第4話「旅一行2 ②」
そう思ったオークスは彼女の目を手で覆った。
ただでさえ高いところが苦手なのにここまで登らせてしまった挙句にあのような怪物を見たら、おそらく気絶してしまうのではないだろうか。そう思ったためだった。
「どんどんこっちに来てるけど、この後はどうするんだ?」
怪物が到着しても安全なようにとりあえず大木に登ったが、その先のプランをロイスに聞いていなかった。切羽詰まっていてそれを説明する時間がなかったからだ。あれだけ巨大で不気味な怪物が迫ってきているのだから、優先するのは安全面なことに越したことはない。
オークスからその質問を受けた彼は少しあごに手を当て、難しそうな表情のまま答えた、
「あいつを……あの怪物をどうにか倒せないだろうか」
ロイスの思いがけない回答に、その場にいた全員の脳が一瞬フリーズした。
眼前から迫ってきているあの巨大ない怪物をここにいる4人で倒そうというのだ。ヒノビはともかく、他3人はまだ子供も子供、街からすら出たことがない温床育ちのガキンチョである。小競り合いはあったとしても、それはカウントに入らない。
果たしてドラゴンにそこらの紡機手を装備して挑む勇者が勝てるだろうか。こんな戦力でどうやってあの巨大な怪物を倒すことができるのだろうか。
「どうやって、倒すつもりなんだ?」
「オークス!? そこは倒せないだろバーカと言うべきところですわよ!!」
目を隠されていようとも、その焦りの度合いは言葉からでも感じ取れた。
怪物の事は見えていないエリスだが、二人の反応があまりにも恐ろしいものを見た時の反応だったことが気にかかり、荒々しい言葉を言い放つ。それがどれだけ無謀な挑戦をしようとしているのか改めて考えるきっかけになるように。
「無茶なのはわかっています。でも、このまま眺めていてもいつかここに到着して見つかるのがオチです。ヒノビさん、無茶なことかもしれませんが、お願いできますか?」
怯えた表情と震える体、無理やり平静を保とうとしている声でヒノビの方へ顔を向ける。
ロイスの痛いほど伝わるその不安感を払拭するには、怪物をどうにかしなければ解決できない。ならば答えは決まっている。
「もちろん。やれるだけのことはやろうか」
「ありがとうございます」
その返答を聞いて、微々たる変化かもしれないが、彼の表情に安堵の色があらわれた。本人はそれに気づいていない様子だが、今は気を引き締めるべき時だと自覚しているからかもしれない。
ヒノビの答えを隣で聞いていたオークス。彼もここが正念場、覚悟を決め表情を鋭くする。
「それじゃあ、ロイスの作戦を聞こうか」
「うん。まずは―――」
そこからはロイスの作戦を端的に聞いた。その作戦の中には運任せの部分が三つあり、そのすべてにおいて、どれか失敗すれば命取りになる危険なものだった。そして、ロイスの作戦は決して完璧なものではなかった。しかし、たった三つの運要素を絡めれば怪物を倒せるのなら、賭ける価値がある。
「ロイス君の作戦で行こうか」
ヒノビはロイスの提案を聞いて、おおよそその通りに動くことを了承した。彼女は今回の作戦のキーパーソンであり、失うと負け筋一直線になってしまう。それほど重要な役割を担っていた。
それとは別で、彼女にどれだけ支援ができるかという点も今回の作戦の成功率に大きくかかわっている。
ロイスの作戦説明が終わり、各々が自分の役割を理解できた。だが、エリスは相も変わらず不安感を塗りたくった表情をしていた。
他三人は彼女の気持ちも十二分に理解しているつもりだ。この作戦において一つでも失敗があれば何かを失う結果が待っている。その恐怖からくる底知れない悩ましさは決してぬぐいきれるものではない。また、作戦が成功したとしても無事という保証はどこにもない。
最近まで街の中で遊びながら暮らしていた子供には、非日常のような話だっただろう。
今からしようとしていることも、人から聞く体験談や本から得られる知識とは違い、自分の体で経験することなのだ。決して、すべてがハッピーエンドで終えることが決まったものとは違い、自らの行動がすべて二択の終わりに関係してくる。
その重要なポイントにいる緊張感と責任感は相当なものだった。
「心配しないでエリス。きっと大丈夫。俺たちならできるさ」
「わ、、、かりましたわ!! くよくよしててもどうにもならないですもの!! やりますわよ、全員で」
エリスはオークスの手を振り切って大きく立ち上がると、高らかに宣言した。強く唇を噛みながら、目をかっと開いて三人それぞれの顔を見る。しかし足は彼女の心証を強く表現しており、震えている。
彼女の長所は一度決めたことに全力で挑めること。雑念を吹っ切ることはそう易々とできることではないが、彼女はそれが異常なほどきっぱりとできるのだ。空元気ともいうが、この場でその元気が出せるのは彼女の強み。
「ふふ」
エリスの急変に思わず笑みがこぼれてしまうヒノビ。くよくよしていたのは一瞬だけだったが、道中の彼女の行動はわんぱくで、おそれしらずで好奇心旺盛なかわいい少女という印象だった。
「エリスは、きっと将来大物になりますね。それを見るためにも、今は全力で頑張りましょう」
一歩踏み出すことは誰にもできることではない。しかも、エリスの場合は、先の見えない霧の中を全力で走ろうとしている。自分の進む道に何があるのか全く考えずに。
不安を抱えて、一歩。恐怖を抱えて、一歩。期待を抱えて、一歩。挫折を経験して、一歩。そうやってゆっくり進んでいくことの方が多い人生の中で、一直線に走ろうとするのはやはり彼女らしい。
「でも、誰も、絶対絶対絶対ぜーったい死なないで!!」
「もちろんです」
ロイスが三人を代表して自信たっぷりの返事を返した。そして、各々が作戦決行のための位置に移動を開始する。
エリスとオークスはその場で待機、ロイスは大木の反対側の枝へ移動、ヒノビは一旦下へ降りてある物を取って戻ってくる。
テキパキと行動し、予定してた準備時間よりも大幅に短縮して位置についた。
森の中を破壊しながら走っていた怪物も疲れているのか、歩きながらこちらに向かっていた。
作戦決行の合図は、怪物次第。ヤツがその行動を示さなければ、作戦開始に至らない。また、羨望しているのは、何事もなくヤツが大木を避けて、過ぎていくこと。何も起きないことに越したことはなく、わざわざ死ぬ覚悟をしてまで戦う必要もないのだから。スルーされるのであれば追いはしないし、怪我無く災厄が去ってくれたと安堵することができるが……果たして。
