偽装された別れ

仲瀬 充

偽装された別れ

人の記憶はどれくらいさかのぼれるのだろうか。

史朗が友人たちと話していた時、そんな話題になったことがある。


友人たちの最も古い記憶は、風景であったり家族の顔であったりと殆ど視覚に関するものだったが、史朗の場合は聴覚だった。

母親とおぼしき人の膝の上で聞いた風鈴の涼やかな音、それが史郎の最も古い記憶だった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


大野荘は古びたアパートで外壁には細かいヒビが縦横に走り、両端の壁面は中ほどまでツタに覆われている。

高校3年の史朗と両親はその2階の一室に住んでいる。


史朗の父親はかつて山口県で工務店を経営しており、従業員も30人近くいた。

それが、友人の建設会社の連帯保証人になっていたばかりに連鎖倒産の憂き目に遭った。

無一文になった父親がつてを頼って福岡市内の鉄工所で働くことになり、昨年の8月末に一家3人越して来たのだった。


家族の日課はほぼ決まっている。

史朗が学校から帰るのと前後して近所のスーパーにパートで出ている母親も帰宅する。


夕食の準備が終わる頃に父親が帰宅して食卓につくと、母親が小さなグラスを父親と自分の前に置く。

そして梅酒を注いで「お疲れさま」「お疲れさん」と夫婦でグラスを合わせる。

1日を締めくくるこの乾杯は工務店の経営が軌道に乗った頃に始めた儀式だった。


ただ、グラスに注ぐ梅酒が変わった。

夫婦のお気に入りの銘柄は720ml瓶で4千円のものだった。

今は1リットルで千円もしない紙パックの梅酒を母親は買い物のついでに手に取る。


「梅酒くらい好きなものを飲めば?」

史朗が勧めても「分相応にしなきゃね」と母親は寂しげに微笑む。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


優子は田所史朗が気になって仕方がない。


去年の2学期、山口県から転校してきた史朗の席は優子の隣になった。

「鈴木さん、視聴覚教室ってどこ?」


史朗はいろんなことを優子に話しかけてきた。

転校してきたばかりで隣に座っているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、問題は史朗の態度だった。


優子は学校一の美人で成績も常にトップで父親は鈴木病院の院長をしている。

いわば学校のマドンナとも言うべき存在である。


「視聴覚教室はこの教室の真上の3階よ」

「あ、そう。ありがとう」

こんなふうに気楽に自分と会話できる男子を優子は見たことがなかった。


史朗は容姿はイケメンの部類に入るが、成績は中くらいだ。

私が学校中の羨望の的であることが分かれば見る目も変わるだろう、優子はそう信じて疑わなかった。


ところが、半年が過ぎて3年に進級しても史朗の接し方に変化はなかった。

3年生になっても同じクラスで、何の偶然か座席まで再び隣どうしになった。


史朗の鈍感さにれているうち、優子の心情に変化が生じた。

誰にも分け隔てなく接する史朗を前にすると、気取らずに素の自分でいられて心地よいのだった。


そのことに気づいて優子はうろたえた。

「これは恋なのかも知れない」とまでは思わないが、史朗のことが気になって仕方がない。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


