第9話

 馬脱走事件の夜。ノクロとその父――彼女の言葉に違わずそれなりの高齢な王だった――との晩餐会を終え、それぞれの寝室であるゲストルームに案内したあと。ちなみに従者の甲冑男はノクロの部屋の前から動かなかったのでもうそのままにした。

 俺は何となく眠ることが出来なくて、パジャマのまま枕をひとつ抱きしめて兄貴の部屋に足を運んだ。


「……兄貴?」


 控えめにドアをノックし、呼ぶ。ドアが開いたのは、俺が踵を返そうとしたちょうどその時だった。

 ひょこり、と、ドアの隙間から顔を出した兄貴は、そのひょろい手を伸ばして手招きをする。そして口パクでおいで、と言った。

 俺は素直に室内へ身を滑り込ませる。

 部屋の中には兄貴と、当たり前のような顔をしたハロムがいた。兄貴はベッドに腰掛け、ハロムは兄貴の枕を抱いて横に寝そべっている。


「なんでお前いるんだよ」

「べつにぃ」

「直感だそうだよ、おまえが来そうだって」

「なんだよそれ」


 俺は兄貴の部屋にある椅子を引っ張ってきて、兄貴の前に座った。椅子の上で枕を抱え込むと、兄貴は困ったように笑って俺の頭を撫でた。


「どうしたんだい」

「……」

「話したくないなら話さなくてもいいけど、その場合僕たちは速やかに寝るからね」

「ひどくないか」

「ひどくないよ、疲れているんだから」

「……」

「さ、どうする」

「……あのさ」


 俺はおずおずと口を開く。兄貴はそれ以上何も言わず、まるで空想の物語を聞いているかのようにして俺の話を聞いていた。

 俺は、彼女と森に出ていた間何を話したのか、何を聞いたのかを包み隠さずすべて話した。俺が婚約を断ったことも、彼女がかつて、大戦にその身を置いていたことも。


「……なるほど。つまりおまえは、混乱しているんだね」

「そうかな」

「おそらくは。だって、僕らだって許されなかった戦場に彼女はいたんだもの。あれほど美しくて、可憐な花が」

「……」

「アージにい変なのー」

「心外だなぁ」


 ハロムがけらけらと笑っている。兄貴は彼の頭を優しく撫でてやっていた。

 ――混乱、しているのだろうか。

 確かに面食らったのは本当で、それに対して何か思うところがなかったわけではない。しかしそれは、嫌悪だとか、そう言うたぐいのマイナスな感情ではなく。ただ純粋な困惑と、わずかな羨望。

 いつか、大戦の頃。俺は親父についていきたいと一度だけ言ったことがある。王家の一員として、武勲をおさめるために。親父はそれを良しとせず、俺どころか兄貴さえも戦場には立ち入らせなかった。

 ――その時、はっきりと言われたのだ。お前はここから出てはいけないと。なのに。


「クラエ」

「!」


 兄貴の声に顔をあげる。いつになく真剣な顔をした彼は、じっと俺の目を見詰めていた。


「おまえは、自由になっていいんだよ」

「……え?」

「縛られなくてもいい。おまえは、おまえの行きたいところに行けばいいんだ」

「……」


 うん、と吐き出した声は、はたして二人に聞こえていたのだろうか。

 随分情けなかったから、きかれてないといいなあ、と思いながら、俺はハロムを抱え、兄貴の横に寝そべって目を閉じた。

 十年以上ぶりに被る兄貴の布団は、記憶の中と同じようにやわらかくて花のようなにおいがした。

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