トージとアンナ

原田なぎさ

トージとアンナ

【トージSIDE】


 痩せた少女が夏のぬるい雨に打たれていた。


 その夜、俺はしたたか酔っていた。港町の場末のバーを二軒梯子し、浴びるほど酒を飲んだ。

 リチャード・スギムラを取り逃がした。某国の財団が懸賞金をかけてた男だ。

 財団はブロックチェーンで富を築いた富豪が立ち上げ、表向きは国際的な仮想通貨の普及啓発を目指している。

 ボスからの受け売りだが、仮想通貨は国家を揺るがしかねないらしい。分散型に管理されるため、国家の通貨発行権と対立するからだ。

 スギムラは財団の技術者だった。革新的なブロックチェーンの暗号解読法を開発し、姿を消した。公開されれば仮想通貨の安全神話は崩壊する。

 財団はスギムラに百万ドルの懸賞金をかけ、情報を世界中の闇組織に拡散した。

 半年前から各国の殺し屋たちが血まなこでスギムラを追っている。

「スギムラの曽祖父は日本人だ。この国に潜伏中だというネタがある」とボスは言った。「先を越されず捜し出せ。報酬はいつもの倍、懸賞金の半額だ」

 

 俺は孤児だ。五歳の時、山奥の施設から組織にさらわれた。

 施設長は俺をろくに捜さなかった。

 別にいい。施設ではさんざん殴られた。メシだって十分食わせてもらえない。入浴は週に一回だけだった。

「お前たちは家族から見捨てられた哀れな子どもだ」と繰り返された。

 確かに俺は親を知らない。十二月の寒い夜、毛布にくるまり、赤子の俺は施設の前に捨てられていた。

 施設長は「それが冬至の日だったから、お前の名前はトージなんだ」と笑っていた。


 最初はナイフ、やがて銃。組織は俺に暗殺術を叩き込んだ。

 訓練は過酷だった。

 肉体的にも精神的にも追い込まれ、五人いた同期のガキは三年で俺一人になった。

 ほかがどこに消えたかわからない。訊く気もなかった。

 十分なメシが食え、毎日シャワーを浴びられて、温かい布団で寝られる。施設に比べりゃ、組織のほうが何倍もマシだった。

 十歳の夏、ボスから「卒業試験」の課題を出された。「できるか?」と尋ねられ、俺は黙ってうなずいた。

 その日のうちに施設長の喉を切り、死体に土嚢を巻いて沼に沈めた。

 手が震えたのは喉を切り裂く寸前までだ。ナイフが皮膚に触れた瞬間、余計な思考が停止した。

「頭の中が白くなる」とはよく聞くが、俺の場合は逆だった。黒くなる。その闇が、冷静さを与えてくれた。

 そこからはヒトもモノも変わらない。淡々と処理をした。

「お前、この仕事向いてるぞ」とボスに頭を撫でられた。


 あれから十五年。命じられるまま何人も闇に葬り去った。

 女もいた。ガキもいた。大抵は生きる価値もないクズだった。つまり俺とおんなじだ。

 もはやなにも感じなかった。空気を吸って吐くように、誰かを傷つけ、命を奪える。

 いつしか俺は、憎んだ親や施設長と同じ人種になっていた。

 