12月も押し迫って冬休みに入ったが3年生は進学補習がある。

優子も史朗も地元の難関校の九州大学を受験することにしている。


優子は最難関の医学部志望にもかかわらず模試の合否予測では常にA判定が出る。

史朗はランクが落ちる経済学部だがそれでもC判定しか出ない。


帰りのSHR後に担任から呼び出しを受けた史朗が教室に戻ってきた。

「先生、何の用事だったの?」

「志望校を落とせってさ。まだ帰らないの?」


教室には優子と史朗以外もう誰もいない。

「数学の質問に行こうかと思って」


優子は数学の宿題を解いていたが数学ⅢCとなるとさすがの優子にも手ごわい問題がある。

優子が広げている問題集を立ったまま覗いていた史朗が言った。

「解いてあげようか?」


優子は冗談だと思った。

学年トップの自分の手に負えない問題が史朗に解けるわけがない。


優子の返事も待たずに史朗は自分の席に腰を下ろすと優子のノートを取ってすらすらと解き上げた。

優子は信じられずにまぐれだと思って解けなかった他の問題を指さした。


すると史朗はまた簡単に解いていく。

優子はぽかんと口を開けたまま史朗の顔を見た。


「どういうことなの?」

史朗はさりげなく語り始めたがそれは驚くべき内容だった。


転校する前に通っていた中学校や高校が荒れていたのでいじめを受けないように目立たない成績に押さえていたという。

「この学校は進学校で落ち着いているからそんな工作はしなくていいのかも知れないけどね」


「じゃ定期テストや模試で本気を出せば?」

「たいてい満点を取れると思う」


こともなげに言い放つ史朗を見て優子はまたあっけにとられた。

「でも他のみんなや先生には秘密にしておいてくれないかな」

真正面から見つめられた優子はドキッとして「これは恋なのかも知れない」と思った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


その後優子と史朗は二人とも志望どおりに合格し、2年目の夏休みを迎えようとしていた。


大学生になっても優子は男子学生の注目の的だった。

優子の兄で医学部4年の武史の友人たちも頻繁に接触してくるが優子は史朗以外眼中にない。


史朗のアルバイトが休みの日、優子はデートに誘った。

「史朗くん、今日はどこに行く?」

最近、優子は呼び方を「田所くん」から「史朗くん」に変え、史朗にも同じように名前で呼ぶよう強制した。


「優ちゃんの行きたいところでいいよ」

「史朗くんもたまには行くとこ考えてよ」


優子はつないでいた手をはなしてすねてみせた。

すると史朗が優子の肩に手を置いた。


けれどもその手の置き方は不器用を通り越して鷲づかみという感じだった。

優子が史朗を見ると顔が青ざめていた。


「どうしたの?」

「びっくりした……」


今しがた、若者の運転する車が目の前の交差点をこれみよがしに急ブレーキの音を立てて曲がって行ったが驚くほどのことではない。

「史朗くんって怖がりなのね。あの程度でも怖いの?」

「うん。信号待ちする時は車道からなるべく離れるようにしてる」


「ほかに怖いものはある?」

「お化け……」


優子は噴き出した。

「おっかしい。史朗くん、何でも理屈で片づけるくせに」

「理屈で片づかないから怖いんだよ。消極的事実の証明、いわゆる『悪魔の証明』だ。お化けがいないことは証明されてない」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


盛り上がらないデートを早めに切り上げて優子は史朗を自宅へ誘った。

日曜日なので鈴木家は全員そろっていた。


優子の兄の武史が史朗に話しかけた。

「今さら言うのも何だけど、田所くんはセンター試験もほぼ満点だったっていうし優子と一緒に医学部を受ければよかったのに何で経済学部なんだい?」


「そう言う武史さんはどうして医学部なんですか?」

「そりゃ、うちの病院を継がなければならないからさ」


「他には?」

「改めて言われると困るなあ。正直、社会的ステータスとか収入の面でも医者は魅力的だからね」


「武史さんに限らず人間はそれぞれの欲望で動いていると思うんです」

「何が言いたいの?」


話に入ってきた優子に史朗は顔を向けた。

「欲望の体系とも言える経済の法則を当てはめて人間の歴史を捉え直してみようと思うんだ。もし明日死ぬ運命なら誰だって一番知りたいのは、人間とは何かってことなんじゃないのかな」


