第六話「意地悪なビー玉マニア」

「どうしたのよっ、その顔っ!」


 Sクリニックに訪れると、相良先生は慌てて駆け寄ってきた。そして悲痛な表情を浮かべながら、腫れあがった顔に優しく両手を当ててくる。


「転びました」


「転んだ? 嘘つきなさいよ。誰にやられたのっ!」


「だから転んだと――」


「あのね、転んだとしてもこんな傷にはならないの。いいなさい、一体誰にやられたのっ!」


 如月の両肩に手を置くと、琴音は興奮した様子で彼を強引に揺すり始めた。

 痛い、首が取れる……これだから今日は来たくなかったんだ。赤べこのごとく首を揺らしながら、如月は心の中で溜め息を漏らした。


 昨日の一件で腫れあがった顔。当然ながら翌日になっても引くことはなかった。自分なりに氷等で応急処置を施したが、当然ながらそんなことで収まるレベルではない。加えて運が悪いことに、今日はカウンセリングの予約が入っていた。


 どうやら、ぶん殴られる曜日を間違えたな……。如月は自嘲した笑みを浮かべた。この顔でクリニックへ行けば琴音からの追及は免れない。仕方なく如月は、予約日の変更の旨を彼女に連絡した。だがそれは即座に却下された。何故なら琴音のもとに通うようになって、そんなことは一度としてなかったからだ。


 という訳で彼は致し方なく、クリニックに足を運ぶこととなった。そうでもしなければ、琴音が家庭訪問に訪れるのは、火を見るよりも明らかだったからだ。全くもって過保護もいいところだよ……。如月は再度溜め息を漏らした。


「転び方によっては、こうなるんですよ」


「分った、どうあってもいわないつもりね。じゃあ、いいわ」


 琴音はデスクの上の電話に手を伸ばすと、無言でどこかに掛け始めた。


 まさか――嫌な予感が頭を過った。


「どこに電話を?」


「決まってるでしょ、学校よ」


「今日は休みですよ」


「知ってるわよ。でも誰かはいるはずでしょ? その誰かさんに、キミの担任の電話番号を聞きだすわ」


 如月は素早く電話機のフックに指をかけた。すると琴音はそんな彼に鋭い視線を浴びせた。


 ほんとのことをいわないと、学校に乗り込むわよ。彼女の瞳は無言でそう語っていた。どうやら逃げ切るのは無理だな……。


 如月は観念すると、ここ数週間の間に起こってい出来事を、若干の脚色を交えながら話した。当然ながら琴音が心配するような事柄は、端折はしょったのはいうまでもない。


「なるほどね。そのイケメン先輩は、勘違いからハル君に嫉妬した。そしていきなり殴りかかってきた、と」


 話を聞き終えた琴音は、クッキーを頬張りながらいれたてのコーヒーを啜った。


「彼女のせいで僕の日常は散々ですよ」


「付き合えばいいじゃない。その子、可愛いんでしょ?」


「まあ、顔だけは」


「写真とかないわけ?」


「ありません」


「じゃあ、今度までに撮ってきて」


「嫌ですよ。それに向こうもようやく僕に飽きてくれたみたいですから、もう無理です」


「なあんだ、つまんない」


 大げさに溜め息を漏らすと、琴音はゆっくりと背もたれに体を預けた。

 それにしても、さっきは相当慌ててたな…… ”琴音に心配かけなさんなよ” 彼女の悪友にいわれた言葉が頭を掠めた。今回のことがバレでもしたら、大目玉をくらうのは確実だ。


 如月がそんなことをぼんやりと考えていると、琴音がデスクの上の煙草に手を伸ばした。そして小ぶりなジッポで火をつけると、煙を吐ききながら口を開いた。


「しっかし、その子も相当変わってるわよねえ? だってよりにもよって・・・・・・・・・・、ハル君を選ぶぐらいだもん」


「よりにもよっては余計ですけど……でも選んだ訳じゃないと思いますよ。恐らく僕が彼女に全くなびかないもんだから、プライドが傷ついたんでしょう」


「相変わらずのネガティブ思考ね」


「論理的思考ですよ」


 煙草の煙を払いながら、如月は淡々と答えた。


「彼女、マジ惚れしてたのかも知んないじゃない」


「それはないですよ」


「どうしてそういい切れるわけ?」


「それは……勘です」


 特に理由は無いが、彼女には別に好きな人がいる、という事実はいわなかった。


「どこが論理的思考なのよ」


 煙を吐き出しながら、琴音は苦笑いを浮かべた。その後はいつも通りのカウンセリングもそこそこに、彼女との何気ない日常会話が続いた。そして数十分の他愛もないお喋りが終わりを告げると、いつものようにお礼の言葉を述べて、Sクリニックをあとにした。


