第8話
馬がいない! と気がついた時、俺の頭はそれはもう真っ白になった。あまりのことであっけにとられた、というか、頭の中にあるのはバカでかいクエスチョンマークばかりでどうしようもない。馬が逃げたというイレギュラーは、今まで起きたことがなかったせいで。
ヤバい。どうする。え? これ怒られんの? なんていうべきか、馬が逃げた、怒られる、どうしよう――。
「クラエ殿下!」
「!」
張った弦のような声が、俺の意識をはっきりさせる。無意識のうちに詰めていたらしい息が吐き出され、俺はむせ返った。
「乗ってください」
馬上のノクロはその手を俺に向けて伸ばしている。困惑する俺に向かって、彼女は早く、と急かす。俺は咄嗟にその手をつかんで、勢いのまま飛び乗った。
刹那、逆光になった彼女の姿が、オパールのように輝いて――?
はた、と目をぱちくりさせるも、彼女はそれすら気にすることなく俺を引っ張りあげた。まるで子供にするように脇の下に手を差し込み持ち上げ、そのまま馬に乗せた。
手綱を持つ彼女の膝の間に座る。馬に建前の謝罪をすると、不機嫌そうに鼻を鳴らされた。よしよし、おまえはいい子だよ。あとで人参やるからね。
「見当はつくんですか?」
「たぶんここから南に行ったとこにある、放牧地かと」
「わかりました。道案内を頼みます」
俺を抱え込んだまま、背後のノクロは言う。妙に筋肉質な気がする彼女の存在を感じながら、俺は必死に頭を巡らせた。昔から何度も行った場所だ、周辺の地図はすっかり頭に入っている。
「じゃあまず、大きい道に出た方がいいかと」
「……。このまま向かうのとと大きい道に行ってから向かうの、どちらが早いですか?」
「それは……このままですけど、でも」
「わかりました。つかまっててください」
「はい! ……え? ぎゃああああ!!」
衝撃、風圧、その他諸々が一度に俺を襲う。吹き飛ばされるんじゃないかと思うほどのそれは、しかし背後にいたノクロのからだに受け止められる。慌てて体勢を立て直すが、次は彼女が前のめりになることによって俺が押しつぶされることになった。これ、俺殺されるんじゃないか? というなぞの緊迫感を全身に感じながら、そんなことは全く知らないノクロが馬を駆るままに進んでいく。
……………………
一国の王女のそれとは思えないほど巧みな彼女の乗馬スキルに俺は目を剥いた。
何より早い。のに安定感がある。まるで馬と一体になったかのようにさえ思えてしまう。ほとんど暴れ馬と同じぐらいの速度で疾走している馬を、ノクロは完璧に御している。王宮にいるどんな手練の御者よりも、馬の扱いに長けているのではないかと思うほどだった。
おまけに。
「右っ、次右です!」
「右ですね」
「ウワーッ倒木!」
「喋ってると舌噛みますよ」
目の前に横たわる巨大な倒木を、彼女はなんてことなくひらりと飛んだ。障害物を避けたその後も全く速度を落とすことなく風のように駆けていく。景色はまるで絵の具が滲んで流れていくように過ぎ去り、生命として存在するのはこの一個に固まった俺たちだけなのではないかと錯覚する程だった。
背中に、彼女の鼓動を感じる。ヒトの平常の速度より、わずかに早くなったそれは、俺の心臓にも伝染する。湯気の立つような馬体にしがみついているせいか、俺は体の内側が燃えている幻覚を見た。
「ここを抜ければ放牧地です!」
「わかりました」
ラストスパート、とでも言うかのように、馬は速度を増す。もはや悲鳴すら出なかった。
耳に届いたのは、彼女の乾いた、楽しそうな笑声だけだった。
――――――――
「お前! 何勝手にいなくなってんだ!」
俺がそう叱責すると、馬はハァ? みたいな顔をしてそっぽを向いた。
少し離れたところで休憩している、ノクロと彼女の駆った馬が笑っているような気がした。
結局、俺から脱走した馬は放牧地のど真ん中で呑気に草を食んでいた所を見つかった。俺が肩を落とすのを見届けた馬は、鼻で笑うような仕草をして構わず食べ続けていた。あいつ中に人でも入ってんのか? と訝しんだのは秘密である。
「良かったですね、すぐ見つけられて」
「本当に。ありがとうございました」
「いえいえ」
寝転んだ馬をそのままに、ノクロはドレスの裾を軽く持ち上げてこちらに近寄ってくるとそういった。そして馬の顔に触れ、「もう逃げるなよ」と、ごく柔らかい声音で語りかけた。馬は彼女の手に顔を擦り付けた。俺はふざけんなよと思った。
「乗馬、お上手ですね」
「え? ……ああ、昔取った杵柄、ってやつです」
「習われてらっしゃったんですか。それにしても……」
「いえ、まぁ習ってはいましたけど……。……その、昔実戦で」
「実戦ね、そうなんですか。……。……? ……はぁ!?」
俺はすぐ側にたつ彼女を頭の上からつま先までまじまじと見つめた。
俺より頭ひとつほど高い身長、すらりと細身な体躯ではあるが、恐らくその下にはちゃんと機能的な筋肉が育っているのであろう。……実戦経験が、本当のことであれば。
俺の頭を、あの忌まわしい大戦がぐるぐると巡る。彼女の国――ダチルマと国交を結ぶきっかけとなった、大国との領土争い。彼女は、その戦禍に自らの身を投じていたというのだろうか。
「……父が高齢で。それに、私以外に若い王族はいませんでしたので、その……」
「……」
俺は、驚きのあまり開いた口を閉じることがなかなか出来なかった。俺でさえ出向かなかった大戦に、王族とはいえ完全な女性が出向いたという事実は、どうやっても信じがたかった。
「あ、その、大戦に出たとはいえ、私は王国の守護でしたので。大した役目はやっていないと言いますか」
「……」
彼女は言葉を次々と並べる。しかしそれも効果がない、むしろ逆効果と悟ったのか、次第に口をつぐみ押し黙った。俺も何も言うことが出来なかった。
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