ゆっくりと大木に近づいてくる怪物。近づくにつれ、その巨大な体躯と蛇のようなにらみを利かせる双眼にエリスは身震いする。初めて目の当たりにする怪物の姿に、今から戦おうとしている相手が、どれだけ自分たちとはかけ離れた存在なのかを認識させられる。
刻々と決行のタイミングが近づいてくる。それに伴って緊張感が累乗していく。額を流れる汗が止まらない。
オークスのとなりで少々荒い息をついているエリスも、彼同様に顔をこわばらせている。
「俺たちも、いつか魔法を使えるようになったら、こんな怪物でも倒せるようになるよな」
吸い込みにくい空気を何とか肺に押し込みながら、ひきつった声でエリスに魔法を習得した後の夢を語った。
「ヒノ先輩ができたんですもの、私達にだって可能ですわ」
オークスと同様に声をうわずらせながら、希望を宿した目と無理に上げた口角のセットで答えが返ってきた。きっと彼女なら本当にその夢をかなえてくれるのだろう。根拠はないが、心のどこかでそう思うとストンと、パズルのピースがはまるように納得できる。
「俺はエリスの、超スーパー最強な魔法を間近で見たい」
「そんなのよゆーですこと。すぐに見せてあげますわ」
「楽しみにしてる」
そう言ってエリスとオークスは二人して静かに笑った。先ほどの硬い笑顔ではなく、いつも教室で見ていた柔和で温かい笑顔。張り詰めた空気間の中でも、夢を語るとなぜか自然と笑みがこぼれるものなのだと、新しい発見をした。
「なーに楽しそうに会話してるの?」
一旦大木の下に行き、必要なものを取ってきたヒノビが身軽に舞って枝に戻ってくる。
「夢を語ってただけだよ」
「これを乗り越えたらきっとその夢にも一歩近づくんだろうね」
「そうですわね」
悠々と歩いてこちらに向かってきている怪物を前にしながら、少々気の緩んだ会話をして過度な緊張感を少し解く。
戻ってきたヒノビは手に、缶とナイフを持っていた。「はい、エリスはこれね。オークスはこのナイフ」そう言ってそれぞれに渡された。
包丁以外で初めて握った刃物は、思っていたよりずっしりとしており、刃先にかけてより重さを感じる造りとなっている。また、刃の中腹は少し膨らんで、持ち手に近づくにつれ細くなっている。
「これを使って、まずは一つ目の作戦を成功させなきゃな」
小さく口に出した言葉は、その場にいた二人には聞こえていない。彼の、決意と不安を混ぜた言葉は。
しばらく、その状態は続いた。そして、
「ついにここまで来たね」
眼下に黒い体毛で鱗を覆っている、奇妙で巨大な怪物がたたずんでいた。今までとは違う木の大きさに戸惑っているのか、その場からピクリとも動こうとしない。そう思ったのも束の間、大木の幹に前足をかけると体を大きく上に反らせながらこちらに顔を近づけてくる。
ロイスが指定していた合図だった。
「今だ!!」
ロイスの掛け声とともに、作戦決行の、戦闘の火ぶたが切って落とされる。
怪物がこの大木に到着して、4人の中の誰かを獲物としてとらえているのであれば、必ず上を見上げるはずだと。その読みは完ぺきに当たっていた。
トカゲや蛇はそれほど視野が広いわけではない。その特性を生かせば、自身の上にいる対象を目視で確認するには上体を反らせて見つけるしかないと予想したのだ。
ヤツがその行動を行ったと同時に、大木の枝から二人の影が怪物の頭めがけて一直線に落下する。
二人の手に握られていたのは、ヒノビから渡された特徴的な形のナイフ。そのナイフを両手で強く握り、切っ先をヤツの顔についている急所めがけて確実に仕留められるよう構えている。
初速と角度がものをいう初撃。これを成功させなければ次の作戦へ移ることができない。というより、成功しなければ後がなかった。
枝を蹴り、自由落下よりも早く怪物の顔に到着した。次に―――
「おぉぉりゃ!!」
落下の勢いそのままに、怪物の目に二人が同時にナイフを突き刺す。勢いがついた初撃は、深々と怪物の瞳を傷つけ、鮮血がナイフと眼の間からにじみ出る。だが、落下している勢いはその一撃でとどまるところを知らない。
突き刺したナイフはそのままに、重力が味方に付き、少年たちの体重すべてがナイフの鋭利な刃に伝わる。それが齢10にも満たない子供でも、重さは20キロを超える。
重さと重力を味方にした二撃目は、さらに怪物の眼を縦に切り裂く。鮮血がとめどなく溢れ、怪物の眼を赤く染める。
「グゴァァァァ!!!」
視覚外からの一撃により両目をやられ、その痛みから敵からの攻撃だと認識した怪物は、大きく咆哮する。
「頼みます!! ヒノビさん!!」
初撃を無事済ませられたという達成感を感じる間もなく、次の作戦が開始される。
眼を攻撃し終わった二人は、ふわりと落下し、大木の根元にある大きなリュックに着地する。
勢いを殺したうえで落下してはいるが、怪物の頭は地面からかなりの高さにある。先刻まで味方に付いていた重力も今では忌々しいものへと変貌し、着地と同時に強い衝撃を全身に与えた。
「うっ」「がっ」と衝撃と同時に一瞬息のやり方を忘れる。
二人が大きなリュックに背中を打ち付けているのと同時に、ヒノビの炎魔法が怪物の口に炸裂する。
第二の作戦として、初撃を入れた後の怪物は痛みと敵がいるという認識によって、威嚇のための咆哮をすると考え、その開けた口にヒノビの高威力?の炎魔法をぶち込む。
視覚を奪ったところで、口がある限り危険は免れにくい。あの巨体が口を開けて襲い掛かれば、避けるすべを持たないロイスらは無抵抗に食われてしまう。ならば、口の破壊さえすれば、その心配はなくなるのではないかと考えたのだ。
怪物の上方、エリスとヒノビはその作戦通りに、ヤツが咆哮して口を開けたことを確認してから「えいっ!」と、エリスが持っていた缶を放り投げる。その後、「ハッ!!」と大きな一声と共に、ヒノビが道中で見せてくれたものと同じ魔法が突き出した腕の先から発射される。
勢いよく発射された赤色の尾を引く炎の弾。それが怪物の口内へ着弾する。
と同時に、ボンッという重く鈍い爆発音が響き渡り、怪物の口からは黒い煙が立ち上がり、焼け焦げた肉のい匂いが辺りに充満した。怪物の焼いた肉の香りは、獣臭さと独特なツンとする香りと鉛を肺に入れ込むような重苦しい空気を漂わせている。とてもじゃないが、食欲をそそるような匂いではなかった。
