒がないでください」
小野田は舌打ちをすると、弓立てに弓を置き、右手に
やがて、再び弦音の音が響き始めると、拓真はモヤモヤした気持ちを抱えながらもパイプ椅子へと腰掛けた。
ノイズが鳴る───拓真はインカムのマイクに手を添えた。
《こっちから見てたんだけどさ、さっき射場で揉めてたみたいだけど、大丈夫そうか?》
「あぁ、ひとまずは大丈夫」
《ならいいけどさ。俺達は試合の運営に来てんだからさ、あくまで進行優先って事は忘れんなよ》
「わかってる。今高も引き続き的場の監視をよろしく」
《了解》
ノイズが鳴り終え、拓真は小さくため息を吐いた。
遠藤に失格を告げたのは拓真であり、騒ぎの原因をつくったのも自分であると責任を感じているのだ。それに、まさか選手同士で揉めるような出来事にまで発展する理由が、拓真には分からなかった。まるで話題を共有しているかのように、弓道場にいる選手達が決勝戦の失格の件について、興味を示しているのだから。
「噂ってすげーな、ほんと。いったい誰が広めたのか……そんな事よりも」
拓真は椅子に座ると、右手で襟足をクシャっと握った。右肘を机につき、左手で選手名簿をペラペラとめくり、マーカーで塗られた名前に目を向ける。
小野田と板野。午前中の立ち稽古で、遠藤とは違う立ち順で弓を引いてる。だが鈴木の言葉では、遠藤が弓に細工をしていた事を知っていると言っていた。それは遠藤の噂によるものであるのか……。
それに人目につかず、意図的に遠藤の弓に色を塗るタイミングかあるとするならばと、拓真は思考する。
まず立ち稽古中に色を塗ることは難しい。射場では大勢の選手達が入れ替わるし、入場から退場まで選手は弓を持ったままだ、弓立てに遠藤の和弓が置かれていた事もない。
選手の控え場所にも弓立てはあるが、廊下でも人の往来がある。もし矢摺籐に色を塗るならば、誰かに目撃されてしまう可能性もある。
となれば、最後の立ち稽古が終わり、遠藤が弓を置いたタイミング以降から昼休憩中の間。練習に参加した選手達が昼食のために外に出たタイミングだ。昼休憩中の射込み練習は、決勝戦に残った選手のみ許可されていた。
そして、その時間に射場を出入りしていたのは決勝戦に残った選手6名と仮定すれば、そのうちの誰か。もしくは、関係のないものが射場に来て遠藤の弓に細工をする。はたまた、最初から遠藤が色を塗っていた。
「ああ〜わからんな。実際に誰が出入りしたかなんてわかんないし……にしても、公式戦ではないにしろ、事の大きさとしては大した事じゃないんだよな……想いは別だけど」
廊下では打ち合わせを終えた、各大学の主将達が控え場所へと向かう中、拓真のインカムから電子音が鳴った。
《委員長の成安です。えぇ〜伝達事項ですが、ちょっと重要な事なので、よく聞いてください》
拓真は掴んでいた襟足から手を離し、姿勢を正すとイヤホンに右手を添えた。
《決勝戦で失格となった遠藤選手の件ですが、先ほど主将さんのほうから話がありました。遠藤選手は退部されるため、この練習会を棄権するそうです。残念なお知らせですが、伝達事項なので聞いた方は返事をしてください》
拓真はパイプ椅子に背を預け、天井を見上げた。なぜ遠藤は、突然退部すると言い出したのか……。
雑音が───忙しく鳴った。
《いちおう私も。女子委員長の
《放送、わかりました。あ、
《招集係の
《記録の
《後看的の、
《前看的です。
少し間があき、拓真はインカムのマイクを手に持った。
「射場の藤本です。わかりました」
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