 日本に潜伏していたスギムラが、貨物船に身を潜めて第三国へと出国する――。

 ある夜、情報屋から耳打ちされた。出港二時間前だった。

 その国は独裁国家だ。事実上鎖国をしている。

 高跳びされればややこしい。俺は銃を握って駆けつけた。

 はたして港近くの冷蔵倉庫で、スギムラはマグロとともに吊るされていた。

 凍った体に指はなく、顔面も潰されている。身元をわからぬようにするためだ。

 ただ手配書に記された「蝶の形の赤い痣」が首にあった。スギムラで間違いない。

 同業者に先を越されたのだ。初めての経験だった。

 俺は死体を蹴り上げる。五十万ドルがふいになった瞬間だった。

 その場でボスに連絡した。「わかった」とだけ返事があった。


 俺は近場で酒をあおった。

 一軒目のバーを出たところで雨が降り出し、二軒目に入ったのが間違いだった。

 久々に悪酔いし、店を出て、濡れながら路地で吐いた。

「大丈夫ですか?」

 思わぬ声に振り向くと、白いワンピースの少女がいた。傘もささずに黒い仔猫を抱いている。

 気配に気づかないほど酩酊していた。それが不覚でまた吐いた。

 口の中が酸味を帯びる。少女は背中をさすってくれた。

「うちで休んでいきますか?」

 思わぬ言葉に少女を見つめる。大きな瞳に薄い唇、小さな鼻。美形だが、あどけなさを宿した顔だ。

「高校生か?」

「二十歳です。ちゃんと仕事もしています。一人暮らしだから遠慮なく」と少女は笑った。

「真夜中に酔った男を連れ込めば、どうなるかはわかってるよな?」

「その様子だと、今夜、私を襲えるとは思えません」

「なぜ俺に声をかけた?」

「この子と同じで、寂しそうでしたから」

 少女の手元で仔猫が鳴いた。親からはぐれた野良だろう。右前脚に怪我をしている。ワンピースに赤い染みが滲んでいた。

「近くに車を停めてます。どうします? 行きますか、行きませんか?」

 それがアンナとの出会いだった。


 アンナの家は古い団地の三階だった。部屋にはパイプベッドと最低限の家具しかない。綺麗に片づけられていて、几帳面さがうかがえた。

「先にシャワーを浴びて下さい。私はこの子の手当てをします」

 長い髪をタオルで押さえ、薬箱を取り出している。慣れた手つきで仔猫に消毒液を吹きかけた。

「脱衣所の棚に男物のスウェットと下着があります。出たらそれを着て下さい」

 小娘だと感じていたが、慣れてやがる。これまでも同じようなことをしてきたのだろう。熱い湯を浴び笑ってしまった。

 無数の女を抱いてきた。すべて商売女か行きずりだ。誰かの命を奪ったあとは、無性に女が欲しくなる。

 少女も淫売どもとおんなじだ。


 シャワーを浴びると酔いがさめた。人殺しにはしくじったが、性欲がないわけではない。服を借り、居間に戻った。

 Tシャツとショートパンツに着替えた少女が、仔猫を抱いて床で寝ていた。

 俺は黙って様子を眺める。

 無防備だった。寝息にあわせ、胸がかすかに上下している。

 タオルケットをアンナにかけた。代わりにベッドを拝借し、身を委ねる。

 枕から清潔で甘い香りが漂った。この稼業を始めて以来、俺は深く眠れない。

 だがその夜は別だった。

 体の芯から眠気がしのび、瞳を閉じる。

 ぼんやりとした幸福感に包まれて、深い眠りに俺は落ちた。

 

 手のひらをペロっと舐められ目が覚める。一瞬どこにいるのか把握できず、半身を起こして周囲を見た。

 ベッドの上で、仔猫がにゃあ、と小さく鳴いた。ようやく昨夜のことを思い出す。殺し屋として失格だ。

 食卓にハムエッグとサラダ、トーストが載っていた。鍵とメモが添えられている。

「よく寝ているので、起こしませんでした。私は仕事に行ってきます。あなたも会社があるなら遅刻しないで下さいね。合鍵はそのままポストに入れておいて。ナツにはミルクをあげてください。アンナ」

