第8話

「相変わらずね」彼女も空を見上げて云った。

「相変わらず?」私が訊くと、

「ずっと昔、こんな空を見たわ」と云った。

「君のことを知っている記憶はあるけど、肝心なことはどうしても思い出せない」私は初めて素直な気持ちを伝える事ができた。

「しかたがないわね」と少し微笑むと、空を見上げながら話し始めた。

「私が店に出始めたのは十三四。まだ店が評判になる前だから、暇な日も時折あって、今日みたいな青い空だった。そんな日の昼八つ頃に若い男が店やって来た。私や父さんに話しかけるでもなく、勝手に床几に腰掛ける。煙草をつけると、ぼんやりと空を眺めていた。父さんは『画商の若旦那だよ。放蕩息子なんだから関わるもんじゃない』と怪訝な顔をする。他のお客さんは、連れと世間話をしたり、私を揶揄ったりして賑やかだけど、若旦那は静かだった。煙草の煙を輪にして浮かせるのが上手くて、私は父さんの目を盗んで若旦那の隣に座り、宙を漂う輪っかに見蕩れていた。私が戯れに輪を吹消しても、若旦那は怒る素振りも見せずに、また輪を作った。店が賑やかになり、父さんや母さんが嫌な顔を見せると、ふらりと帰ってしまった。そんな事が幾度かあって、いつしか私は若旦那が来るのが楽しみになっていた」と昔を懐かしむように首を傾げた。

 私の生家は画商だった。私が根津にいた頃は、祖母が大女将だったので、街では『大安堂のお孫さん』などと呼ばれていた。

「少し喋りすぎた」と彼女は軽く咳をした。

「お店って何処にあったの?」と私が訊くと、

「もうおしまい」彼女は立ち上がった。

 私は彼女を見上げ、

「せめて名前だけ教えてくれないか」と懇願した。

「おせん」

「おせん?」私が繰り返すと、彼女はあきれた様子で、

「かな文字の『お』に、人偏に『山』の『仙』」と云った。

 『お仙』と云う名前が、あまりにも古めかしいと考えていると、

「お友達が待っているんじゃないの?」とお仙は私が手をつけなかった紙コップを、盆ごと取り上げた。

 私はつられるように立ち上がり、

「いつまで此処にいるの?」と訊いた。

「さぁ……」お仙は首を傾げた。


 昼食後、深大寺門前の蕎麦屋の二階で行われた句会で変事があった。参加者のほとんどが笹野の句を佳作として選んだ。出句の一つ二つを参加者の殆どが選ぶなんてことはよくあるが、出句の全てが選ばれるのを初めて目にした。いくら秀句であっても人には好みがある。参加者の様々な趣味嗜好に合致する作品を、一人の若者が即興に詠ったことになる。名乗りをあげる度に会場がざわついた。笹野は優秀な青年ではあるが、俳句を初めて間もない。前回の会では一句も選ばれていなかった。この数ヶ月でいったいどのような修練を重ねたのだろうか。

 句会はおひらきとなり、私が窓の外を見て笑っていたのを、めざとく見つけた小坂は、

「久しぶりに笑顔を見たよ」と云って、私の肩を叩いた。そして、窓の外に身体を乗り出すと、「あっ、うちの寒山拾得だ」と笑った。そして、「なんだよ。深大寺にいるなら句会に来ればいいのに」と立ち上がり、

「ちょっと挨拶してこよう」と階段をおりていった。

 私は『会頭の芦原先生が豊干で、ちゃんと寒山拾得もいるよ』と小坂が冗談を云っていたのを思い出した。

 参加者が皆帰ったので一階へ降りると、笹野が近づいてきた。

「ちょっといい」と蕎麦屋の土間を屋根で覆った、広い庭席に笹野を誘った。





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