「たいそうなこと言ってるけど史朗くん、お化けが怖いのよね?」

優子が話を混ぜ返したので場が和んだが優子の父親は笑顔を見せなかった。


「田所くん、君の名前は『シロウ』というのか?」

優子が代わって説明した。

「ちょっとだけ珍しいのよ。『し』は『歴史』の『史』なんだけど、『ろう』が普通のじゃなくて『明朗めいろう』『ほがらか』の『朗』なの」


優子の説明を聞いて父親は史朗に言った。

「その名前は君のお父さんとお母さんの名前から字をもらったのかね?」

「いいえ。両親の名前に僕の名前の字は含まれていません」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


前回の訪問から暫く経った頃、優子から連絡があって史朗は夕方に優子と待ち合わせた。

「パパがディナーを奢ってくれるって」


史朗が優子に連れて行かれた先は高級レストランで、しかも個室が予約してあった。

優子の父親は先に到着して注文も済ませていたようですぐに料理が運ばれてきた。


イタリアンのコース料理だった。

「こんな美味しい料理、初めてです」


食べ終えて史朗が礼を言うと優子の父親はナプキンで口を拭いながら言った。

「最後の晩餐を喜んでもらえて何よりだ」


「パパ、最後の晩餐って?」

優子の父親は優子ではなく史朗に言った。


「田所くん、優子との付き合いは今後遠慮してもらいたい」

父親の思いがけない言葉に優子は目を見開いたが、史朗は表情を変えずに続く言葉を待った。


「二十歳を過ぎたばかりとは言え、君たちはもう大人だ。今後も交際を続けるなら友達関係というわけには行かず結婚を視野に入れなければならない」

優子はもとよりそのつもりなので父親の真意が分からない。


「そこで田所くん、リサーチ業者に君の身辺調査を依頼したんだが、君の父上の年収は350万円そこそことのことだ。それに倒産時の負債もまだ残っているようで失礼ながら我が家とは釣り合わない。武史と同様、将来は優子にも鈴木病院を支えてもらわねばならんので結婚相手にはしかるべき医者を探すつもりだ」

優子が大きな声をあげた。

「嫌よ、そんなのってないわ! どうしてそんな勝手なことを言うの!」


「優子、お前の将来を思ってのことだ」

「何が私の将来よ! 全部パパの都合じゃない!」

優子と父親のやりとりを聞きながら史朗は全く別のことを考えていた。


「ご馳走さまでした。今日はこれで失礼します」

史朗はそう告げて一人先にレストランを出た。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


大学が夏休みに入ったばかりのある日、史朗は以前住んでいた山口県に出かけた。

その日のうちに戻ってくると、史朗は鈴木病院に電話をかけて優子の父親に二人きりで会いたい旨を伝えた。


翌日の午後、史朗は鈴木病院を訪れた。

院長室に通されて優子の父親と向かい合ってソファーに座ると史朗は1枚の書類をテーブルに置いた。


「そこに書いてある『園田朗子あきこ』という名前に心当たりはありませんか?」

史朗にとっては一種の賭けで、もうそれ以上提示できる情報は持ち合わせていない。


優子の父親は老眼鏡をかけて書類を見たがすぐに顔を上げて眼鏡を外した。

「君のほうから先にカードをオープンしてくれないか?」


「分かりました。僕はあなたの言葉にこれまで二度不自然さを感じたんです」

「ほう。と言うと?」


「一度はこの前レストランでご馳走になった時です。あなたは取って付けたような理由を述べましたが要は僕と優子さんを結婚させたくないというだけのことでしょう?」

優子の父親は頷いた。


「もう一度はその前にお宅にお邪魔した時です。あなたは僕の名前にひどく関心を示しました。そして普通なら『父親か母親の字をもらったのか』と言いそうなのに『父親と母親の字をもらったのか』と尋ねました。以上のことを突き合わせて出てくるのは僕の出生に関する問題です。それで昨日僕の本籍地の市役所に行ってその戸籍謄本とうほんを取ってきたんです」

史朗はテーブル上の書類に視線を移した。


「僕が養子だったことを僕も謄本を見て初めて知ったんですが、書かれてあった実母の名前で謎が解けました。あなたの名前が『史夫』で僕の実母は『朗子』。僕のカードはここまでです」

「うーん、やっぱり君は頭がいい。変な小細工はせずに最初からありのままを話したほうがよかったな。園田朗子は以前この病院で看護師をしていて、恥ずかしい話だが私は彼女と関係を持っていた」


