交換しようか

「で。どうして、司くんがここにいるのよ」


「俺も自分でそう思っています。まったく、どうしてここにいるんでしょうね」


 私鉄の駅の改札口で私たちはお互いに、相手のせいには出来ない気まずさを味わっていた。私服姿の司くんを見ることができたのは大いに眼福ではあったが、良いことと言えば、ただそれだけだった。


「私、文化祭委員長の森くんが来るって会長に言われてたんだけれど」


「だから、その森先輩から電話がかかってきたんですよ。彼女さんとのデートが急に入ったから、お前代わりに行ってくれって」


 司くんはあきらめたようにため息をつくと、快晴の空を恨めしそうに見上げた。


「当日の朝になってからの連絡ですからね、まったくたまったもんじゃないですよ。でもまさか、環季先輩を独りで行かせるわけにもいかないし」


「だからって、なんで司くんが」


「中学の時、森さんはバスケ部の先輩でしたからね。そういう身に染みついた体育会系のしがらみってやつ、なかなか抜けないものなんですよ。お前って副会長だろ、書記の八尋とならいつも顔をあわせてるんだから、何の問題もないじゃないかって」


 問題大ありだ。日曜日に司くんと二人きりで会うなんて、大問題以外の何ものでもない。服装もそうだし、第一、心の準備が。


「もう。せめて司くん、メールでもくれたら」


「俺、環季先輩のメルアドなんて知りませんよ。会長に聞く時間もなかったし」


「う、それはそうよね」


「それじゃあ今更ですが、先輩のメルアド、教えてもらってもいいですか。今後こういうことが起きないとも限りませんし」


 司くん、君はどうしてそういうことを平気で言えるのかな。実をいうと私は新学期早々に白倉さんとメルアドの交換をしていたのだが、その時には私は無論、彼女ですらもわずかに顔を赤らめていたぞ。白倉さんでさえそうなのに、君は他人の、しかも異性のアドレスを聞くことに何の躊躇ちゅうちょもないのか。別に照れろとは言わないが、もっとなんかこう、あるでしょ。


「べ、別にいいけれど。でもごめん、私、自分のメルアドの送信の仕方がわからなくて。白倉さんにも一度、やってもらったことがあるんだけれど」


 それは私が機械音痴だからというわけではなく、単に今までメルアド送信なる機能を使う機会がなかったからに他ならない。おずおずと取り出した私の携帯を手に取ると、司くんは慣れた手つきでいくつかの操作を行い、それを自分の携帯に重ねた。軽やかな電子音とともに、私の個人情報が彼のそれに送信される。


「あ、ありがとう」


 私は何に対してお礼を言っているのか。でも私の今の感情は、嬉しいと表現するしかない。必死にポーカーフェイスを保つ私に構わず、司くんは何やら操作を続行している。


「ほら。先輩にも俺のメルアド送っときますから」


「え。私が司くんに連絡する場面なんて、あるかな」


 司くんは珍しい動物でも見るような表情で私に言った。


「あるなしの問題じゃなくて。普通は交換するもんでしょ、こういうの」


「そう、なんだ。これは普通。そうだね、普通」


「何ぶつぶつ言ってるんですか。それじゃ、送りますね」


 再び電子音。これでいつでも司くんに連絡が取れる。白倉さんに続いて、家族以外の連絡先がふたつ。なんだか嘘みたいだ。


「さて、ここにぼうっと突っ立っていても仕方ないんで。さっさと終わらせますか、生徒会の仕事」


 私は司くんから渡された自分の携帯をショルダーバッグに大切にしまうと、顔を見られる前に背を向けた。声が弾まないようにと細心の注意を払いながら、先手を取って歩き出す。


「うん。行こうか、司くん」




 私たちは白倉さんに教えられた印刷会社に到着すると、建物の裏にある通用口を抜けた先の事務室で、休日当番だという社員と面会した。私は手渡された封筒に入った見積書にちらりと目を通すと、司くんに小さくうなずいて、相手の男性にお礼を言った。


「お忙しい中、しかも日曜日に準備してくださり、ありがとうございました。この見積書の内容で間違いありません。いったん持ち帰らせていただき、責任者の森と顧問の先生に確認を取ったうえで、改めてご連絡します」


 スーツ姿の社員はディスプレイから目を離すと、眼鏡を押し上げて破顔した。


「文化祭っていうのも大変ですねえ、自分が学生だった頃を思い出しますよ。もし訂正箇所があれば、明日以降に電話かメールを入れてください。修正の費用については込み込みになっていますので、見積もりの金額に変更はありませんから」


「わかりました。それでは原本と見積書、確かに」


 私たちは頭を下げると建物の外へと出た。六月末の休日はもう正午に近く、強い日差しも相まってかなりの暑さを感じる。駅の方へと歩き出した私を司くんが追ってきた。


「環季先輩。俺、見積書の数字とかまったく分かりませんでしたけれど。大丈夫だったんですか?」


「印刷会社さんの計算のほうが正しい数字よ。森くんから渡されたやつには、DDCP出力の料金が入っていなかったからね。原本の内容については私にはわからないけれど、カラーのページ数がちょっと怪しいから、明日にでも彼に確認しなくちゃ」


