第4話

三月には豆桜が愛らしい花をつける料亭の入り口あたりで、大田は老翁に追いつき二人は深沙堂を右へ曲がった。お堂と料亭の間の路は街灯が無く、一尋ほどの石畳の奥は闇に包まれている。私が料亭の前に着くと、先を行く二人は闇に紛れ、僅かに人影が見えた。二人を追って進むと、突然、周囲が明るく照らされた。深沙堂の防犯センサーライトが反応したようだ。前を見ると二人の姿は、すでに見えなくなっていた。

 路は湧水池の石橋を渡ると、崖を左に登る階段に続いている。以前、階段を登った先に茶屋があったが、今は閉店して建物も取り壊されているはずだ。老翁の店は、その先にある墓地の近くではないかと考えながら、暗い階段を手摺にすがりながら登った。

 老翁の店は茶屋の跡地に、時代劇に登場する二八蕎麦の担い屋台を置いた簡易なものだった。屋台の前には緋毛氈が敷かれた長い床几が一脚置かれている。数年前深大寺信号の近くに、同じような屋台が湧水の堀割を跨いで商いをしていた事を思い出した。屋台はすぐに店じまいしてしまったが、ここに移動して再び出店したものかもしれない。

 大田はすでに床几に座っていた。屋台の行燈の灯が、どこか嬉しそうな大田の横顔を赤く染めている。私は暗い足元に怖々と野地に降りた。地面の土は足裏に柔らかく、私はゆっくりと大田の横に腰をおろした。

「面白い店だね」大田は上機嫌に云った。

「こんな店があるの知らなかった」私は老翁を繁々と観察した。老翁は見事な福耳で、人中から長く垂れた白鬚を揺らし、優しい笑顔をみせている。桶の水で何やら濯いでいたが、しばらくすると竹鉉の汽車土瓶のような酒器と、漢風の盃を朱塗の丸盆に二つ載せ、私達の間に置いた。私は土瓶の鉉を持ち二つの盃を満たした。酒は透明だったので日本酒かと思った。盃をとり軽く乾杯すると大田は「日本酒じゃないな」と首を傾げた。

 酒は仄かに温かく、口に運ぶたびに強く香る。含むと五臓六腑に溶け込むような感覚があった。

「紹興酒みたいな味だね……」と大田が云うので、「いままで味わったことがない、不思議な酒だ」と私は応えた。

 高台の空き地に街灯はなく周囲の叢は闇につつまれていた。月や星もなく、たまに吹く風に囁くような草の声がした。崖の下には蕎麦屋や車の往来がある道路があったはずだか、静かな闇が広がっているだけだ。この時期に集くはずの虫もない。屋台の行燈には屋号なのか筆文字で『七福』とある。弱々しい灯りが私達の周りを僅かに形づけていた。左右の荷箱の両方を覆った杉板の屋根には、季節外れの風鈴が二つ吊り下げられていた。

 目の前の闇を漫然と眺めながら盃を重ねていると、風鈴が侘しく鳴った。

「おまちどうさま」気配を消していた老翁が荷箱の間から姿をあらわした。

「しっぽくの蕎麦でございますよ」椀を緋毛氈に置いた。黒々とした汁に沈んだ蕎麦の上には、玉子焼きや椎茸の煮物、そして竹輪が載っている。

「おかめ蕎麦だ」と大田は盆の塗り箸を手に取った。

 何杯呑んだかわからないが、土瓶の酒はなくなる気配がなかった。

「読んだの?」

 私は同人誌の話を切り出した。

「あぁ、杉浦君の?」

「厳しくやられてたね」私が云うと、

「このうえなく徹底的にね」と笑った。

「大丈夫?」

「あたりまえじゃないか。あの批評は僕が杉浦君に頼んで発表してもらったんだから」

「…………」私は大田をみつめた。

「僕はもう、仲良しグループに飽き飽きしていた。杉浦君の忌憚のない意見を聞きたかったんだ。同人誌に発表してもらったのは、互いに気を遣って、思ってもいないのに褒め合う、我々の自戒のためなんだ」

 私は言葉を失っていた。

「有名人の作品は、批評家や歌人がこぞって研究し批評もするけど、僕の詩なんて好き嫌い程度の反応しかないだろ」大田は私を見て笑顔をつくった。私は友として真剣に彼の詩に向き合った事があっただろうか。胸の奥に苦い渦がわいた。

「僕の詩には生活感がない。ただのディレッタンティズムでしかなかったらしい……」大田は言いながら一瞬表情を崩しかけたが、すぐに笑顔で誤魔化したように見えた。

 私は何も言うことの出来ない自分を恥じていた。大田は黙っている私の顔を覗き込んで、「君に本当の事を知ってもらいたいと思って、ここに来たんだ。もうこの事実を伝えられるのは、君だけだから……」と云った。

 どのくらいここに居たのだろう。時間の感覚が麻痺している。大田は深く酩酊しているようで、すっかり押し黙っていた。すると、何か思いついた表情で目を輝かせた。

「紙とペン持ってる?」と大田が訊いた。

「ごめん。持ってない」と私が応えると、

「こんなでよければ」と老翁が赤い紙片を見せた。それは葉書を縦半分に切った大きさで、表も裏も眩しいほどの紅色だった。大田は品書きに使う細筆と墨を借りて、すらすらと何かしたためた。それから墨字が乾くと、読み終えた御神籤のように折りたたんだ。「君に預けるよ」と大田は紙を差し出した。

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