 少女の名前と、少女が仔猫につけた名前を知った。夏だからナツなのだろう。安易だな。トージの俺と同じぐらいに。


 すでに八時を回っていた。冷蔵庫からミルクを取り出し、皿に注いで床に置く。ナツがぴちゃぴちゃ舐め始めた。俺は椅子に腰を掛け、ハムエッグにフォークを突き刺す。

 組織に飼われ、ずっと独りで暮らしてきた。繁華街にある築六十年のマンションだ。

 薹が立った風俗嬢や片脚のない元ヤクザ、「地球は滅亡します! 天から魔王が降ってきます!」と夜な夜な叫ぶ白髪の老人。そういう奴らが住人だった。

 施設長を消した夜、俺に部屋をあてがって、「化け物小屋みたいだろう?」と愉快そうにボスは言った。

 同感だった。

 俺もまた、化け物だ。


 ハムエッグは旨かった。レタスとトマトも腹に沁みた。バターを含んだトーストは冷めてもいける。

 ミルクをナツの皿に継ぎ足して、残りは俺が飲み干した。

 女の家で手作りのメシを喰う。記憶をたぐるが覚えがない。

 俺とナツはアンナの家にそのまま居ついた。

 アンナもそれを拒まなかった。


「したければいいですよ。私、処女じゃないですし」と彼女は言った。

 だが俺はアンナを抱かなかった。

 理由を訊かれ、ナツの目がある、と真顔で答えた。アンナは笑った。

 ナツは雌だ。幼女に大人の痴態を見せたくねえ――。

 重ねて告げると「なるほど、一理ありますね」とうなずかれた。

 そういうとこだ、と密かに思う。

 俺はアンナの心の無垢を汚したくない。


 アンナと暮らして半年過ぎた。つつましく、穏やかな日常だった。

 朝晩に食事をし、休みの日には家でそろって映画を見る。

 月に一度、郊外のショッピングモールに車で出かけ、日用品を買いだめした。

 決まって帰りに寄り道し、暮れなずむ海を見た。

 ボスからはSNSで指示される。時間が経つとメッセージは自動で消えた。念のため、符牒でやりとりするのが決め事だった。

 アンナと暮らしてからも「もみじ狩り」や「フィッシング」や「美化活動」を命じられた。

 簡単だった。

 アンナには「世界と取引している専門商社の営業マン」と説明した。

「大変ですね。それでときどき、土日や夜も仕事なんですね」

 疑いもせずに彼女はねぎらう。


 アンナは定時の勤務だった。編集プロダクションでアシスタントをしているらしい。

 締め切りの間際だけ、不定期に多忙になる。そのたびに「ごめんなさい」と頭を下げ、食事を作り置きしてくれた。

 ナツはあっという間に大きくなり、今や見た目は成猫だ。

 その夜、アンナは残業だった。食卓をナツと囲む。永久歯が生えそろい、ドライフードが主食になった。

 たまに俺の料理を横取りする。今夜は刺身を二枚食べられた。

 旨そうに目を細めて舌なめずりしている。ビールを含み、ナツの頭を片手で撫でた。ごろごろと、甘えたように喉を鳴らす。

 帰宅したアンナに見とがめられ、抱かれたナツは四肢をバタバタさせている。

「今度はちゃんと用意するから、他人のご飯をくすねちゃ駄目だよ」

 ナツはにゃあにゃあ二度鳴いた。

 わかったわかった。

 そんなふうに俺には聞こえた。


 三人(二人と一匹?)で、冬のベッドに横たわる。

 温かかった。安らかだった。

 アンナは家族について話さなかった。俺も尋ねなかった。

 感じるものがあったからだ。

 俺とナツとはおんなじだ。アンナにも多分家族が欠けている。


 月の明かりが差し込む部屋で、アンナの寝顔を眺め続けた。

 目じりに涙が滲んでいる。淡い光を反射して、キラキラ光を放っていた。

 アンナはいつも穏やかだ。

 弾けるような笑い顔も、取り乱して泣く様も、見たことがない。

 生きるため、孤児は感情に蓋をする。飼いならす。俺もそうだ。

 まったくボスには見る目がある。孤独な暗殺者としてはうってつけだ。ずっとそう感じてきた。

 だがアンナの涙で思い直す。

 いくら上手に飼いならしても、感情自体が消えてなくなるわけではない。

 俺の蓋は開いてしまった。


 家族がほしい。

 愛されたい。

 

 押し寄せる高波のような感情だった。

 逃げようと何度か試み、波にのまれる。あらがえない。

 アンナに背を向け、「卒業したい」とメッセージを送信した。

 もう俺はこの稼業を続けられない。

 守りたいものができてしまった。

 それは命知らずの行動を鈍らせる。

「わかった。明日登校しろ」

 ほどなくボスから返事があった。

 