 私はうきうきした気分で付け加えた。


「でも校正費用が三回まで込み込みだっていうのは、実にお得だよね。校正箇所に応じて別料金、っていうのが普通だから。良心的な会社さんみたいで、超ラッキー」


 反応なし。隣にちらりと目をやると、司くんは呆けたように私の顔を見ている。


「な、なあに、司くん。私の顔、何か変?」


 そういえば、相手が森くんだと思っていたから、薄くリップを引いた以外はメイクらしいメイクもしていない。そもそも実際にメイクが必要になるような場面に今まで出くわしたことがほとんどなかったから、大したコスメも持っていない。って、何を考えているのだ、私は。司くんと出かけるとわかっていたのなら、がっちりメイクをしてきたとでもいうのか。八尋環季、お前はいつからそんな浮ついた奴になったのだ。彼は単なる仕事仲間なんだぞ。


 どこかに入れるような穴がないかと探し始めた私に、司くんは慌てて言った。


「いや、変ではないです。というか環季先輩、仕事ができる人だったんですね」


 何だ、そんなことか。驚かさないでよ。


「当たり前じゃない。せめて仕事くらいできなきゃ、会長に愛想尽かされちゃう」


 司くんは少し迷っていたようだったが、やがて口を開いた。


「さっきの交渉の手際の良さ、驚きました。でも、こんなこと言っていいのかどうかわかりませんけれど」


「やけに遠慮するね。司くんに聞かれて困るようなことなんて、何もないよ」


「会長に聞いた話だと、環季先輩って高二までは、ほとんど誰とも没交渉だったらしいじゃないですか。あれだけ頭の回転が速いのに、人と話すのが苦手なんて、そんなことってあります?」


 どうやら白倉さんは司くんと二人だけの時に、私のことについて少し話をしたらしい。もう今では、以前のようにそれについて別段嫉妬を感じることもなかったし、自分の過去を彼に知られるのが恥ずかしいなどという気持ちも湧かなかった。司くんがどう思おうとも、私の中では生徒会役員の三人はすでに運命共同体なのだ。たとえそれが、卒業までの期間限定だとしても。


「まったく君は、ずばっと遠慮なく聞いてくるわね」


「すいません。俺、環季先輩のことをあまりにも知らないから。その、ずっと気になっていて」


 気になるって、司くんが私のことを? 勘違いしてはいけない。相手のプロフィールをある程度知らなければ、一緒に仕事がやりにくいのは当たり前じゃないか。そこまで考えて、自分が司くんのことをやはりほとんど知らないことに、私は改めて気付いた。お互いの過去っていうのも、交換するのが普通なのかな。それこそメルアドみたいに。


「まあ、中学までにいろいろあってね。それで、ちょっと臆病になっちゃったんだろうね。でも別に、独りでつらいなんて思ったことはなかったよ。これ、本当」


 その通り、別段つらくはなかった。ただ、自分の周りだけがぼんやりと色あせていて、相対的にそれより遠くの世界の色彩がよりビビッドに感じられていただけで。もし私が心療内科医を訪ねたならば、彼は何らかの病名をもって私を定義するかもしれない。だが私は、それを単に思春期特有の一過性の症状だと思っていた。現実感の喪失そうしつなんてたいしたことではない、ただのピントの問題だと。


「でも、会長が私を拾ってくれたからね。彼女と一緒にいれる世界の方が、今までよりずっとよく見えたんだ。ただ、それだけ」


 司くんは黙って横を歩いていたが、不意に言った。


「環季先輩、一緒にメシ食いに行きませんか? この近くに、安くてうまいパスタ屋があるんですけれど」


 自分からちょっとシリアスな話を振っておいて、いきなり何よ。だが確かに、空腹を感じてきているのは事実だった。慣れないことに脳を使うと、ブドウ糖が猛烈に減少していく。


「え、お、お昼? まあ、そうね、そんな時間ではあるんだけれど」


「一仕事したら俺、なんだか腹が減ってきて。まさか、パスタが嫌いな人なんていませんよね?」


 いいのか、と逃げ出しそうになる私を、いいのだ、と強気な私が押しつぶす。仕事中に同僚とランチを食べることに、何の問題もあろうはずがない。白倉さん、これって生徒会費で落ちませんかね。

 腕を組んだ私は一つ咳払いをすると、わざとつっけんどんに言った。


「何よ、司くんは仕事なんてしてないじゃない。だから、おなかが減っているのは私だけのはずなんだけれど」


 さすがに司くんは、私のサインを見逃すほど鈍感ではなかった。


「はいはい、その通りですね。それじゃあ、環季先輩は大盛りってことで」


 どうなんだろう、果たしてパスタがのどを通るのだろうか。司くんは方向を変えて歩き出したが、思い出したように私の方を振り向いた。


「そのベレー帽とノースリーブのワンピース、格好いいです。日曜日に仕事っていうのも、案外悪くないですね」


 後者の感想は、私と全く同じだった。たまには無駄なおしゃれもしてみるものだ。ジャージを着てこなくて、本当に良かった。

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