優子の父親は立ち上がってデスクの引き出しから一通の封書を取り出してきた。

「彼女はある日突然私の前から姿を消した。半年以上過ぎてこの手紙が届いた。読んでみたまえ」


「ご心配いただいているかも知れないと思いご報告だけ致します。実は先生の子供を身ごもりました。先生にお知らせしようかと思いましたが、ご迷惑でしょうし堕胎を迫られるかもしれないと考えて病院を辞めました。先月、無事に出産を終えました。かわいい男の子で先生と同じように左耳にホクロがあります。先生と私の名前から一字ずつ取って『史朗』と名付けました。名前に字は頂きましたが認知を求める気はありません。養育費等も結構ですので私たち母子のことはこれっきりお忘れください。いろいろとお世話になりました。取り急ぎお知らせまで」


「彼女は実家に戻ってはいなかった。手紙の封筒にも差出人の住所は書かれておらず月日が経つうちに忘れてしまっていた。ところがこの間、君の名前を聞いてこの手紙のことを思い出してリサーチ業者に調査を依頼したんだ。君の耳にホクロもあったしね」

優子の父親は史朗の左耳をちらりと見て話を続けた。


「調査報告によると朗子は山口県の個人病院で看護師をしながら君を育てていたが、君の手を引いて街を歩いていた時歩道に突っ込んできた暴走車にはねられたとのことだ。車道側の朗子は即死だったようだ。君はその時3歳くらいの計算になるが覚えてないか?」

史朗は自分が乱暴な運転を怖がる理由を理解できたが事故自体は思い出せない。


「いえ、覚えていません」

「それはかえってよかったかもしれんな。で、朗子がなくなった後、身寄りのない君は児童養護施設に入れられるはずだったんだが朗子が住んでいたアパートの隣が田所工務店だった」


「ああ、それで」

今の両親と自分とのつながりが史朗にも見えてきた。


「そうだ。田所社長夫妻が君を引き取ったというわけだ。隣どうしだから朗子とも挨拶する程度のつきあいはあったようだ。子供がいなかった田所社長は君を跡継ぎにするつもりだったんだろう」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「話は以上なんだが肝心の問題が残っている」

「優子さんのことですね」


「よっぽど君のことが好きなんだろう。あれから私とは口も利かない。君と血がつながっていることを話せば諦めもつくんだろうが私としては優子に実情を話すのは忍びない」

「僕に任せてください。と言っても恋愛は僕の不得意な分野なんで本屋で立ち読みして仕入れた作戦なんですが。とりあえず優子さんをここに呼んで下さい。彼女が着くまでに打ち合わせを済ませましょう」


「あら史朗くんも呼びつけられたの? パパ、いったいどういうことなの?」

院長室に入ってきた優子は不機嫌な顔を父親に向けた。


「優ちゃん、今日は僕が勝手に押しかけて君との交際を許してもらえるように頼んでたんだ。お父さん、この前の話、何とか考え直してもらえませんか?」

優子の表情は一瞬で華やいだが反対に優子の父親は不快そうな顔で言った。


「前も言ったとおりだ。貧乏人の君と優子を一緒にさせるわけにはいかん。君がしつこく優子と付き合いたがるのはひょっとしたらうちの財産目当てじゃないのかね?」

「パパ、失礼なこと言わないで!」


前かがみになっていた史朗は上体を起こし、背中をソファーの背もたれにもたせかけた。

「そこまでおっしゃるならもういいですよ。売り言葉に買い言葉でこっちも言わせてもらいますけどね、お父さん。あなたみたいに家柄や資産で人を値踏みするのはゲスな人間のやることですよ」


