第2話

 懐に入れて来た、すこぶる残酷な仏蘭西小説に夢中になり、気がつくと辺りは暗くなっていた。すく横の土産屋はすでに戸を閉めていた。立ち上がって山門へ続く参道を覗くと、歩いている人は一人もいない。腕時計を確認すると午後七時を少し過ぎていた。読書に集中してしまい時間を忘れる事はあったが、経過時間の感覚はほんの一時間だった。あまりにも閑散としたバス乗り場の様子に動揺していた。スマートフォンを確かめたが、大田からの連絡は来ていなかった。

 三十メートル程離れた先の予告信号機が黄色く点滅しているのに気付いた。ようやくバスが来たようだ。オレンジ色の行き先表示に『金子』とある。金子行きのバスを見たのは初めてだった。私はバスの乗客に大田の姿を探した。

 ただ一人の乗客であった大田は、ふらつくようにタラップを降りて、「遅くなって申し訳ない」と右手を拝むようにして云った。

 半袖シャツの白く細い腕が、いくらか窶れたように見せていた。

私は微笑んで首をふった。

 参道の入り口に並んで「正面に見えるのが山門だよ」と云うと、「あれが君の言っていた茅葺き山門か…」大田は十数メートル先の山門をじっと見つめた。

「ちょっと行ってみよう」私は大田を促すように歩きはじめた。

 参道脇の土産屋や蕎麦屋はシャッターを閉じて人通りは無い。重たい空気が身体にもたれかかる闇の中、街灯の白い光が石畳を仄かに浮かび上がらせていた。

 街灯下の福満橋は、長さ一尋程の橋で、参道の石畳と一体化している。人通りの多い日中はその存在に気付かない人が多い。橋の部分は路より僅かに丸く盛り上がっている。周囲が静かなので、橋下の水の流れが激しいのに気付いた。

 突き当たりにある茅葺き山門は、短い階段の上に鎮座していた。扉はしっかりと閉ざされている。左右に置かれた石燈籠の灯が、軒の木鼻や木口に塗られた胡粉を白く際立たせ、山門をより重々しく見せていた。

「築三百年。深大寺最古の建物らしいよ」

私が云うと、大田は山門を見上げて頷いた。

「ずっと昔、山門の両側に仁王像があったらしい」私が続けると、

「昔って、いつぐらい?」

「よくわからないけど、この山門が出来る前だから、芭蕉が生きていた頃かな……」

「適当だな、それで仁王像がどうしたの?」

「仁王像が人を食べた」と私が云うと大田は驚いた表情で私を見た。

「仁王像があった時代に、近所の村で子供が行方不明になった。それで、村人総出で探索した」

 大田は真剣な表情で頷いた。

「そして深大寺の境内も探してみると、仁王像の口に子供の着物の紐が引っかかっているのが見つかった」

「着物の紐?」

「小さな子供だから、着物を細い紐で結んでいたんだ」

「そうか……」

「それを見て、誰かが仁王像が子供を食べたって言い出した。両親と村人達は激怒して仁王像をバラバラに打ち壊し、土に埋めてしまったらしい」

 大田は怪訝な表情をした。

「仁王像を埋めた場所には、仁王塚があったらしいけど、今その場所はわからない」

「そんなに遠くには埋めないだろう」と大田が云った。

「すぐそこの深大寺の信号の近くに、仁王坂と呼ばれている坂があるんだけど、たぶんそこら辺じゃないかな」

「仁王像はいい迷惑だったろうに」と大田は眉を顰めた。

「仁王像が子供を食べるわけないから、人攫いか事故だとは思うけど、仁王像が怒りの矛先となり、無実の罪を被ったんじゃないかな」

「愚かで悲しい話だね」と大田は複雑な笑みを浮かべた。

「時間が早かったら門の中に入れたけど」

「別にいいよ」大田はやっと笑顔を見せて歩きはじめた。

 


 

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