第7話

青葉が眩しい桜木の通りをぬけると木槿園がある。今が盛りなので、淡紅色の大振りの花弁に、紅の蕊が目立つものや、白い花弁の中央に、縮れた塊が置かれたものなど、さすがに植物公園だけあって種類が豊富だ。其処彼処に大輪の花が咲いていた。

「馬は木槿を食べるのか?」小坂は目前の白い花を指でつついた。

「芭蕉ですね」と笹野が薄笑いを浮かべた。

「ちょうど食べやすい位置に、花があるのは確かだな」と小坂は笑った。

 前を通ると自動センサーが案内を放送する親切なトイレを過ぎると、泰山木が乳白色の花弁を広げていた。思わず吸い寄せられるように、我々は花に近づいた。

「檸檬みたいな爽やかな香りだなぁ」小坂は鼻を花弁に近づけて云った。

「あぁ、かすかに青くさいけど悪くないね」と私は両掌を合わせた程の大輪を見つめた。白く厚手の天鵞絨のような花には傷ひとつなく、異国の女王の豪華な衣装が頭をよぎった。私はスマートフォンを出して頭に浮かんだ言葉を控えた。少し離れた所で小坂も手帳に書き込んでいるようだ。笹野もスマートフォンを取り出し、手早く何か打ち込むと、花をじっと見据えていた。

 笹野と赤坂は同じ研究室で、いたって現代的な青年であった。特に笹野は容姿端麗で、入会時には女性陣がざわついたほとであった。詳しくは知らないが、原子より小さな粒子についての研究をしているらしい。

「俳句の会は退屈じゃないの?」私は笹野に声をかけた。

「退屈ではないですよ。ちょっと考えごとをしていて……」と何か含みのある表情で云った。

「ならいいけど、何か問題があるなら遠慮なく言ってくれよ」と私が云うと、

「今日、終わったあと時間ありますか?」と笹野が訊いてきた。

「大丈夫だけど」

「ありがとうございます」笹野は軽く頭を下げた。

 小坂はすでに園内通路に出て、先へ進みたい素振りで私達を見ていた。

「じゃあ行こうか」私は笹野の肩を叩いて、泰山木の植え込みから通路に出た。

 もみじ園を過ぎて神代小橋を渡ると、右は椿園、左には梅園が視界に入る。どちらとも花の時期を外しているので、歩いている人は少ない。真っ直ぐに進むと、梅園の端にある蠟梅の木の前に、錆色の樹皮をすっかり撒き散らした、縞百日紅の白い幹が並んでいた。

「ほら、あそこに柘榴の木があるだろ」と云って私は指をさした。

 百日紅の二十メートル程先に、柘榴の灌木が一本植えられている。葉の間に赤い実が数個ついていた。

「ずいぶんと寂しい場所にあるじゃないか」小坂は柘榴に歩み寄った。

「栄養不足ですかね。幹も細く、実も小さくて少ない」笹野は小さな実の写真を撮った。

「寂しくて渇しているから、詩になるんじゃないか」と私が云うと、

「さすがだね」と小坂が笑った。

 薔薇園に行きたいと小坂が歩き出したので、私と笹野は後を追った。

 椿園のベンチだけある空所に、赤い幟を二本立てた軽自動車が留まっていた。飲み物や菓子を売るキッチンカーのようだ。大温室前の広場や、人気の薔薇園に出店しているのをよく見かけるが、人通りの少ない椿園には場違いに思えた。すると、軽自動車の陰から紺色の前掛けをした女性が現れた。

「こんな場所じゃ、売れないな」と小坂はキッチンカーを見た。

 十メートル程離れていたが、女性に見覚えがあった。私は脚をとめて女性を見つめた。

「綺麗な人ですね」笹野が云った。

 彼女はジーンズに白いTシャツを着ている。あの夜の和服姿より若く見えた。

 彼女は私に気付き、右手を軽くあげて降った。

「知り合い?」小坂が訊いた。

「悪いけど、ちょっと先に行っていて」私は二人に云うと、キッチンカーに歩いた。

 私が近づくと、彼女は笑顔でベンチを掌で差しのべた。私が座ると何も云わずに、飲み物の入った紙コップを運んできて、お盆ごと私の横に置いた。

「床几と違って、ベンチは斜めになっていて置きにくい」と云いながら、私の隣に座った。

 彼女については不思議な事ばかりで、聞かなければいけない事はたくさんあったが、名前はおろか、出会った経緯も思い出せない負目があり、黙って空色の天上を眺めるしかなかった。

 目線を高くすれば空の色は濃く、低くすると薄くなった。雲一つ無い大空を望見していると、すべてが詰まらぬ事に思えた。

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