エリスが投げた物は、調理用の油が入った缶。それをヒノビの炎魔法と同時に使えば、相当なダメージを期待できると踏んでいた。いくら巨大な怪物でも、弱点を突かれればさすがにダメージを負うはずだと。
その後、オークスとロイスは着弾を確認したと同時に、背中を助けてくれた大きなリュックを抱え、怪物の腹の下を抜けて反対側の大木の根元へと移動する。次の作戦を実行するための準備へ。
「やったな、流石だよロイス」
抱えたリュックを根元に置きながら小さく声をかけたオークス。彼はその言葉の後に拳を突き出してグータッチを要求してきた。
「今のところは、ですがね。奇跡だと思ってますよ」
要求されたグータッチに応え、褒められたことがうれしかったのか、頬を緩め、口角が少し上がった。
二人はお互いに小さく笑い合い、次の準備をするためにオークスが街から背負って来ていたリュックを開ける。
その中から、本を何冊かとすっかり使いどころをなくしてしまったマッチを取り出す。ヒノビがこの旅路に参加してくれたことによって、火の心配事が解決してしまった。炎の魔法を扱える彼女にかかれば火を起こすことは造作もない。
せっせと取り出した本のページを破り、くしゃくしゃに丸めて大きな一つの塊のをいくつも作り始める。
彼らが作成していたのは、自分たちのデコイだった。
熱に敏感な爬虫類系は、それを頼りに獲物を探しているという情報をもとに、これらに火をつければ、幾分か時間を稼げるのではないかと考えたのだ。だがあくまで、あの怪物が爬虫類系と同じ形質を持っていた場合に限った有効打であり、必ず役立つとは限らない。
「ロイス、怪物の様子はどうだ?」
怪物は先の攻撃がかなり効いたのか、ピクリとも動いていない。口から立ち上る黒い煙と、爆発と同時に飛び散った油に移った炎がしつこく顔の周辺で燃えている。
これで仕留められれば、胴上げものの功績だ。
「まったく動く様子がないですね、時間稼ぎも成功しているようです」
「よっしゃ、デコイを作れる時間があってよかった」
等身大とまではいかないが、出来るだけ大きな雪だるまのような形を目指す。破って、丸めて、破って、丸めての繰り返し。崩れそうな部分は包帯でグルグルと巻きつけて補強する。
そうして順調に紙製デコイを作っていると、怪物側の方で再度爆発が起きた。恐らくエリス達が二撃目の魔法を使ったのだろう。
油缶が一つしかない分一撃目ほどの威力は期待できないが、それでも一度致命的な攻撃を受けた場所への追撃なので効果はあるはずだ。ヤツが口を閉じていなければ。
追加攻撃を仕掛けた後、怪物は反らせていた状態を元の四足歩行に戻すと少し後ずさりをして、大木から距離をとった。
「怪物にとって、結構なダメージになったみたいだな」
「倒しきれなかったのは残念です。少なくとも、無策に突っ込んでくることがなくなってしまったのはこちらにとってデメリットですね」
「そっか、初めの俺たちは『餌』としか認識されてなかったからな。今じゃきっと『敵』って認識なんだろうな」
「そうですね」
「さっさとデコイ作ってエリス達と合流しよう」
餌と敵では認識だけが変わるわけではない。もちろんその行動も変化する。
今まで攻撃的に行動していないところを鑑みるに『餌』。しかし、次からは確実にこちらを仕留める行動をとってくるだろう。
エリス達からしても怪物側からしても、相手の行動パターンを予測できない。それがメリットでもありデメリットでもある。
だが、怪物の方が体格差や防御、攻撃、素早さ、体力等ほぼすべてにおいてヤツに傾いている。こちらが勝てている部分は人数差や道具類があることぐらいだろう。
劣勢も劣勢、強者による弱者をいたぶる光景が目に浮かぶ様だった。
オークスたちは怪物の後ずさった行動を見て、ほんの少し、一瞬という短い時間だったが、油断をしてしまった。攻撃が通ったのだから、作戦は順調。倒せるかもしれないと気を緩めてしまった。
その一瞬に漬け込むような時間、刹那に怪物は動いた。
突如として二人の頭上を影が通った。そして、ドッという鈍い音と共に瞬間的な突風が彼らを襲う。
「「うわぁぁ!!」」
踏ん張りがきかないほどの風に見舞われ、転げるようにして後ろに数m飛ばされた。下が芝生のような若草であったことが功を奏し、擦り傷程度で済んだが、吹き飛ばされた後の体への衝撃は中々に応えている。
一体何が起こったのかと顔を上げ、状況を確認するオークス。そして、まず気づいたのが、
「樹が、傾いている?」
デコイを制作していた大木の存在が斜めに傾きつつあったのだ。それのエリスとヒノビが乗っていた枝の方向に。
混乱している頭で理解できたまず一つ目出来事がそれだった。
「ちがう、倒れてる!!」
大きさのあまり傾いているだけだと思っていたが、徐々にその傾きが大きくなっていった。結果、大木は大きな音を立てて地面と接触する。
4人で手を広げて繋いで囲っても半周することができないほどの太さの木が、倒れたのだ。
それができるのはヤツだ。怪物だ。あいつが何かやったに違いない。
倒れた大木の根元に目を向けると、そこにはゆらゆらと揺れている尻尾があった。あの怪物が尻尾をしならせた一撃で大木の幹をへし折ったのだ。
「嘘だろ……」
食われる可能性を考慮して口を攻撃していたが、それ以上に恐ろしい武器を隠し持っていた。否、それはこちらに迫ってくるときに見えていたが、武器として機能することを脳が勝手に除外していただけなのかもしれない。もしくは、あまり脅威になりえないと勝手に想像していたのかもしれない。
どちらにせよ、あの凶悪な尻尾の攻撃をくらえばひとたまりもない。そうならないために、ロイスと逃げようと―――
「ロイス? どこだよ!」
先ほどまで一緒にいたロイスの姿が近くにない。あたりを見回してみても彼の姿は見当たらなかった。
オークスはなるたけ大きな声で呼びかけた。
そこで、もう一つ大きなことに気づく。
「音が、聞こえない?」
彼の世界から音が消えていたのだ。
あんなに煩わしくうるさかった虫の音、風に揺られた葉のこすれる音、鳥の声に隠れて聞こえていた美しい鳥の鳴き声、全てが無音と化している。自身の手を叩いてみても、平が痛くなる程度で音は聞こえない。
「ロイス! ロイス!!」