 エレベーターを降りると如月は調剤薬局には向かわずに、そのまま通りに出た。今日は家に薬がまだ残っている為、幸いなことに処方箋は出されなかった。


 それにしても、この顔を谷川さんに見られないで済んだのは不幸中の幸いだった。もし見られでもしたら相良先生なみのリアクションと共に、ことの真相を根掘り葉掘り聞かれた挙句に、長い説教が始まっていたことだろう……。如月は寒気と共に、安堵の吐息を漏らした。




「おーい、如月っ!」


 大和駅を目指し通りを歩いてると、不意に彼を呼び止める声が聞こえた。声がした方向に目を向けると、そこには片手を振りながら笑顔を浮かべる、清水信二の姿があった。


 小麦色に焼けた肌に、五分刈りのボーズ頭。加えて若干タレ目ぎみの愛嬌のある目元が、周りに何ともいえぬ安心感を与えている。


 そんな彼とは合同体育でよく顔を合わせ、必ず2~3言会話を交わす仲だった。当然、話しかけるのはいつも清水のほうからである。


「何やってんだ? こんなとこで」


 清水は小走りで如月のもとに訪れると、辺りを見渡しながら尋ねた。


「まあ、ちょっとね。そっちは?」


「俺は……デートだ」


「そう。なら邪魔しても何だから、僕はこれで」


「まあ、待てって。相手もまだ来てねえんだから」


 清水はおどけた様子で引き留めると、如月の腫れあがった顔を覗き込んだ。


「それにしても、また随分と派手にやられたもんだなあ。やっぱり原因は三島小夜か?」


「さあ? 僕はいきなり殴りつけられただけだから、あっちの動機までは知らないよ」


「そっか……まあ、お前は誤解を受けやすいタイプだからな」


「誤解? そうかな」


「そうだよ。いっつも無表情でなに考えてるか分んねえし……俺だって初めてお前に話しかけた時は、結構勇気いったんだぜ」


「へえ、そうだったんだ」


 そっけない如月の返しに、清水は苦笑いを浮かべた。


「相変わらず、クラスでも一人か?」


 如月は静かに頷いた。


「そっか……まあ、一人が嫌なやつもいれば、その逆も当然いるだろうからな」


「ああ。そうだね」


 如月が自嘲した笑みを浮かべた時だった、背後から彼を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返るとそこには荒川早苗が佇んでいた。


「こんなとこで何やってんの?」


「別に。それじゃデート楽しんで」


「ちょい待ち。デートってどういう意味よ?」


 如月が足早にその場をあとにしようとすると、早苗が素早く彼の手首を掴んできた。


「デートなんだろ?」


 如月は小首を傾げながら清水に顔を向けた。


「まあ、デートっていうか……」


 先程とは打って変わって、清水は気まずそうに口ごもった。その様子を見てすべてを理解した早苗は、すぐさま清水にゲンコツを落とした。すると彼の頭からは、木魚のような小気味のよい音が響いてきた。


「痛ってえな、何すんだよっ!」


「あんたがくだらない嘘つくからでしょ!」


 頭を押さえながら、非難の眼差しを向ける清水をよそに、早苗はことの真相を如月に説明し始めた。


 清水には2つ下の有紀という妹がいる。そして明日は彼女の14回目の誕生日だった。最近、兄妹の仲が希薄になっていると感じていた清水は、有紀に何かプレゼントをと考えた。だがな何を買っていいのやら皆目見当がつかない。


 そこで相談したのが同じ陸上部に所属する早苗だった。因みに彼女は有紀と同じ中学出身であり、しかも部活も同じだった為、卒業後も何かにつけ有紀のことを可愛がっていた。そんなこともあり、本日は清水に付き合い、彼女のプレゼントを一緒に選ぶこととなっていた。


「――という訳でこれはデートじゃないからっ!」


「どっちでもいいよ」


 如月は長話にうんざりした様子で答えた。そして話を聞き終えた彼は手首を軽くひねると、早苗に掴まれていた腕を静かに振りほどいた。


「どっちでも良くないのよっ!」


「分ったよ。デートじゃないんだろ? それじゃ、プレゼント選び頑張って」


「そうだっ! ここで会ったのも何かの縁だから、如月も手伝ってよ」


「嫌だよ、どうして僕が……」


 如月が回れ右をして二人に背を向けると、早苗が清水に目配せをした。すると清水は軽く頷くと、素早く如月の右腕に自身の逞しい腕を絡ませてゆく。そしてその左隣では早苗が彼と同様の行動に出ていた。


