求婚されても無理ですが。
第1話
一番昔の記憶は、ひとりで森を探検しているときの記憶。
歩くのもおぼつかないようなガキの頃、何がどうなったのか俺は1人で見知らぬ森をよちよち進んでいた。隆起する木の根っこは、その時の視界では険しい山脈であったし、ちょろちょろと流れる小川はどんな流れにも勝る濁流だった。そんな道をガキの俺は進み、ゴールもないのに何かを目指すように奥へ奥へと歩むのをやめなかった。
「……迷子?」
そうかけられた声に俺は顔をあげ、そうして頭の重さでコロンとひっくり返る。と思えば、その声の主に優しく受け止められる。とはいえ、その受け止めた存在も十分幼い幼児だったせいで2人して転がることになるが。
分厚く折り重なった落ち葉に散らばった、オパールのような色の髪が記憶に焼き付いている。その存在の顔も何も、思い出せないのに。ただその切りそろえられた短髪の、宝石のようにきれいだったことだけが、ガキの俺の目を奪っていった。
初恋、というやつはそこで使い果たしたのではないだろうか、と思う。最古の記憶はきらめくそのオパールで終わっていて、次にある記憶は母のケープをまだ元気だったころの兄貴と奪い合って机に頭をぶつけて大泣きするというたいそうくだらないものであるし、家族や友人以外の強烈な「人に関する記憶」は一切ない。どんな美姫に出会っていたとしても(大国の現第1王女は傾城の名を関する美女だ)、俺の記憶に幽霊のように焼き付くものはない。
これを初恋と言わず何と言おうか。そう兄貴に打ち明けると、彼は心底困ったような顔をして曖昧に笑った。
スリアの国の第2王子はオパールの君に初恋をささげた。
それは俺の国の民なら誰しもが知っていることであり、噂は遠く大国まで及んでいると思っていたが、どうやら俺の親父――スリア国第13代国王は違ったらしい。というより、初恋なんてものをそんなに重要に感じていなかったらしい。
……否、それより父にとって俺は、兄貴よりずっとどうでもいい存在で、政治利用できるいきもの、という認識だったのかもしれない。
知らないし、知りたくもないけれども。
「……ということで。殿下には先日国交を結んだダチルマ国との更なる懸け橋になっていただきたく」
死刑宣告をするときと何ら変わらない、凍てついた仮面のような仏頂面のまま副大臣はベッドで横になってくつろいでいた俺に向けてそう言った。
俺は読みかけの本をゆっくり閉じて、起き上がりベッドの端に座り直し、サイドテーブルに置いてある冷めきった紅茶を一口飲んでから、副大臣に返事をした。
「……拒否権は?」
「あると思われますかな」
「俺は信じてる」
「ほっほっほ、お戯れを」
「……マジ?」
親父がまだ若かったころからその右腕を務めてきたこの老爺が冗談や戯れの流言を言うとは到底思えず、俺は彼の放った言葉が真実だと知るほかない。ため息をついてもう一度口内を湿らせた。
「なんで俺なの」
「王太子殿下は病床に臥せっておられますし、弟殿下は幼すぎます故。適任はクラエ殿下しかおりません」
「ヤダぁー……」
俺はベッドにぐったりと倒れ伏し耳をふさぐが、副大臣はそ知らぬふりをして手帳の中に書いてあるいわゆる今後の予定とやらを読み上げ始める。声をあげて妨害しようとするも、悪夢のように淡々とことをなす彼の前では無力だった。
「とはいえ、まだ大戦の傷もお互い癒えておりません。あちらに物資が届き次第殿下がご移動になるように調整しております」
「……待て、俺が移動? ダチルマに? なんで」
「なぜといっても。殿下が婿入りになられるからですが」
「ハァ!?」
副大臣の言葉に耳を疑う。婿入り? 誰が? 俺が?
「ぜってぇ嫌だ!!!」
「殿下!」
俺は生まれてこのかた出したことがないような大声を出して自室を逃走する。後ろからいさめるような副大臣の声が聞こえたが、俺はそれを無視して走り抜けた。
俺が婿入りなんて冗談じゃない、と叫びながら。
…………
「……皇女殿下? いかがされました?」
侍女の問いかけに、高い城の窓から外を眺めていた女は振り返る。
「いや、何もないよ」
「そうですか? 心ここにあらず、というご様子ですが」
「そうかな」
玉座というにはいささか質素なそれに悠々と腰掛け、すらりと長い足を組んで彼女は再び書類に目を通し始めた。遠く異国から送られてきたらしい、彼女の国の言葉ではない言葉の羅列が延々と続く書類を興味なさそうに読み、女は自らそれらを束にしてびりびりに破いてしまった。
侍女は目を一瞬丸くするが、それもすぐに隠されてしまう。
「つまらないものばかりだ」
「さようでございますか」
女はひらひらと紙くずと化した書類の舞う中うっそりと笑う。ざんばらの髪が書類の切れ端にぶつかりきらめいて、日光を反射し薄く青に輝いた。
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