不安と恐怖が膨れ上がり、正常な判断ができなくなったオークスは大きな声で呼びかけた。パニックになった状態で、それが実際にどれほどの大きさなのかはわからないし、周囲の音がどうなっているのかも想像することさえやめていた。そして、仮にロイスから声が返ってきていたとしてもそれに気づくことはできない。
どこかでそれを理解してはいるものの、混乱している彼は呼びかけることをやめなかった。
しばらく呼び続けながら辺りを見渡していると、ロイスのトレードマークである分厚い眼鏡が落ちていた。その分厚さゆえか傷がついている様子もなく、その存在感を露わにしている。
「眼鏡が落ちてるってことは、近くに……」
眼鏡だけ落ちており、辺りを見回すもロイスの姿が見つからないことで不安が重なり、表情がより一層重くなる。
吹き飛ばされたとはいえ、数mだ。オークスがその程度で済んでいるのだから、ロイスも同様である可能性は高いはずだった。それなのに見つかったのは彼の眼鏡だけ。
大木の周辺は小高い丘になっており、その大木以外の木は周りに生えていない。そのため、とても見晴らしがよく、開けた場所になっている。
それにも関わらず、子供一人の姿が見つからない。
「ロイス……一体どこ行ったんだよ」
ロイスの居場所に一切の見当がつかずに途方に暮れていると、体を大きく揺らされる。誰かによって揺さぶられるのではなく、地面が動いたことによってバランスを崩して、揺れたのだ。それだけの揺れを起こせるのは、ひとつしか思いつかない。
「怪物……かよ……」
ゆっくりと背後を振り向くと不気味な巨体がオークスを見下ろしていた。ヤツは目が見えていない、しかし、何らかの器官を使ってオークスの位置を特定して仕留めに来たのだ。
鱗と体毛がともにある奇妙な体を大きく揺らし、それに合わせて凶悪な尻尾も同様に揺れていた。
「怖いなんて、作戦前に捨てたはずなのになぁ」
その揺れる尻尾から繰り出される一撃を目の当たりにしたわけではないが、その余波を体験した体が危険信号を発し始める。
震え、発汗、動機、呼吸の乱れ、恐怖による緊張感が波のように押し寄せる。
今で経験したことのない圧倒的で、押しつぶされそうな重みを孕んだ恐怖心。先生に怒られるときに感じるものとは全くの別物だった。
いくつかロイスから聞かされた物語をふと思い出した。それは、ある王国のオスカーンという王様とその娘であるカーミルとの争いの話。
その話は珍しく魔法を取り扱った本として、一時商人が大量に仕入れたり、街中の人がその話でもちきりだったりとかなり評判があったお話だ。少なからず100年ほど前に制作されたとされた原本を複製し、欠けていた文や挿絵を新たに付け足したオリジナルが混じった物語。当時は魔法というものが存在せず、神が備える人類の上に立つ存在を誇示するための力。もしくはそれ相応の資格を持った人間に与えられた、神々が認めし者への贈り物と称されるほど崇拝されていた。現在は、魔法を取り扱う組織ができたとされているため、魔法は超自然的な力であることは共通認識の元、日の目を浴びる機会も増えている。
なぜ今その話が頭の中を渦のように同じ描写をグルグルと繰り返し見せているのだろうか。かつてない体験をしているため、思考が一点でしか働かなくなっているのだろうか。この状況を打破できる何かヒントでもあるのだろうか。
1秒にも満たない時間で0~100を数えるほどの推考を行い、結果として現実を結びつくような行動や作戦は思いつかなかった。
だってそうだろ。諦めたくなるほどの力の差、体格差、フィジカルの違いに打ちひしがれ、オークスにできそうなことと言えばその場で死を受け入れることだろうか。子供に果物ナイフを持たせ、この山を切れと言われたとして、誰ができるというのだ。行動する前に諦めるなとよく言われたが、無理なことと無茶なことは違う。
いかに勇敢で屈強でどんなモンスターにでも果敢に攻める精神力を持っていたとして、太陽を切れとお願いされてもそれは無茶なこと。無理やりにでもできることではない。
それほどまでに怪物と自分との間に次元の違う壁を感じる。何を、どんなに、どうしたって、覆すことが敵わない、敵うわけがないと運命を決定づけられたように、だんだんと体の力が抜けていく。
空気の入った風船の口を徐々に開けて空気が徐々に抜けていくように、オークスの足先からだんだんと血の気が引いて、緊張していた筋肉もほどけていく感覚。それが足先から膝下、下半身、下腹部へとゆっくりと進行する。乱れた呼吸や震えは消えていた。
これが死を悟り、死を受け入れた者が陥る結果なのだろうか。
「ちくしょう……まだ死にたくねぇよ……」
口から洩れるように零した。にらみの利いた双眸からは大粒の涙があふれている。動かすことのできない下半身で後ずさろうと足掻くも地面を足が滑るだけ。力が入らないのだから地面を蹴ることができない。
オークスの行動を嘲笑うかの如く、怪物は顔を近づけてふうっと鼻息をかける。生ぬるい風と香ばしく肉の焼けた匂いが鼻を突く。
口は完全に閉じれておらず半開きのまま、だらだらとよだれが滝のように垂れている。今にも食われてしまいそうなほどの距離に顔が近づくと、また顔を届かないほどの高さまで戻し、体を揺らし始める。
揺らす行為に何の意味があるのかわからないまま、ぼうとする頭でその揺れを見続けていた。
その揺れの意味が分かったのは、3度ほど左右に揺れ切ってからの事。尻尾に反動をつけ、威力を増していることに。
高威力の尻尾の斬撃が飛んでくると理解した瞬間、大きく揺らされたからだから鞭のようにしなる尻尾が迫ってくる様子がゆっくりと視えた。人は追いつめられると周りがスローモーションで進むと聞いたことがあったが、実際に視るといいものではない。「お前は死ぬんだ」ということを突き付けるような、無理やりにでも納得させてくるような、受け入れさせる時間を設けているような感覚だ。
それを味わって死ぬぐらいなら、わけもわからなまま死んだほうがマシだと思った。
頬を伝う涙が顔を離れて地面に落ちるわずかな時間で迫る振り切られた尻尾の攻撃。その質量から繰り出される物理的な攻撃は、音を置き去りにし、空気を切り裂き、降れたものを粉微塵にできる。わざわざそんな威力のものをこんなちっぽけな人間一人に向かって繰り出したのだから、容赦がない。言葉通りの目の敵になっている。