「何のつもりだ」


 如月は両隣の陸上部部員たちに無表情で尋ねた。


「大勢で選んだ方が、絶対良い物をGET出来るじゃん。だからあんたも一緒に行くのよ」


 冗談じゃない、誰がそんな面倒なことをするか。如月はそう思いつつ、早苗に鋭い視線を向けた。


「キミは健忘症か? 昨日、僕がいったことをもう忘れたみたいだな」


「覚えてるわよ。でも私も小夜と同じで、拒否られると余計に構いたくなる性質たちなのよ」


「厄介な性格だな。正直、死んでほしいね」


「あら、ズバッというわね」


「清水君、キミだって彼女と二人きりの方がいいんだろ?」


「まあ、どっちかといえばな」


 清水は照れくさそうにボーズ頭をかいた。


「なら僕に絡めているその腕を今すぐに離せ」


「清水っ! あんたその腕離したら、私は速攻で帰るわよ」


 早苗が鋭い視線を清水に投げかけると、彼は無言で頷きながら如月に申し訳なさそうな顔を向けた。


「悪い、如月……今回は泣いてくれ」


 ったく勘弁してくれ……。如月は大げさに溜め息を漏すと、うんざりとした表情を早苗に向けた。


「分った、付き合うよ。だから二人とも早く腕を離してくれ」


「絶対に逃げない?」


「ああ。陸上部のエースに、勝負を挑むような無駄なことはしないよ」


 早苗は満足気に微笑みながら、ゆっくりと如月の腕から離れてゆく。そして程なくして、有紀のプレゼント選びがスタートした。本日の目的地は、様々なショップが入ったファッションビル。 

 ったく、どうやら今日は厄日のようだ……。溜め息を一つ漏らすと、如月は肩を落としながら二人の後に続いた。




「なあ、これなんかどうだ?」


「センスねえ……なんなのよ、その一発で目が疲れるような蛍光色のボーダーは」


 清水がTシャツを広げながら二人に尋ねると、早苗は心底呆れるように顔をしかめた。


「そうかなあ、如月もそう思うか?」


「いや、僕は良いと思うよ。車のライトなんかにも反射するだろうから、街灯の少ない夜の道路を歩くときなんかは最適だね。よしっ、それにしよう」


「……ねえ、さっさと決めて早く帰ろうとしてない?」


「まさか」


 早苗の疑惑のこともった眼差しを、如月はいつもの無表情で軽く受け流した。


「いっとくけど、じっくりと時間をかけて選ぶからね。なんせ有紀は私の可愛い後輩なんだから」


 早苗はそういって、隣のアクセサリーショップへと足を向けた。

 拷問だ……。如月はうんざりした表情を浮かべながら溜め息を漏らすと、この世の終わりのような表情で彼女の後に続いた。


「ねえ、小夜から連絡あった?」


 早苗はアクセサリーを手に取りながら、何気なく如月に尋ねた。


「いいや、ないよ」


「昨日ね、学校帰りにあの子ののマンションに寄ったんだけど、チャイム押しても出ないのよ。それにあれから電話も繋がらないし……」


「子供じゃないんだから、2~3日捕まらなくても問題ないだろ」


「まあ、そうなんだけど。あんなことがあった後だからさあ……」


「心配し過ぎだと思うけど」


「そうかなあ……」


 早苗はそう呟くと、手近にあったネックレスを手に取った。そして自身の首に当てると、「どう、似合う?」と、如月に微笑みかけた。


「今日は可愛い後輩のプレゼント選びなんだろ?」


「何よ、ちょっと聞いてみただけじゃない。それよりあんたもちゃんと選びなさいな」


 早苗が不機嫌そうに口を尖らせると、如月は怠そうに周りを見渡した。そして彼は一つのアクセサリーの元へと歩みを進めてゆく。

 これは……。途端に如月の表情が変り始める。彼が見ていたのは地球儀を模した、大ぶりなピアスだった。


「あら、可愛いわね。でもピアスはダメだわ。だって有紀、穴開けてないもん」


 早苗は地球儀のピアスを手に取ると、残念そうに呟いた。そんな彼女をよそに如月の視線はある一点に注がれていた。彼はディスプレイの飾りであろう、ビー玉に手を伸ばす。それは鮮やかな群青色をしており、まるで浅い時間の夜空のようであった。


