第1話

 私は締めくくりの歌を書き終えるとペンを置いた。

 あれから三ヶ月程過ぎていたが、ふたたび女性に会うことは無かった。名前や関係性についてもまったく思い出せない。その歯痒さを同人誌の原稿にと書いてみたものの、詩も文章も満足出来るものでは無かった。古い知り合いなのかも知れないが、私の名を知る著名人の記憶がない。椅子にもたれかかりながら、また考え始めていた。

 晩秋の曇天は薄寒く、左目の奥に長年蹲る痛みがあった。私はため息をつき、机の端に置いてあった薄手の冊子を手にとった。曼珠沙華のイラストが描かれた表紙には『翡翠』と墨字で我々の会の名が記されていた。目次を開くと、『歌集「アマデウス」の考察』杉浦三平の文字が巻頭にあった。『アマデウス』の作者・大田健一に対する杉浦の考察は酷く辛辣で、読んでいると自らが責められている気分になる。私は目次を目にしただけで憂鬱な気持ちになり、書きかけの原稿用紙の上に放り投げた。

 腕時計を見ると、そろそろ家を出なければならない時刻であった。大田がつつじヶ丘駅に着く頃だ。近くにある小学校から子供達のふざけ合う声が聞こえていた。大田は杉浦の書いた批評を読んだのであろうか。大田にかける言葉を考えながら外出の支度を始めた。

 午後四時を過ぎると水曜日の深大寺はとたんに寂しい。参道を歩いているのは若いカップルと年配男性の二人連れだけだった。楽焼の店は早々に戸を閉ざし、数軒ある深大寺名物の蕎麦屋は、軒先で売っていた団子を片付けはじめていた。日差しは更に弱くなり急ぎ足で汗ばんだ首筋に風は冷たく感じた。大田をどの店に連れて行こうかと窺いながら、待ち合わせたバスの停留所へ歩いた。

 置かれているベンチでバスを待ちながら、大田がわざわざ深大寺まで出向いてくる理由を考えていた。これまで吟行や会食など二人で会うことはたびたびあったが、私の自宅近くまで足を運んでくれたのは初めての事だった。おそらく杉浦が同人誌に発表した批評について話したい事があるのではないだろうか。批評は仲間に対するものではなく、至って他人行儀なものに感じられた。本来、批評とはそんなものであるかもしれないが、何か友情のようなものが、見え隠れしてしまうものだ。しかし杉浦は、大田の詩は小手先の遊びにあふれ、風流事に戯れているだけであり、一番重要であるはずの詩歌との格闘が微塵も感じられないとし、『詩作は東京建設局の役人である作者の余技でしかない』と言い切った。この容赦ない指摘は、私の作品までも酷評されているように感じて、胸が苦しくなった。杉浦は酒に酔うと、「いつから翡翠会は、仲間内で互いに褒め合う、お稽古クラブに成り下がったんだ!」とくだを巻く事が幾度もあった。特に、官史でありながら他の芸術家とも交友関係を持つ大田の、知性的でアイロニカルな作風は、無骨で生活感にあふれる杉浦の作品とは対照的であった。ただ、繊細で優しい性格の大田は、敵の多い杉浦をずいぶんと庇ってきたはずである。大田は杉浦をどう思っているのだろうか。

 何台かのバスが停留所に着いたが大田は乗っていなかった。約束の時間はとうに過ぎていた。スマートホォンに『何時頃になる?』と問うと、しばらくして既読となり『遅れているけど、待っていて』と返事があった。

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