遅々として迫る尻尾の先端。自身の体に触れる瞬間、上空から突如として黒い影が尻尾のスピードを超えて現れ、動きを途絶させる。地面に突き刺さるようにして落下してきた影は、怪物の尾を地面にめり込ませた。
衝突の瞬間、地面に激突する瞬間、二度衝撃波がオークスを襲った。体を突き抜ける重い空気の振動に肺が圧迫され、呼吸ができない。だが、怪物の攻撃がオークスに届くことはなかった。一度受け入れた死を免れたことでゆっくりだった世界が通常の速度へと戻る。
大木のような太さと雷光のごとき速度の黒鱗尾をそれ以上の力でねじ伏せた者の正体はヒノビだった。彼女の手には二本の短剣が握られている。しかしその短剣は今まで見たことのあるものとは見た目が違っていた。
右手に握られているのは赤のゼブラ模様が入った短剣、左手には青のゼブラ模様が入ったものが握られている。相違する短剣は二本が交わる瞬間に紫色の模様へと変化し、禍々しく鈍く輝きを増し、刃の鋭さと剣呑を研ぎ澄ませていた。
ヒノビは落ち着きはらった表情とゆったりとした呼吸で、怪物と相対している。どこか嬉々とした目で見つめ返している怪物は、めり込んだ尻尾をゆっくりと定位置へと戻して攻撃の態勢をとる。眼は見えていない―――はずである。
何かの合図があったわけでもないが、両者同時に攻撃を開始した。
全体重、重力と空中を蹴ったことでの異常なほどの速度、短剣を入れる角度など、様々な要素を全力で怪物へと繰り出したが尻尾に傷ひとつついていない。むしろ好敵手として退屈な対戦にならない相手を見つけたことに喜びを感じているようだった。
怪物が尻尾をメインにヒノビの体を粉砕すべく前後上下左右、四方八方から鞭撃を繰り出す。速度は先ほどオークスを仕留めるために繰り出されたものとは大きく劣るものの、手数の多さと岩以上の硬さを誇る黒鱗と1トン近いであろう質量に圧倒される。
全てを完全に受けきることはできないため、攻撃をいなしつつ反撃の隙を狙う。しかし、連撃が早すぎるがために反撃をする隙がなかった。防戦一方で攻められ続けている。空中に飛べば蜂の巣にされ、地面に足をついていれば大地を利用して仕掛けてくる。加えて相手の状況を利用して、相手の弱みを的確に突いてくる。
ヒノビが右から剣を振り下ろせば振り下ろす途中で一撃。下からの振り上げ攻撃を仕掛ければ振り上げる直前に一撃。刺突攻撃を仕掛ければその後に一撃。全力を出せないタイミングで動きを止められる。まるで剣豪とでも戦っているのではないだろうか。剣の攻撃への対策が人間やヒノビのような種族と同じかそれ以上に卓越している。
防戦一方であれば、防御している方の体力が延々と削られる。攻撃に転じたとしてその効果は雀の涙ほどしか与えられない。
決定打がない。怪物の超人的な攻撃への対策と頑丈な鱗の防御を突破できるような一撃がこちらにはない。ただただ、ヒノビがじりじりとやられ続けるだけ。
オークスは藁にも縋る想いで辺りを見回す。相手を一撃で屠れる剣や丁度良く旅をしていた冒険者、数々の激戦を繰り返しそれを乗り越えてきた歴戦の猛者などそんな都合のいいものは辺りにあるはずもない。あるのは生い茂った木と尋常じゃないほど育った蔦だった。
「つた? 使えるかも!」
エリス達にとって道中の邪魔者だった。登ったり下りたり転びそうになったりと嫌な記憶しかないが、怪物の機動力を削ぐのにはもってこいの物だ。ヒノビほどの機動力があれば木々の間を飛ぶようにして移動することも可能なため、きっと役に立つと考えた。
「ヒノさん!」
大きな呼びかけに後ろを振り向けるほどの余裕がヒノビにはなかったが、聞こえていると信じてオークスはつづけた。
「蔦を使えば、怪物の尻尾の攻撃を止めれるかも!」
「良い案―――だね!!」
腹部めがけて弾丸のような速度で巨大な槍の如き一撃がヒノビを襲う。その攻撃を受け流すことは間に合わず、短剣二本を盾にして至近距離から発射直後の砲弾を受けたような強烈な一撃を喰らう。苦虫を嚙み潰したような顔で受けきった後、好天的なアイデアにヒノビの表情はやる気に満ち溢れた。大きく蛙のように跳ねながら後退し、無辺に続く日光の届かない茂った森の中に身を隠す。
彼女を追って怪物も森の中へと進む。すっかりオークスには興味を持っていないようで、足元で伸びている彼を跨いで行く。
体長の大きな怪物は森の中に完全に入ることはできず、頭や背中が樹頭より少しはみ出している。木よりも身長が小さなヒノビにとって、怪物がわざわざ森の中に頭を突っ込まなければ見つけられないという長所があった。また、眼が見えていない―――はずの怪物にとって、何をセンサーにしてヒノビの位置を特定しているのかがはっきりするはずだ。仮に熱ならば森の中に頭を入れなくても上から見れば丸わかりなのだが、もし背をかがめてヒノビを探すようなら、音という可能性がある。
人一人跨いでうっそうとしている木々をバキバキと音を立ててへし折りながら進んでいく。森に入った彼女を探しているような仕草はない。
遠のいていく巨大で不気味な怪物の背中を見届け、すっかり腰の抜けた体の背を完全に地面とくっつける。
「はぁーー怖かった……」
命の危機が去ったことで緊張が解け、だらしなく大の字になる。そして、満足にできていなかった呼吸を思い出して、深く息を吸い込む。
甘い。
お菓子やケーキを食べた時のような甘さではない。何とも形容しがたいが、確かに甘いのだ。舌と鼻を刺激し、いつの間にかカラカラになって乾いていた口内に泉のごとく涎があふれてくる。
満足に呼吸ができるようになると、力の入らなかった下半身の感覚が戻り始めた。柔らかな草の感触を確かめるように、足を草の上で転がす。固く握られている両手の拳もだんだんと開くようになる。ようやく、ようやく生きているという実感が訪れる。
と、ふいに目の前に影が落ちた。太陽との関係で逆光になりその顔はよく見えなかったが、上体を起き上がらせて確認すると、
「大丈夫ですの?」
「オークス?」
エリスとロイスだった。
二人が何を話しているのかは聞こえないが、困ったような表情をしていることからおそらく心配してくれているのだろうということは察することができる。
二人は一声かけた後、手を伸ばしてきた。オークスはその手を取って再び二本足で立ちあがる。立ち方を忘れたのか少しグラつきながらも、二人に支えられて何とか立つ。
