第3話
山門脇にある湧水の細い滝を過ぎると左手に亀島弁天池がある。池の中央には小さな島が二つあった。手前の島には弁財天、奥の島には大黒天が祀られていて、それぞれ小さな祠がある。
「あそこに小さなお堂があるだろ」と私は暗い池の真ん中あたりを指差した。
「あぁ、あれか」
「あれは弁財天が祀られているんだけど、毎年紫陽花の季節に、大蛇が島と島を渡す木杭を器用に渡り、ご機嫌伺いに行くんだ」
大田は街灯の白い光にかろうじて浮かび上がった水面を見つめている。島の間には人が歩いて渡れるように、差渡し三寸程の杭を四五本ひとまとめにしたものを、四つ並べてあった。
大田は私の顔を見て戯けた表情をした。
「本当に、毎年決まった日に蛇は来る」と私は少し意地になって云った。
「何でそんなことが君にわかるんだ?」大田は島のお堂を見つめながら訊いた。
「毎年、実際に見ているから」私が答えると、「君がそんなに向きになるのは珍しいな」と大田は真顔で私を見た。
「写真もあるんだ」私は大田の真剣な視線に顔が赤らむのを感じながら、スマートフォンのファイルから写真を選び差し出した。大田の顔が画面の白い光に浮かび上がった。
「へぇ……本当だね……」大田は大蛇が池杭にのたうつ姿を、食い入るように見て、「こんな写真を撮れるのは君しかいないな」と云った。
「このスマホで撮ったんだ」
「写真の出来じゃなくて、蛇はお参りする姿を、君にしか見せないって事だよ」
「なんだよそれは……」私は大田の妙な言い回しに戸惑った。その時、池に覆い被さる樹々の上で鳥が鳴いた。
「いま鳴いたのは青鷺かな?」と私が訊くと、大田は何も答えずに、満足したような笑みを浮かべて歩き始めた。
深大寺南門の前を通り、蕎麦屋の前を深沙堂の方へ歩いた。右手の蕎麦屋前に飾られた水車が軋む音を立て、ゆっくりと動きを止めた。
「どの店も閉まっているね」私が呟くと、
「そうだね」と大田は頷いた。
正面に見える料亭の門灯に向かい暗い路を歩いていると、左手にある野地の広場に『御休所・かきや』と書かれた掛行灯のあかりが見えた。路に面して葭簀張の茶屋があり、店前に置かれた床几には、老翁が腰掛けていて、横に立つ和服の女性と話をしている。この広場には、イベントなどで屋台や出店が出ることもあったが、いつもは駐輪場として利用されていた。
「ここに茶屋なんてあったかな……」と私が独り言を云うと、
「あら、公平さん!」と和服の女性が私に気付いて声を上げた。
「えっ……あぁ」私は目を凝らして女性の顔を見つめた。その人は夏の終わりに多聞院坂で、声をかけられた女性だった。
「知り合いかね?」老翁が女性に尋ねた。
「えぇ、でもこの人私のこと忘れてしまったみたいで……」と悲しげな顔をした。
「こんな別嬪さんの事を忘れるなんてなぁ」老翁はそう云って笑った。
「私が谷中の店に出ていた頃で、随分と昔のことだから……」女性はそう云って黒塗りの吉原下駄をこんと鳴らした。着崩した縦縞の着物は、細身の肢体に驚くほど着こなされている。どこか幼さの残る面立ではあるが、私を見つめ返す情熱的な瞳に、胸の鼓動が早くなるのを感じた。
私が根津に住んでいたのは二十歳頃までだ。谷中は確かに近所だったが、この二十歳前後の女性に出会っているはずはなかった。
「僕はこの人知っているよ」黙って立っていた大田が突然云った。女性は不思議な笑みを浮かべて大田に目をやった。
「絵のモデルをやっているよね?」と大田は続けた。私は改めて女性の事を思い出そうとしてみたが、なにも浮かばない。女性は大田の質問に答えずに少しうつむいていた。
老翁は手造りしたような杖をついて立ち上がり、満面の笑みを浮かべ、「うちの店にこないかね?」としわがれた声で云った。
私は思いもかけない状況に、唖然として返す言葉を失っていた。
「お酒は置いていますか?」と大田はおもむろに尋ねた。私は、大田がこのような異質なな状態に、平然と対応しているのが信じられなかった。
「ございますよ」老翁は萎えた帽子を被り直し、自信げに答えた。
「こちらでございますよ」と老翁は料亭の方へ歩き始めた。大田は私の顔を見て軽く微笑み、老翁の後に続いた。
私は女性に近づいて、「この前はすみませんでした」と頭を下げた。
「まだ思いだせない?」女性は悪戯な笑みを浮かべた。私は胸に熱い鼓動を感じながらも、「ごめんなさい。また……」と云って、大田を追った。
「さようなら……」女性の言葉が私の背中を撫でたように感じた。私は二人を追いかけながらも後ろ髪をひかれていた。ただ、大田が女性を知っている様子だったので、後で訊けばよいと思った。
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