第3話
兄貴がしんどそうだったので、俺はしぶしぶ部屋の外に出た。
副大臣が待ち構えているかと思ったがそういうわけもなく、広い廊下には人っ子一人いない。俺はそれがうれしくて、大きく伸びをしながら自分の部屋に向かって歩き出した。
するとそれとほぼ同時ぐらいに、背後からデカい声で呼び止められる。編成期前の可愛い子供の声に振り返ると、ちぐはぐなみつあみを振り乱しながらこちらにかけてくる弟が見えた。
「クラにい! クラにい!!」
「おーハロム」
しゃがんで待っていてやると、胸に飛び込んできた弟を抱き上げてそのままエネルギーに任せ1回転して下ろしてやる。きゃあきゃあと声をあげてよろこんでくれた。かわいい。
「どうしたんだ? あ、もしかして兄貴に用事か?」
「んー……そう」
「あー、じゃあ今兄貴しんどいから……」
「でもべつにクラにいでもいいよ」
「あ、そ」
お気に入りのポシェットを探りながら適当に返事をされる。咳が長引いている兄貴に任せるわけにもいかず、彼の用事は俺でもいいそうなので聞いてやることにした。
ハロム。俺の15歳下の弟で、この国の第三皇子。俺や兄貴と随分年が離れているせいで、2人から猫かわいがりされている末弟。ふくふくとした頬や、くりくりのまん丸な目がかわいい。
手持ち無沙汰なせいでやわらかい髪の生えた頭を撫で繰り回してやれば、彼はきゃあきゃあと歓声を上げて喜んだ。狭苦しい王宮の最後の癒し、と俺はいつか兄貴に行ったことがあった。もちろん、ハロム自身はそれを知らない。
「これねー、さっきひろったおてがみ」
「手紙?」
待つこと数分、ハロムのポシェットからはくしゃくしゃになった紙片が出てくる。手渡されたそれの皴をのばすと、外国語……隣国で使われている言語で書かれた手紙のようだった。なんでこんなところにこんなものがあるのか皆目見当がつかない。
「おれわかんなかったからアージにいによんでって思ったんだけど」
「なるほどねー」
俺は紙片をくるくる回して、大げさにふーむ、なんて呟いてみる。この辺りの言語はそれぞれに微々たる差があるだけで大きく違いはないので、俺でもなんとなくではあるが読める。
「なになに……妻……行く……なんて読むんだこれ……」
「よめる?」
「んー……」
前言撤回。単語が違うと文法が一緒でも読めない。授業でやった例文が易しかったのと、途中授業が戦争で中断されたからあんまり読めなかったのだろう。おそらく兄貴であれば、ちゃんと教育されているのに加え本の虫であるためすらすらと読めたのだろう。何ならついでにハロムの教育になったかもしれない。
俺は読むのを早々に諦めた。
「あれだ、文法が古風で難しい。授業でやらないタイプの外国語だ」
「ふーん」
ハロムに手紙を返すと、彼は丁寧にポシェットにしまい込んだ。ごめんなと行ってみると、彼は天使のように微笑んでいいよぉ、と言ってくれた。
そのまま彼とはそこで別れる。若年の王侯貴族によくある家庭教師の時間が近づいていたそうだ。別れるまでに何を勉強しているのか聞いたが、その知識はほとんど俺の記憶から抜け落ちていて、このままだと彼の方がよっぽど賢くなるのだろうなと容易に想像がついた。賢い第一皇子と第三皇子、放蕩息子の第二王子。うん、世間の王族のイメージにぴったりである。婚姻も向こうから願い下げだろう。
廊下を曲がるまで振り返って手を振り続けた彼の、しっぽのように揺れるみつあみを見送り、俺は彼と逆方向に歩き始めた。
……外国語もできないんじゃ国交のための結婚なんてありえない。夫婦生活に常に通訳がつくわけにもいかないだろうし、第一そんな生活すぐに冷めきるに決まっている。親父の目論見は早々に断たれたというわけだ。
そんな気持ちが胸の内側にむくむくとわいてくる。
「残念だったな!!」
俺は笑ってそう叫び、鼻歌を歌いながら自室へとむかった。
…………
……数日前、ハロムが謎の紙切れを拾ってから、そこから何もなく、副大臣と顔を合わせても何も言われなかった。
言われなかったから、結婚だの婿入りだのの話はなくなったものだと、そう思っていたのに。
だというのに!
「ダチルマ国から参りました、ノクロ・ヴァルカと申します」
「なんで直々に来るんだよ!!!」
目の前に立つ、青いドレスを身にまとったその女は、隣国の王女を名乗って恭しく俺の手を取った。
にっこり、涼やかな目元が弧を描く。腹の底で何を考えているのか到底推し量ることのできないようなその瞳に見つめられ、俺の頭は警笛を鳴らしていた。心臓は祭りか敵襲かを告げるような太鼓になっていたし、背中には変な汗をかいている。
しかし彼女はそんなこともつゆ知らず、ただただ穏やかに、凪いだ湖面のような微笑みを浮かべているばかりである。
俺が何を言うべきか、警報に気を取られ酸欠になった魚のような顔をさらしているうちに。
「以後お見知りおきを、クラエ殿下」
――女の薄いくちびるが俺の指先をかすめ、俺は絹を裂くような悲鳴をあげた。
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