ロイスは服や髪、顔が少し土で汚れている程度で大きな怪我はなさそうだ。眼鏡の掛けていない顔は新鮮だった。メガネで隠れていたわけでもないが、外せばきりっとした目尻と長いまつげが露出したことで印象は大きく違う。やはり、ロイスの本体は眼鏡だったのかと変なことを思いつつ、彼が無事だったことがひどくオークスを安心させた。
エリスはヒノビと行動を共にしていたが、あの大木が一撃で断ち切られた時には肝を冷やした。が、自身の事とロイスの事で手いっぱいだったこともあり、あれこれと考える余裕がなかったことが現実。今思えば申し訳なく思う。
「二人ともありがとう。あとロイスはこれがないとロイスって感じがしないな」
オークスはそう言って分厚い眼鏡を差し出した。傷ひとつついていないきれいなメガネだ。
「ありがとうございます。ずっと探したかったのですが、怪物がいて探せなくて……」
彼は深く頭を下げてお礼をした。伝わってくるのは彼の行動だけなのが少し切ない。
「ごめん。俺今耳が聞こえないんだ」
聴覚を失う前の感覚を元にして言葉を紡ぐ。そのイントネーションがどうなっているのか、抑揚がどうなっているのかは知ることができないが、意味が伝わればいい。二人はその事実を聞いて、どう反応してよいのかわからないようだった。心痛い顔と励ましてあげようとする行動が葛藤しており、どちらも中途半端になってオークスに伝わる。
友達になってからかなりの年数三人で一緒にいたこともあって、雰囲気や微妙な顔の変化、目の動きなどで大方予想刃付けられる。まだ8歳前後の年代には上手に嘘をつく技術は備わっていない。特にエリスに至っては正直者すぎて、口では出まかせを言ったところで表情があっていないことが多い。ロイスも同様で、勉強熱心なのはいいが、人とのかかわりを極端に減らしている節があり嘘をつく場面にすらあまり直面したことがない。故にどちらとも偽った言動を上手く扱えない。
だが今は、その正直さに助かっている。二人はオークスにどうやって接していいのか非常に迷っていることが伝わっているのだから。
「動作とか紙に文字を書いてくれたりすると伝わるから、それ以外はいつも通り接してよ」
彼がそう言うと、エリスはオークスをぎゅっと抱きしめた。それに続いてロイスも同じように抱きしめた。
「いつも通りとはかけ離れてる気がする……」
二人には聞こえているはずが、両者ともオークスの言葉を右から左へと聞き流した。
「それより、ヒノさんが心配だ」
体にべったりとくっついたまま離れようとしないエリスを押し剥がして、ヒノビを追って行った怪物の方に目をやる。かなり遠くにヤツの背中が見える。怪物が通ったところは木々が薙ぎ倒されているためとても開けている。
恐らくエリス達にこれ以上の危害が加えられないように相当な距離をとって戦っているはずだ。彼女にとっても決死の判断だったのだろう。今までターゲットにされたのが子供達だったことを考えるとその判断は間違っていない。
初め怪物がこちらに狂走してきていた時はヒノビがターゲットだったはずだが、大木に着いてから最初の致命的な攻撃を受けたのがオークスとロイスからだった。それが要因となって二人は狙われていたのかもしれない。生き物にとって大切な視覚を奪ったのが子供だったこともあって余計に怒り心頭だったはずだ。オークスが狙われたときの一撃を考えると適当なはずだ。
「待って」
エリスは歩き出そうとしたオークスの腕をつかんで静止させる。彼女は掴んだ腕を離す胸の前で交差させ、首を横に振りながらバツを作る。
「どうして? 二人ともヒノさんが心配だろ?」
聞き返すと彼女は続けてジェスチャーを行った。
ヒノビの方を指しながら、口元でくの字を作った手を開閉している。そして、歩く動作をしてバツを作った。
「ヒノさんが言ってたってことか、歩くな……歩く―――追いかけるなってことか」
正解の表現として頭の上で大きな丸を作る。
オークスは馬鹿ではない。ヒノビがエリスに待てと伝言を残した意味は彼にも見当はついていた。それをわざわざエリスに問うようなこともしない。自分たちがどれだけ無力なのかはわかっている。彼女がいなければ今こうして三人で集まることすらできていなかったはずだから。
エリスやロイスもそれは同様のようだ。眉を少し下げて、自分たちを責めるように曇った表情で下を見ている。
魔法が使えない、戦う力がない、作戦が失敗したと、三者三様の想いに打ちひしがれている。まだ街を初めて出て2日目だというのに、自分がどれだけ浮かれていたのか、恵まれていたのか、理想を語っていたのか、甘い考えだったのか、意地を張っていたのか、我儘だったのか、世界をなめていたのか、を突き付けられた。ヒノビに助けてもらえる、それが当たり前だと勝手に思い込んでいた。だがそれは違った。
自分たちに力がなければ、誰かがそれを補わなければならない。つまり無能力であれば自分と他人を巻き込んで、その報いを受けることにつながるということ。
力が無ければ行動を起こすな。指をくわえて待っておけ。そうじゃなければ他人に迷惑をかける。
それが嫌なら力をつけろ。誰に借りるでもなく、どんな状況でも打破できるようなすごい力を。
そんな現実と理想に胸中をかき乱されながら、切望し、焦がれる想いで三人はヒノビの帰りを待った。
☆★☆★☆★☆★
子供たちは無事だろうか。それだけが頭の中を埋め尽くしている。
暗い暗い木々の間、逆アーチ状になった蔦が枝や幹の間を網のように侵食し行き場を妨害している。避けつつ進むも、日の入らない森の中を怪物に追いつかれない速度で移動していると幾度も腕や足に絡まり危険極まりない。どんなに目を凝らして移動したとしても、大小さまざまな太さの蔦をすべて見切って避けることは不可能だった。仮に首にでも引っかかるものなら、おそらく―――考えないようにしよう。
炎狐族はもともと基本的な性能が人間の二倍以上とされている。それは、人間が来る前から大陸を支配していたこともあって長命且つ強大なことが要因の一つだが、その種族名をつけた人間が初めて見たある男が由来とされている。体躯に炎を纏い、走っていたからだ。