「不規則な仕事を変えようと思っている」

 翌朝の食卓で切り出した。アンナが驚く。「急にどうしたんですか?」

「大事な人の存在に気がついた。その人にも俺を大事に感じてほしいと思っている」

 彼女は真っすぐ俺を見つめ、それから黙ってうつむいた。言葉はちゃんと届いている。

 無言のままの俺たちを、不思議そうにナツが見上げた。次の瞬間、あいた椅子を踏み台に、卓上へと跳ね上がる。

 クンクンと匂いを嗅いで、俺のポタージュを舐め始めた。

 我に返り、「ナツ、駄目って言ったでしょ!」とアンナが叫ぶ。権幕に驚いて、ナツは床に飛び降りた。

「……それ、いれなおしましょうか」

「いいよ。ナツは家族だ。アンナにも俺と家族になってほしい」

 ポタージュを飲み干す俺を、濡れた瞳でアンナが見ている。

「行ってくる。帰ってきたら答えを聞かせてくれないか」

 玄関でアンナは俺の背中に両手を回し、「……もっと早く言われたかった」とつぶやいた。

 震える小さな肩越しに、ナツがのんびり居眠りしている姿が見える。


 組織を抜ける、堅気になる――。

 単刀直入、ボスに告げた。

 理由も訊かず、「いいぜ。お前はよくやってきた」とボスは答える。

 拍子抜けした。

 片手ぐらいはとられることを覚悟していた。

「ただな、最後にもう一仕事だけやってくれ。成功したら金輪際、組織はお前に関わらない」

 そんなことか。お安い御用だ。

「リチャード・スギムラを先に消されちまっただろ?」

 ああ。暗殺者として俺の唯一の汚点になった。

「ツテをたどって殺った野郎を特定した。外国人かと思っていたが、日本人だった。ただ、生まれ育ちは海外だ」

 ボスは暑い国の名を挙げた。内紛が絶えないことで知られている。

 その昔、日本人の過激派が逃げ込んだ。まだ残党が残っていると聞いたことがある。

「過激派二世が組織を立ち上げ、暗殺を請け負っている。この国にヒットマンを送り込み、うちより先にスギムラの潜伏先を特定した。親のいない三世だ。スギムラの成功に味を占め、その野郎を残留させた。凄腕だ。間違いなく、俺たちの脅威になる」

「そいつを消せばいいんだな?」

「そうだ」とうなずき、ボスは机に銃を載せた。その脇に写真を置く。

「拒めばお前を消さなきゃならねえ。足抜けするにはトージは秘密を知り過ぎている。――どうだ、できるか?」

 銃を握って写真を見つめる。

 久しぶりに両手が震えた。初めて人を殺して以来だ。

 雨の夜、港近くで会ったのは、そういうことだったのか。

 ワンピースの血痕は、怪我した仔猫のものではなく、人間の返り血だろう。

 あれだけ痛めて殺しつつ、衣服はほとんど汚れてなかった。なるほど、相当腕が立つ。

 めまいがした。

 俺にこいつを殺せるだろうか。

 少しボケた写真のアンナは、薄い笑みを浮かべていた。



【アンナSIDE】


 内紛で父母は死んだ。私が三歳の時だった。

 敵対組織のロケット弾が二人の近くの車両に当たり、全身に破片を浴びた。

 即死だった。

 野良猫を追いかけて、私は少し離れた場所にいた。爆風でふわっと体が舞い上がったのを覚えている。すぐに地面に叩きつけられ、意識をなくした。

 目覚めると、アジトのベッドで寝かされていた。

 その昔、日本からこの国に逃げ延びた過激派二世の組織のアジトだ。父母はともに二世だった。

 組織は資金に窮していた。国際機関の監視強化で、収入源の薬物は年々捌きにくくなっている。

 議長は「テロの輸出」を打ち出した。暗殺の請け負いだ。

 日本人はアジアで溶け込む。子どもであれば疑われることさえない。

 私は暗殺術を学ばされた。「女をいかせ」と命じられ、そういう技術も叩きこまれた。

 八歳で初めて人を手にかけた。ある国の富豪でロリコンだった。

 薬で眠らせ、耳孔に細い鋼を突き刺した。

 命じられて震えたが、終えてみると簡単だった。

 それから何度も人を殺した。

 偽造旅券を渡されて、アジア各地を渡り歩いた。

 二十歳のこれまで一度も失敗したことはない。

 人の死に、なにも感じなくなっていた。


 議長は激しく怒っていた。

 財団がリチャード・スギムラに懸賞金をかけた頃だ。

 匿名性が保たれる仮想通貨は、世界中のテロ組織に用いられている。支援者からの国際カンパや薬物の売り掛け金、暗殺の対価も仮想通貨で送られてきた。

「百万ドルも魅力だが、それ以上に暗号技術の無効化を妨げなければならない」

 お金のルートを断たれれば、組織はいよいよ行き詰まる。

「スギムラは日本に潜伏しているようだ。消してこい」

 私は議長に命じられた。


 世界中の殺し屋がスギムラを狙っている。思惑は様々らしい。

 最悪なのは、葬る前にスギムラから暗号解読法を聞き出されることだ。

 それをほしがる無法者はたくさんいる。財団に偽って、売り渡せば二度おいしい。

 議長には「絶対先を越されるな」と厳命された。

 住居と仕事は在日シンパがそろえてくれた。もちろん仕事は偽装のためだ。

「学生時代のおばあちゃんによく似ている」私を見て、編集プロダクションの老経営者は目を細めた。

 祖父母が国外逃亡する前に、一緒に非公然活動をしていたそうだ。その後もシンパを続けている。

 二人がどんな人物だったのか、何を信じていたのか、よく知らない。

 私が生まれるずっと前、誰かと戦い死んでいた。

 

