忘れさせ屋

内野聡

第1話

 誰にでも忘れしまいたい記憶はあるものだ。恥をかいた記憶、失敗した記憶、失恋の記憶、大事な人を亡くした記憶……。挙げればきりがない。私はそういう記憶を消したいという人々の願いを叶える仕事をしている。「忘れさせ屋」とでも呼んでもらいたい。記憶を消したいという人は意外とたくさんいて、ライバル企業も少ないから、食うには困らない商売だ。具体的に何をするのかというと、本当にただ記憶を消すだけなのだ。私の店は新宿のとあるビルにある。従業員は私一人だけだから、自分一人で社長も接客も会計も掃除もこなさなければならない。うちは完全予約制で、お客はホームページから予約して指定の日時に店に来る。料金はネット決済の前払いで、一つの出来事の記憶を消すのに一律三千円でやっている。自分でもなかなかリーズナブルだと思う。これでもちゃんと利益が出るようになっている。それぐらい記憶の消去は簡単だ。

 さて、お客が店に来るとまず誓約書にサインしてもらう。一度消した記憶は二度と取り戻せないこととか、ごくまれに他の記憶が消えたり置き換わったりすることがあるとか、そういうことを説明する。まあ、うちの店ではそういう事故は一度も起こしてないのだけれど。そしてお客の意思を確認してから、とある装置を使って記憶を消し、その部分の記憶に、記憶を消したということだけを上書きする。この装置の仕組みは企業秘密。でも、決して違法なものではないし、健康にも害はない。この商売自体、国の機関からちゃんとした許可をもらってやっているのだ。

 私の仕事について、一つ重要なことがある。それは人の記憶を消すとき、その操作をする私にはその記憶が見えてしまうということだ。もちろん守秘義務があるから、絶対に誰にも言わないし、保存もしない。この商売は信用があってこそ。今日も私の前をひとつずつ記憶が通り過ぎ、この世から消え去ってゆく。もう誰にも思い出されることはない。そして、誰も苦しめられることはない。

 それにしても、他人が消してしまいたいと思うような記憶をわざわざ追体験するのはきついものだ。この仕事の唯一の欠点ともいえる。例えば若い女性なら、最近別れた彼氏との思い出を消してくれという。ほかにも、告白に失敗した高校生とか、会議中に大便を漏らしたサラリーマンとかが来る。これぐらいなら全然楽な方で、子供の頃に虐待やいじめを受けていた記憶や、災害で家族を失った記憶なんかもある。たまにヤクザとか、出所したての元受刑者がやってきて、自分の過ちの記憶を消してほしいという。あまり立ち入ったことは聞かないが、どれも目を覆いたくなるような記憶ばかりだ。もちろん、消せない記憶はないから断らずに引き受けるのだが、こうした記憶たちは、無関係な私の心さえ暗く重苦しいものにする。そんな鬱々とした気分が続いた六月のある日、変わった雰囲気の客が私の店にやってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘れさせ屋 内野聡 @pontanu7110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る