人はどれほど全力で走ろうが、体から炎が出てくることはない。しかし彼らは地を蹴って移動することでで炎を出現させていた。それだけ屈強な足とスタミナを持ち合わせていたのだ。狐の部分は単純に彼らの容姿を表している。人が大陸を侵攻するまでは、狐そのものが二足歩行をしている状態だった。人が進行し、大陸の至る所に点在するようになってからはかなり人に近い容姿に変化していった。尻尾がウサギほどの長さになったり、耳が人間のような楕円形に変化したり、金色の体毛は徐々に薄くなり肌が見えるようになったりと人と関わったことによる進化の兆候が見られた。
ヒノビはその種族の末裔、故に「原種」と呼ばれる炎狐族とはもはやかけ離れた別の種族の風貌になっている。人間と同じ耳の形をしている。尻尾はいまだにウサギほどの短さで無くなってはいない。
変わらず受け継がれているのは、体力や移動速度など外見以外の部分のほとんどはヒノビにも炎狐族の血が流れていることを物語っていた。しかし、怪物との一戦で息を上げられるほど体力を消耗させられた。これは人生の中で初めての出来事であった。それがどれだけ種族としての誇りを傷つけられたかは、本人ですら自覚はない様子。
現在怪物との距離を一定に保ちつつ、出来る限り子供たちから遠ざけることを優先として行動していた。目的がヒノビに向いている間であれば、彼彼女らに危害は加えられない。少なくとも怪物が彼らを襲うことはなくなった。はずだ。
いつ怪物が気分を変えるのかは怪物にしかわからない。ヒノビと同等かそれ以上の速度で走ることができるヤツがくるりと後ろを向くだけでも肝を冷やす。今のところこちらにしか興味がないようだ。
先生から子供たちの護衛を任されたのはヒノビの技量を買っての事。それだけ期待され、信頼されているのだから、彼彼女らが死んだという報告をすることになればどれだけの罰が待っているのだろうか。否、罰で済めば軽いものなのかもしれない。炎狐族の名を冠している私の体はさぞ高く売れることだろう。
そうならないためにも、できるだけ遠く―――
「えっ!?」
突如として上空から木々が降り注ぐ。
後ろを振り向くと歩みを止めた怪物が尻尾で木々を薙ぎ払っている。その薙ぎ払われた木が弧を描いてヒノビを貫かんと乱撃され、蔦を避けるだけで神経のほとんどを使っているというのに上からの重い攻撃が来たことで、脳の処理が追い付かない。
動いた先に蔦があれば四肢のいずれかが引っ掛かり、体をパチンコ玉のように弾き飛ばされる。飛ばされた先にも雨のように降り注ぐ木々が風穴を作ろうをする。
怪物はこれ以上ヒノビを追ってくることはないようで、払う木々がなくなれば左右へ移動し再度同じように攻撃を仕掛けてくる。上空から同量の物が降ってくればどんなに密集して生えているとはいえ、その勢いを殺すことはできない。
降り注ぐ槍の如き太い木々たち。その先端は切られたわけではないため、剣山のように鋭い。肌に掠れるだけでも容易に肉を裂かれるだろう。
ならばと思い、怪物との距離を保つのではなく縮め始める。
その移動間でヤツを行動を止めることができそうな蔦をいくつか手に取り、一番厄介な攻撃を繰り出す尻尾の動きを止めるための準備をする。この辺りにはうっとおしいほど伸びている。しかもその始まりと終わりをたどれば一生をここで過ごすことになりそうだ。
「蔦を使う考えは思いつかなかったね……オークス君お手柄!」
一気に距離を詰めると、切り株ならぬ折れ株だらけの見通しの良い場所に出る。右手には漆黒の鱗と共生するはずのない黒毛が生えており、気味の悪い顔をかしげている。今まで見たことも聞いたこともないようなその容貌魁偉で再び相対している。
対するはこの大陸の先住族。古来よりどんな難敵であれ勝利を手に収めてきた種族の末裔。持ち合わせているのは、今は亡き家系の形見と一族から受け継がれた闘争心。相手が種族不明の生き物であれ、その心が折れることはない。
「再戦と行こうよ!!」
その掛け声を皮切りに、地面を強くけり出す。体は空を切ってぐんぐんと怪物との距離を詰めていく。目測100mを1秒にも満たない時間と一歩で過ぎると、ヤツもこちらに反応して体をゆらりと傾ける。
蹴った地面は大きくえぐれ、爆発のような轟音と共に矮躯の完全な姿を見切ることは難しかった。影のように揺らぐ何かを後ろに残して、怪物の巨大な体の下を潜り抜ける。
が、しかし、その先に待ち構えていたのはヤツの唯一の武器である尻尾。その先端が迎え撃つように迫ってきている。
定石通りなら、自分に近づかれる前に攻撃を仕掛けるところを、あえて迎え撃つという行動に出た怪物に称賛の声を送ろう。おそらくヒノビの行動を予測しての事だろうが、その予測の材料となったのはオークスを守りながらの戦闘のみ。条件が違えば行動も変わってくる。
「好都合なんだよ、その尻尾!!」
迫る尻尾にひるむことなくさらに加速した。そして、先端の攻撃を跳ねて避けると、そのまま湾曲する尻尾を駆け上がりあっという間に怪物の背中へと到達する。
「蔦と鱗は……へぇ、ほんとにオークス君って頭がキレるね」
不敵な笑みを浮かべて何かを確認した後に背中から飛び降りた。そのタイミングを狙って怪物も再度攻撃を仕掛けてきた。落下中の無防備なヒノビの横から、尻尾の先端が迫る。
その刺突攻撃を予想していたヒノビは、右手で短剣を固い鱗めがけて振り下ろし、はじかれる衝撃を使って空中を側転して舞う。そのままくるくると回転しながら地面へと着地。身軽さはやはり炎狐族の武器であった。
二度も攻撃をいなされたことでスイッチが入ったのか、地面に二度尻尾を打ち付けると勢いよく突進してきた。
「キミさ、どうやって私の居場所を掴んでるのかな?」
その問いに怪物が答えることはない。だが、その疑問はオークスの護衛戦前から引っかかっていた疑問。
オークスとロイスの二人が同時に眼を直接切りつけたのにもかかわらず、彼らの居場所を分かって攻撃した。それにどんな種が仕込まれているのかはわからないが、偶然にしてはできすぎているし、何よりもヒノビのスピードに追い付いて交戦していることが何よりも不自然だった。
独り言で終わった彼女の漏らした質問が空気に溶け消えた直後、怪物は前足二本でその巨体を急激に減速させる。地面をえぐりながら止まろうとすれば、えぐれた土砂がヒノビめがけて散弾ごとく降りかかる。
巨体とその体重からは想像もできない速度を繰り出せるからこその攻撃。同格ならばただの塵程度にしか認識しないが、20倍以上の差があるとそれはもはや礫や岩に相当する。その一つ一つが弾丸レベルで飛んでくるのだから、人が避けることは不可能。死を受け入れるしかない。