「史朗くんも言い過ぎよ」

「ふん、君の兄さんだって社会的地位とか収入とかで医者になろうっていう俗物だよ。君も同じだ」


「私? 私がどうだっていうの?」

優子の顔が紅潮し始めた。


「ちょっと美人で頭がいいからって浮かれている鼻持ちならない女だよ。まるで女王様きどりだ。君の傲慢さにはずっとうんざりしてたんだ。少しは内面を磨くってことを、」

「やめて!」

優子が甲高かんだかい声をあげて史朗の話をさえぎった。


「ひどいわ! 史朗くんがそんな人だなんて思わなかった。あなたとの付き合いはこっちから願い下げよ!」

荒々しくドアを閉めて優子が出て行った。


残った二人は申し合わせたように大きく息をついた。

「あえて嫌われるように仕向ける作戦ということだったが辛かったろう。ひどい悪役を演じさせてしまった」

「いいんです。これでもう僕への未練はかけらも残らないでしょうから」


「もう一つ問題が残っている。ずっと放っておいた償いに君を育ててくれたご両親にお礼をしなくちゃいけない。まだ借金を抱えていらっしゃるようだね」


「それは結構です。何とかやっていけると思います。僕も働き出したら助けますし」

「そう言わずに私の気持ちもくんでくれないか。さっきの芝居の中で君は私を2回『お父さん』と呼んでくれた。罵られながらも私は嬉しくて……」


声を詰まらせた優子の父親を見て史朗は言った。

「分かりました。それではお金をいただきます」


優子の父親はデスクから小切手帳を持ってきてペンを手にした。

「いくらでもいいから言ってくれ」


「2千円ください」

優子の父親は小切手に「2」と記入したところで顔を上げた。


「2千万じゃないのかね?」

「うちの両親は晩酌に梅酒を飲むんですが好きな梅酒は4千円するんです。2千円いただいて僕もバイト代から2千円出すと買えます。あなたの名前は出しませんが、育ててくれたお礼としてその梅酒を僕たち二人から贈ることにしましょう。今日はたまたま僕の養子縁組の日でもあるんです」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


鈴木病院を出た後、史朗は酒店に寄ってアパートに帰った。

畳敷きの居間に座りテーブルに梅酒を出した。


「はい、これ」

「おっ、こりゃ懐かしい。どうしたんだ?」


父親は嬉しそうに手に取って瓶のラベルと史朗を交互に見た。

「僕もやっと二十歳になったからね。誕生日のプレゼントだよ」


「誕生日のプレゼントは自分が貰うもんだろう?」

「普通はそうだけど、誕生日ってのは自分をこの世に送り出して育ててくれた親に感謝すべき日だって話を聞いてなるほどと思って」


母親も座って話に加わった。

「それはありがたいけど、でもあんたの二十歳の誕生日は先週だったじゃない」


「今日は僕が父さんと母さんの子供になった第二の誕生日だよね」

史朗は戸籍謄本をテーブルに置いた。


父親と母親は目の前に差し出された書類に同時に顔を寄せた。

そして先に顔を上げた父親が言った。

「お前が二十歳になったら言おうとは思っていたんだ」


「もういいよ。当時の関係者からいきさつも聞いてきたし」

「そうか。もっといい養子先があったかも知れないのにな。倒産してお前にも苦労をかけ、かえって気の毒だった」


「何言ってるのさ。孤児になった僕を引き取ってくれて僕には感謝しかないよ。さあ一緒に飲もうよ。僕も二十歳になったし」

父親は梅酒の瓶を前に膝を正した。

「ありがたくいただこう。今日は田所家の新しいスタートだ」


母親が小さなグラスを四つ持ってきてそれぞれの前に置いた。

残った一つはテーブルの中央に置いた。

「これは、園田朗子ちゃんの分」


「乾杯!」

3人でグラスを合わせた後、母親はテーブル中央のグラスに語りかけた。

「朗子ちゃん、あなたの産んだ子供はこんないい子に育ちましたよ」


史朗は母親に尋ねた。

「朗子っていうお母さんはどんな人だったの?」


「きれいな顔してたよ。うちの隣のアパートの2階に住んでて夏はよくあんたを抱っこして窓辺に座って涼んでたね。下を通りかかって、チリリンって風鈴の音がして見上げるとにっこり会釈してくれたりしてね」


史朗はテーブルのグラスに自分のグラスのふちを当てて乾杯した。

薄手のグラスどうしが澄んだ音を立てて響き合った。

その音色は史朗の耳に残る遠い昔の風鈴の音に似ていた。

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偽装された別れ 仲瀬 充 @imutake73

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