第5話

 よく晴れて爽籟が心地よい日だった。昨夜の記憶は曖昧で、深く酩酊してしまったようだが、珍しく二日酔いにはなっていない。たしか大田とは深大寺信号あたりで別れたはずだ。そこからタクシーを拾って帰ったのだろう。私はどこをどう歩いて自宅に戻ったのか。そういえば大田から預かった赤い紙はどうした。机の上に鍵や財布、携帯電話が散乱している。机に紙は見当たらない。どこかに落としてしまったのだろうか。慌てて脱ぎ捨てられていた、シャツやズボンのポケットを探したが、赤い紙はどこにも無かった。 昨夜の記憶を呼び覚まそうと考えていると、机の上の携帯電話が鳴った。

「はい山本です……杉浦君?」

 杉浦の声は震えていた。乱れた感情を必死に押し殺して話しをしているようだ。話の内容に、足元が酷く揺れたように感じた。

「大田を傷つけてしまった……」と云うと杉浦は言葉につまった。

「君は何を言っているんだ?」

 強く問いかけたが杉浦は黙っている。

「大田は君の批評を喜んでいたよ。二人で相談して、僕等に喝を入れたんだろ。昨日大田が言っていたよ。昨日遅くまで大田と飲んだんだ……」

「昨日の夜?」杉浦は訝しげにつぶやいた。


 青渭神社の大欅の前を小学校の脇道に出て、深大寺の裏道を急足で歩いた。赤い紙は昨日の屋台に落としたに違いない。

 神代植物公園と深大寺裏を通る路は、両側の大木が立ち茂り日中でも薄暗い。植物園の深大寺門前には蕎麦屋が二軒並び、手前の店のガラス窓に仕込みの蕎麦を打つ職人が見える。店先に立つ女店員の呼び込みを背に、その先の雑木林へ急いだ。左手に見えてくる墓地の手前を少し降りた所に、屋台のあった空き地がある。

 くの字に曲がった空き地の前には、赤い三角コーンが間隔をとって六つ並んでいた。コーンには虎柄のポールが渡されていた。昼間に見る空き地は落莫としていて、老翁の担い屋台は跡形もなく消えていた。雑木の隙間から崖下の家の屋根が見えている。私は目を凝らして赤い紙をさがしたが見つけることは出来なかった。

 雑木林の木下闇に、寂しげな階段を足取り重く降りた。注意深く足元を探しながら深大寺信号へ向った。深沙堂と料亭の間を通り、湧水の流れる堀割り沿いの参道から、広場の茶屋も探してみたが、屋台同様にすっかり消えていた。

 肩を落として歩いていると、丈六仏を想わせる恵比寿天と大黒天を祀ったお堂がある。欄間には見事な龍神が彫られてをり、梁の左右に飾られた木鼻の獅子の金色の眼差しが、阻喪する私を睨んでいるように感じられ脚が止まった。

 恵比寿像の足下を見ると、一尺程の古びた木彫り像が置かれていた。それは長い顎髭をたくわえた仙人のような老翁で、風折れ烏帽子をかぶり満面の笑みを浮かべている。左手に団扇を持ち、握った型の右手には枯葉が数枚ついた枝が差し込まれていた。それはまるで杖をついているような姿になっている。枝の先には真紅の紙が御神籤のように結ばれていた。

 私は辺りを見まわした。参拝者が二、三人深沙堂の近くを歩いていたが、私を気にする人はない。私は赤い紙を枯れ枝から外した。

 紙はとても丁寧に折り畳まれていた。夜露に少し湿った紙を破らないようにゆっくりと開いた。

『君と聴く魔笛奏でる欣快に隠れる吾の一夜たのしき』

 大田の文字は滲むことなく詠っていた。

 私は赤い紙をたたみ直し、胸のポケットに入れた。大田の楽しげな笑顔が浮かび、込み上げる歔欷を抑えることが出来なかった。

 無邪気な太陽は、立ち尽くす私を責めるように雲に隠れた。

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