 美しいビー玉――如月の宝物と瓜二つ。彼はそれを握りしめると、近場にいた店員の元へと向かっていった。


「すみません、これ譲ってくれませんか?」


 如月は女性店員に尋ねた。


「申し訳ありません。それは売り物では御座いませんので……」


「そこを何とかお願いできませんか」


「そういわれましても……」


「そんなに欲しいの? それ」


 早苗が小声で尋ねると、如月は静かに頷いた。すると女性店員は困惑した表情を浮かべ始める。丁度その時だった、二人の背後から突然声が聞こえてきた。


「どうしたの、何かあった?」


 如月たちが同時に振り返ると、そこにはもう一人の女性店員が佇んでいた。


「あっ店長、じつはこちらのお客様からこのビー玉を譲ってほしいといわれまして」


「ふうん……っていうかどうしたのその顔?」


 店長と呼ばれた女性店員は、如月の腫れあがった顔をまじまじと見つめた。


「昨日、ぶん殴られました」


「へえ、因みに原因は?」


「痴情のもつれってやつです」


「随分とDVな彼女らしいわね」


「ええ、困ったもんです。まあ、彼女じゃないんですけどね」


「ふうん。なんか込み入ってそうね」


「はい。かなりややこしいです」


「それで、なんでそのビー玉が欲しいの?」


 小首を傾げながら女性店員は尋ねてきた。年の頃は30代後半といったところだろう。化粧っ気のないほっそりとした美人だった。胸元のネームプレートには原田美恵とある。


「昔に失くした物と同じだったので……」


「へえ、大切な物だったんだ」


「ええ、とても」


「このビー玉ってね、京都の有名なガラス職人さんが50個限定で作った物なの」


「知ってます」


「あらそう。でもねその職人さんはもう随分前に亡くなっちゃったみたいなのよ。だからこれは私のコレクションの中でも相当レアなわけ」


「コレクション?」


如月は眉を顰め小首を傾げた。


「そう。私、ビー玉マニアなの」


「ああ、なるほど。じゃあ、譲ってもらうのは無理ですね」


「そうでもないわよ。私がキミに譲ってもいいと思わせるような理由さえあればね」


「理由……以前、失くした大切な物だからじゃダメですか?」


「どうして、そんなに大事な物だったの?」


「両親がくれたんです。僕が生まれた時の記念に」


「ふうん、いい話ね。でもこれを手放す理由としては、ちょっと弱いかな。他にはないの? 別に作り話でもいいのよ。私を感動させてくれるのならね」


 原田は試すような眼差しを如月に向けた。

 最初はなっから譲る気はなしか……。彼は心の中で呟くと、軽く頭を下げ足早にアクセサリーショップをあとにした。




「ねえ、いいの? もう少しねばれば譲ってくれたかもよ」


 早苗はアクセサリーショップを出ると、足早に歩く如月の顔を覗き込んだ。


「いや、無理だよ。彼女はあのビー玉を手放す気はない」


「そうかなあ……あれっ、っていうか清水は?」


 その後、二人は清水を探すためフロアを歩き回った。程なくして先程の店で彼を発見した。清水は相変わらず先の蛍光Tシャツを難しい顔で眺めている。そんな彼を見て早苗は大げさに肩を落とした。


 結局、有紀へのプレゼントは早苗が選んだ、シルバーのハート型ネックレスに決まった。幾分、納得のいかないような表情の清水だったが、早苗のゴリ押しに負けて渋々、彼女の意見に従った。


「僕がいる意味ってあったの?」


 如月はレジで前で支払いを行っている清水を、ぼんやりと眺めた。


「まあ、いいじゃない。そのおかげで、あのビー玉とも出会えたわけだし」


「手に入らないのなら、見つけない方がよかったよ」


「ああ、分る分る。私もそう思う……多分、小夜もね」


 早苗は俯きながらぽつりと呟いた。




 その後はプレゼント選びに付き合ってくれたお礼ということで、清水が遅めの昼食を奢るといってきた。早苗は当然よ、といった様子でその申し出を受ける。一方、如月といえば空腹ではないという理由でやんわりと断った。


「如月、今日はサンキューなっ!」


 別れ際、清水は馬鹿デカい声と共に如月の肩に分厚い手のひらを置いた。

 ただでさえ蒸し暑いっていうのに……。彼は溜め息を漏らしながら、無言でそれを払いのけた。すると今度は早苗が足早に近づいてきて小声でこう告げてきた。


「気が向いたらでいいから、小夜に電話入れてみて」


 如月は彼女の言葉を無視すると、足早に大和駅へと歩みを進めた。


「冗談じゃない。誰が電話なんてかけるか」


 小声で吐き捨てると、彼は駅へと向かう足取りをより一層速めた。

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