 スギムラ捜しは難航した。老経営者が昔のネットワークをフル活用して助けてくれた。

 突き止めたのは、スギムラが貨物船で密出国する当日朝だ。

 先回りして港で待ち受け、後頭部を一撃した。昏倒するスギムラに毒を打つ。

 顔を潰して指をすべて切り落とし、冷蔵倉庫にマグロと吊るした。

 庫内はマイナス五十度だ。凍結していく死体を眺め、倉庫を出た。

 すでに夜になっていた。大粒の雨が降っている。

 傘を持ってくるのを忘れていた。濡れながら、港から少し離れた駐車場へと向かって歩く。

 寂れた飲み屋街に差し掛かり、仔猫が鳴いているのに気がついた。右前脚に怪我をしている。

 道ばたにしゃがみ込み、黒い仔猫を抱き上げた。

 どうやら親とはぐれたらしい。


 不意に父母の死に目を思い出した。あの時、私が追いかけてたのも黒猫だった。

 放っておけない気持ちがした。

 感情なんてすでにない。そう信じていたからうろたえた。

 スギムラを吊るす前、ポケットから財布を抜いた。身元をわからなくするためだ。

 財布の中に、写真があった。中年男が幼い娘を抱き締めている。あれを見たのがいけなかった。

 人を殺しておきながら、濡れた仔猫に情がわいた。

 親猫を捜しまわった。見つからない。

 代わりに路地で男を見つけた。しゃがみ込み、つらそうに吐いている。

 やめておけ。酔っ払いだ。関わるな――。

 私が私に警告する。にもかかわらず、気がつくと「大丈夫ですか?」と声をかけていた。

 向けられた男の瞳は、深い孤独をたたえていた。


 トージと仔猫は我が家に居ついた。

 仔猫には季節そのまま「ナツ」と名づけ、自分のことは「アンナ」と名乗った。

 組織ではそれに近い名前で呼ばれていた。

 あえてアンナと名乗ったのは、自分を律するためだった。

 なのに私はどんどんトージに惹かれてしまう。


 その夜、家に帰るとトージとナツがじゃれていた。

 半年で大人のように育ったナツが、トージの刺身をくすねたらしい。

 ナツを抱き上げたしなめる。トージは「いいよいいよ」と笑っていた。


 いつものようにトージとナツと並んでベッドに横たわる。

 温かく、安らかだ。

 目を閉じて、一生続けばいいな、と私は願う。

 けれどこれは果たせぬ夢だ。

 涙が滲む。

 私は組織を抜けられない。

 暗号技術は守られた。懸賞金も手に入る。でもそれは、当面の解決に過ぎなかった。

 私は組織の稼ぎ頭だ。

 命を奪い続けねば、組織が干上がる。みんな死ぬ。殺される。


 議長との連絡には、編集プロダクションのパソコンを使っていた。

 秘匿のため、VPNを張ったうえ、海外のサーバーを二つかませる。

 スギムラ殺しはその筋で話題になっているそうだ。

 しばらく前、「日本を拠点にアジアで仕事を広げていく」と議長に言われた。

 この国に留まれる。そう喜び、今夜のメールに打ちのめされた。

「競合を排除する」

 添付の写真に息を飲む。

「できるか、アンナ―ル?」

 議長に問われ、はい、と答えた。

 アンナ―ルは現地の言葉で「地獄」を意味する。


「大事な人の存在に気がついた。その人にも俺を大事に感じてほしいと思っている」

 翌朝、食卓でトージに言われた。

 涙をこらえる。

 ポタージュを飲み干して、「帰ってきたら答えを聞かせてくれないか」と言い残し、トージは家を出ていった。

 ナツがごろんと横たわる。

 さっき、ポタージュを舐めてしまった。

 遅効性だが、微量でも、猫にはずっと早く効くようだ。

 人殺しに震えている。

 久しぶりだ。

 ロリコンの富豪を殺めて以来のことだった。


 そろそろトージの鼓動も止まる。

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トージとアンナ 原田なぎさ @nagisa-harada

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