「ちっ」
大きく舌打ちをして、射程外へと移動するために大きく右へ飛び込む。とっさの判断だが、それ以外で防ぐ方法は見つからない。あたりに障害物となるようなものはすべて怪物が吹き飛ばしたためだ。見晴らしの良さを逆手にとって避けにくい攻撃を炸裂させた。
相変わらずいやらしく相手の想定していないところを突いてくる。知能がいいのか、この場にヒノビがいるのも誘い込まれたようにさえ感じる。
幸運だったのは、怪物の横幅はそれほど大きいわけではなかった事。トカゲのような見た目に近いため、細身のおかげで広範囲とはいえ避けきれない範囲まで攻撃が届くことはなかった。
着地と同時に全店をして飛び込んだ勢いを殺し、すかさず怪物の方へ駆けだす。距離を話せば先ほどのような無差別広範囲攻撃を繰り出されることがわかればヤツの近くで戦うほかない。それに、近づかなければ決着すらつけられない。
ヒノビの持ち物は短剣二本が一番の武器だ。第二の武器として蔦があるが、それで仕留められるほど簡単な相手ではない。どちらにせよあの大きさの生き物を殺めるとなれば非常に心もとない武器である。
駆け込む彼女の姿を目で追うことはしないままに、大きな尻尾を振り上げて叩きつける。横薙ぎ払い、刺突の次は叩きつけの攻撃。攻撃方法にバリエーションがあり、その知能の高さを物語っている。
日が出ていることで、叩きつけの攻撃が来ると影が彼女の体を覆う。条件反射のように影が差せば左右どちらかに避ける。それを繰り返して怪物に接近する。
「次はこっちの番!」
怪物の懐、腹辺りに到着すると、腕を上げ手のひらを上に向け、
「一発目!」
魔法を放つ。小さな炎の弾は体表と違った色合いの肌へと接触すると、その真価を発揮した。見た目はゆったりとした炎の塊だがそれが何かしらの物へと触れることで大きく膨れ上がり大爆発する。
見た目以上にとんでもない破壊力のあるヒノビの炎魔法。彼女の十八番ともいえるその魔法は先生から初めて教わった魔法であり、彼女と一番相性の良かった魔法だった。
想定外だったのは、大爆発を起こすこと。先生から教わった魔法は爆発することなく、着弾時には内巻きに回転しながら炎円を形成していた。ふわりとした柔らかな印象のある先生の炎。魔法の教育において言語化ができていない部分の方が多すぎた結果、感覚での訓練になってしまったため、どこかで歯車が狂ったのだろう。それが役に立つ場面は街にいれば一度だってなかった。
だが今ほどその威力を利用する場面はない。
爆発したヒノビの炎は怪物の巨体を数㎝浮かせるほどの威力を誇っていた。その後、炎は爆発の原点に収束するように集まったのち、巨大な竜巻へと変貌する。彼女の魔法は二段攻撃になっている。
怪物の腹をなでるように広がっていく炎の渦。その熱に耐えかねたのか足を畳んで地面に腹をつけて炎を消す。
「お腹が弱点ってのはわかったね。まぁ、今後は容易に下へ潜り込ませてはくれないだろうけど」
二段攻撃目が竜巻のようになることは既知の事。迅速に炎の届かない怪物の背中へと移動していた。
「さてと、成功してくれることを願ってるよ」
そう言ってヒノビは背中衷心より横腹側に近い位置の鱗の間に短剣を突き刺した。そこに蔦をしっかりと巻き付け、引っ張っても抜けないことを確認してから反対側の横腹側に蔦を垂らす。素早く反対側へと移動すると、そこに二本目の短剣を突き立てる。そして先ほどと同様の蔦を巻き付け、外れないことを確認してから再度蔦を垂らしておく。
やることが済むと怪物の背中から尻尾に警戒しながら飛び降りる。横や上を警戒しながら着地に備えていると、まさかの地面から突き出して尻尾の刺突攻撃が繰り出された。
予想だにしない場所からの攻撃に、さすがのヒノビも焦りの表情を浮かべる。
「それは―――無理!!」
攻撃を防ぐための短剣は背中に刺してきた。攻撃を受け止めることは生身でしかできない。もちろんそんなことをすれば体の半分、もしくはすべてが肉塊となり果てるだろう。
「これしかない!」
刹那の思考で絞り出された案は魔法を放ちその爆風で避けるというものだった。それには様々な危険を孕んでいるが、生身で受けきるよりも安全に避けられる可能性がある。苦肉の策だが、賭けてみるしかない。
「はっ!」
放った魔法はヒノビが落下するよりも少しだけ早い速度で尻尾に向かう。対して、尻尾は動きを止め、待ち構えるようにして下から突き出ていた。
彼女の魔法の欠点としてはなった直後の弾は思った以上にゆったり移動するという事。それが自身の落下速度とどの程度の差なのかは今まで試したこともなければ知ろうと思ったことすらなかった。
実際は同時に進むのではなく、魔法の方が早く進んだことによって、彼女の体と魔法の爆発地点が同じになることは避けられた。
魔法が爆発すると、ヒノビの体は怪物との距離を大きく離して落下する。背中を強打する最悪のパターンでの着地をし、肺にまで強い衝撃を受けたことで大きく呼吸を乱される。荒々しく細い呼吸を繰り返し、何とか元の呼吸に整えようとする。
「は……ぁ、は…ぁ、はぁ」
途切れ途切れになりながらなんとか最低限の酸素を取り込めるほどに落ち着く。ちかちかと明滅する視界の中、ヒノビは怪物の行動にある仮説を立てた。
「先が……視えているのかもしれない」
今までの行動、攻撃などを振り返るとそのすべてにおいて、彼女の先を知っているかのように攻撃が繰り出されていた。特に直前の地面からの攻撃は落ちてくる場所やタイミングを知っていなければどうやってもできる芸当ではない。そして、魔法を使うことすら予測していたように、待っていたのだ。
そのまま突き刺せば100%、絶対にやられていたのにもかかわらず、ヤツは待ち構えていたのだ。
先が読めるだけではない。楽しんでいる。明らかにヒノビとの戦闘を娯楽とでもとらえているかのように遊んでいるのだ。
「そんなの、無しでしょ」
仰向けから横を向いて顔を上げ、怪物の方へ目を向ける。半開きの口からは相変わらず涎が滝のように流れ出ている。
変化のない表情からはどことなく余裕の表情、もしくは弄んでいることへの光悦な表情を浮かべている。
対象に、苦しく力ない表情で見つめるヒノビの目には絶望の色が浮かんでいた。
☆★☆★☆★☆★
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