深大寺奇譚
山本公平
プロローグ
残暑の日であった。陽のあたる道を歩くと首筋に汗が滲んだ。深大寺小学校の裏門から、雑木林が影を落とす多聞坂の階段へ向った。登り降り一ひろ幅の石段は、右へ反るように下っている。坂の途中には巨大な根瘤の蹲るアラカシの樹があった。前を通り過ぎると眩暈を感じ、思わず手摺りに手を掛けた。ウィルス対策のマスクをしていたので酸素不足になったのだろうか。深い呼吸しながら下方を見ていると、異世界に落ち行くような感覚にとらわれた。私は手摺りに掌を滑らせながら、注意深く階段を降りていった。
階段下の尺地に降りると、幸にいも違和感は消えていた。正面に見える鳥居脇の『不動の滝』が、じょぼじょぼと音をたてている。『この水量ではとても滝とは云えないな』
ぼんやり考えていると背後から女性に声を掛けられた。
「こんにちは」
「あぁ……こんにちは」私は振り返り、思いがけない挨拶にぎこちなく応じた。
女性はいまどき珍しい和服姿であった。縦縞の着物ゆ少し着崩して、黒塗りの高下駄をはいている。観光着付けやコスプレとはどこか違う、着慣れている感じであった。
白いマスクをしていたが、化粧気のない爽やかな目元に見覚えは無かった。何処かで立ち話でもした人だろうか。ただ、戸惑いながらも笑顔がマスク越しに見えた気がして、私もマスクの下で微笑んでいた。
女性は行き先が同じであったのか、待ち合わせたように石畳の参道を、私と並んで歩き始めた。並んで歩くと、女性の襟元から覗く首筋のか弱さが感じられて、思わず腕をかしたくなるほどであった。
参道脇の幅二尺の堀割りには、清んだ湧水がさらさらと流れている。瓦土塀の端に淡紅色の秋海棠がいじらしく咲いていた。
下影に秋海棠だけ陽がさして微笑む君は吾待つごとくに
「きっとまた会える気がしていました」
女性は云った。
「…………」
私の頬は赤らんだが、マスクがそれを隠した。『どちらかでお会いしましたか?』と素直に訊けばよかったのだが、「そうですか…」と素っ気なく答えた。外灯に吊るされた風鈴が寂しく鳴っていた。
軒に赤提灯を掲げた蕎麦屋の店先には、団子などの菓子や土産が売られていて、二三組の観光客が品定めをしている。堀割りの前に並んでいるベンチには、食べたり休んでいる人達で賑わっていた。
どちらかともなく、賑わいを避けるように、右手の坂から深大寺東門に入った。門の正面にある旧庫裡の木戸は閉ざされている。本堂の方へ少し進むと、鐘楼前に山門補修に剥がされた、か黒い萱が堆く積まれていた。立ち止まると、女性の肩にかかる艶やかな髪が甘く薫った。
山門は足場と幕に覆われ、散切り頭の萱屋根を晒していた。女性は興味深そうに山門を眺めている。
「工事は十月までかかるみたい」と女性は云った。
私が顔を向けると、
「そこの看板に書いてありました」と少し目尻を下げた。
山門の親しき姿消ゆれども君と並びて心はづみぬ
釈迦堂の前にある池には、艶やかな錦鯉を喜ぶ外国人観光客が、石柵の周りに集まっている。私達は人から逃れるように、南門から亀島弁天池の前に出た。
ゆきずりの二人なのだから、そろそろおひらきの頃合いなのではと考えていたが、女性は立ち去る気配を見せなかった。
「深沙堂の天井画はご覧になりました?」そんな事を云いながら、とても楽しそうに私の先を歩いていた。
湧水が堀割りに流れ込む雑木林の前で、急に振り向いて、
「お髭すごいですね」と女性は自分の顎を指差した。
「無精髭で…」
私は虚をつかれ動揺しながら、マスクを下にずらして顔をみせた。
「まぁ!」
女性は大きく目を見開きながら自分のマスクも下げ、
「私はこんな顔ですよ」と笑った。
法堂の吾をにらみし赤龍よおんあふるあふるさらさらそわか
私は女性を知っていた。その面差しは世間に膾炙されているはずだ。芸能人だったか。いや、友人だった気もする。女性の名前は思い出せない。私は酷く混乱していたが、なんとか平静を装っていた。
深沙堂裏の湧水池を東へわずかに登ると、延命観音の洞窟堂に赤い幟が十数本並んでいた。
「芭蕉は深大寺に来てないはずだけど……」女性は洞窟堂横の句碑を見て独り言のように云った。
「さぁ…どうだったかな…」私は上の空に答えた。
この女性は、なぜ私に親しげなのか。頭の中は疑問が渦をまいていた。観音様に手向けられた線香のけむりが細く立ち上がっていた。
乾坂まで来ると、居た堪れない気持ちに我慢がならなくなった。
「これから植物園に行くので」と私は頭を下げた。
「あっ、ごめんなさい…」女性は戸惑いの表情で私を見つめた。
「じゃあ」
私は背を向けて坂を登り始めた。
「Kさん!」
不意に自分の名を呼ばれて脚が止まった。私の名前を知っている?。振り向くと、ゆっくりと私に近づいて、
「思い出せませんか?」と哀切な表情をつくった。
私は困惑し、黙って立ち尽くしていた。
女性は悲しい笑みを浮かべ、
「今度会うまでに思い出してくださいね」と云うと、樹陰に吸い込まれるように乾坂を下っていった
帰りゆく子らの声ゆく境内に空高くあり吾はさまよふ
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