第2話 祖父の存在
日本人は物を無駄にしないという事を忘れかけている。それは、『消費は美徳』という言葉に表れていた。幼い私は、祖父の姿がまだ格好良いと思えないまま過ごしていた。そこへ、祖父を見直すような事件が起きた。それは、隣の家からの小火を出したという一報から始まった。
「国光さん、お晩です」
と、大きな声がしたかと思うと、店の奥の茶の間前まで隣の社長がやって来て、慌てている様子だった。
私は湯沢商店の社長と目が合うと、会釈をしてから奥の台所へ母を呼びに行った。母は、畑から取ってきたばかりの新鮮な野菜を籠から取り出していた。流し台には泥付きの大根が葉っぱを付けたまま横たわっている。母に隣のおじさんが、店の方に来ている事を告げると、泥で汚れた手を瓶に溜めた水から柄杓ですくって洗い、その手を前掛けで拭きながら店へ急いだ。社長は、茶の間から出て来ると思い、中を覗き込みながら落ち着かない様子で足を小刻みに動かしていた。母は、茶の間へは入らず横を通り過ぎて、店へ出る廊下の硝子戸を開けた。待ち草臥れていた社長は、開ける音のする方を振り向いた。
「お晩です」
と母は言いながら、奥さんではなく社長が来た事に怪訝そうな顔をしている。
「すまんです。工場で小火を出してしまつて、でも火はもう消したんで、まだ少し煙が出てるけど安心してください。大丈夫ですから」
と、早口で言って頭を何度も下げながらそそくさと帰って行った。
私も母も社長が来るまで全く小火に気付かずにいた。私は、棚の上にある窓から隣の様子を見た。そこへ、騒ぎを聞き付けて祖父が、客間の奥座敷からやって来て、隣の工場へ向かった。私は祖父の後を追った。人だかりのする工場前では、何やら騒がしく不安めいた声が飛び交っている。人々の目は煙突から出ている火の粉に集まっているようだった。煙突の先に付いているはずの傘がないため、煙と共に火の粉が噴出していた。周りで見ている人々は、工場が焼け焦げているものと思っていたらしい。野次馬は、口々に何処が燃えたのだろうと言っている。社長は火が消し止められた事を強調していた。しかし、社長も火の粉が飛んでいるのを心配気に見ている。
外はもう暮れて、星空がきれいだった。そんな星空の中に火の粉が舞っている。心配そうに見上げる大人達の中で、私もどうなるかと不安だった。このストーブは、羊の毛を洗う湯を沸かすためにある。ここには、羊から刈り取られた毛が持ち込まれて来る。その羊毛を洗う大きな長方形の桶が何個もあった。この工場の中は、私の格好の遊び場でもあった。また、その桶は風呂の替わりもしていて、この家の私より一歳年下の糸子と私や他の友達などと大勢で入っていた。この遊び場がなくなることは、幼い私には悲しいことだった。幸い小火で済み、ほっと胸を撫で下ろしている私でもあった。
しかし、小火で済んだと言われても、依然火の粉が飛んでいる様子を見て、私の祖父が声高に叫んだ。
「火の粉を飛ばさないように煙突を何かで塞がないと駄目だべさ。燃えている物も掻き出さないとさ」
その声を聞いて、社長は社員の男性に指示をした。社員はストーブにまだ残っている石炭かすなどを掻き出して水をかけた。そして、煙突の傘代わりにする金だらいを被せた。火の粉が舞うのも治まり、小火騒ぎも一段落した。煙突の具合が悪く、吹き返す火によってストーブの近くにたまたま置いてあった物に燃え広がったという事らしい。社長は祖父の的確な助言に感謝した。
それを見ていた糸子が、私にささやいた。
「てるちゃんのお爺ちゃん、すごいんじゃないかい」
と、糸子が言った。
火は消し止められて、小火で済んだと社長が告げに来たはずだったが、改めて祖父がこの小火騒ぎを治めた英雄となった事に、私は困惑した。小火騒ぎも収まり、祖父は満足気に家へ戻った。祖父は小火騒ぎの武勇伝を話すでもなく、ラジオの相撲放送に聞き入っている。少しすると、社長が尋ねて来て、母に祖父の手柄を称賛した。糸子の家には祖父母がいなかったためか、糸子は父親より偉い存在のように祖父を捕らえているようだった。
私はまだ、祖父を尊敬の念で見た事はなかった。また、優しい甘えられる存在でもなかった。厳しかったのは、兄や姉達までであった。今は、甘いのも厳しいのも中途半端な私のみが、祖父の後を追っていた。祖父に付いて旅行するのも私がほとんどだった。祖父の日課を眺めて楽しんでいるのも私のみだった。
鶏の餌作りは、皆が逃げ出すほどの強烈な臭いを周囲に漂わす。祖父は口に手拭いを巻くでもなくマスクをかけるでもなく、この臭いを平然と嗅いでいるようだった。私は、祖父が首に巻いた手拭いで汗を拭き拭き、豪快に大鍋を大きなへらで混ぜ合わせているのを見るのが面白かった。大鍋には野菜屑や生物の屑、米ぬか、とうもろこし、貝殻の潰した物などが入っていた。
畑仕事も、食べる時だけ取りに行っていただけでは、祖父の大変さが分からなかった。しかし、畑を耕し、種や苗を植える時から見るとまた違ってくる。肥料の人糞を運ぶのも一苦労だった。家から畑までは15分ぐらいは掛かり、リャカーに載せて運ぶ事になる。こんな時に付いて行くのは、幼い私ぐらいのもの。人糞をまくと言うと決まって姉達が「私は食べないもん」と言った。しかし、収穫された作物を目にすると、そんな事を言った事すら忘れて食べていた。
祖父がする日課を思い起こしてみれば、単に面白いだけではなく、憧れで見ていた事に、私は気付き始めていた。それは、取りも直さず祖父に対する畏敬であった事を、隣の小火騒ぎによってこころに刻まれたのだった。
そんな祖父も、最期で印象に残る誤りをした。祖父は朝起きて来て、着ている服のボタンが無いと言って大声を出していた。私が見ると、服は後ろ前であった。
「いやだ、お祖父ちゃん。服が後ろ前だわ」
私は笑いながら言った。
「そうかい」
と、大真面目に言って、いつものようなきりりとした祖父の顔に戻った。
そんな祖父を見たのは最初で最後だった。祖父は次の日、永遠の眠りについた。
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