第六章 フラストレーション

休日のお使い

「めっちゃ混んでますね、環季先輩。でもこの店の明太子パスタは、列に並ぶだけの価値ありですよ」


「あ、う、うん。そうなんだ」


 私服姿の司くんを見たのは初めてだが、これは私にとってはかなりの破壊力だった。白いクルーネックのシャツに黒いパーカー、グレーのズボンというシンプルないでたちは、長身で細身の彼にはよく似合っていたし、レザーの黒いハンチング帽も実におしゃれだ。


「いつもはここまで混んでないんですけれど、やっぱり日曜日は人が多いですね。時間、まだ大丈夫ですか?」


「ぜ、全然、大丈夫」


 そうなのだ。私と司くんは今、休日だというのに地元のショッピングモールにやってきている。どうしてこんないきさつになったかと言えば――




 数日前。私はその日も、生徒会室の机に一人陣取ってポテトチップスをつまみながら、幾重にもチェックがつけられた単語帳を眺めていた。七月初めに予定されている期末考査が近づいてきた今、私はもっぱら自習室としてこの部屋を利用させてもらっている。

 生徒会のこまごまとした雑事については、私の神経質な性格もあって、その都度速やかに処理されていた。また、文化祭や体育祭といった大きな行事については、白倉さんがそれぞれに独立した委員会を立ち上げており、彼女が任命した委員長たちがすでに活動を開始している。だから我々生徒会役員は、彼らが報告してきた進捗しんちょく状態を大まかにチェックするだけでよかった。

 つまりは、ひまだという事だ。こういった隙間時間を有効活用するならば、単語や年号といった暗記物がちょうどよい。


 中間考査での私は、いつも以上に冴えていた。配られた成績表を見て天を仰いだ白倉さんを、一所懸命に慰めなければならなかったほどだ。さもありなん、ラジオと共に過ごす自宅学習時間にプラスして、放課後の生徒会室での自習時間が加わったのだから、成績が下がる要素がない。白倉さんは他の人との間ではテストの席次などまったく気にしないのに、こうして私にだけはライバル心をむき出しにしてくるというのも、なんだかおかしなものだった。


 一袋をあっという前に平らげた私は、何となく後ろめたい気持ちで部屋を見回しながら、スチール棚の扉を開けて追加の一袋を取り出した。そう、脳を動かしているのは炭水化物が加水分解されたブドウ糖だけ。だから勉強をしている間は、常に炭水化物を補給し続けなければならないのだ。ポテトチップスには炭水化物だけでなく脂質や塩分も多く含まれているのだから、過量摂取は身体に良くないのでは、などという野暮やぼな意見は黙殺させていただく。兵士は胃袋で歩く、とナポレオンの名言にもあるではないか。一八一五年、ワーテルローの戦い。


 貧乏性の私は、まずは砕けた小さな一片をと口に放り込もうとした瞬間、何やら視線を感じて振り向いた。まさか、どこかに監視カメラでも設置されているのだろうか。ひょっとして白倉さんのあの驚異的な情報収集能力は、校内中に設置された多数のカメラによる監視網のたまものなのではないか。そして、私の盗み食いを告発するためにこの部屋にも。

 カメラを隠すなら、やはり部屋全体を俯瞰ふかんして見ることの出来る天井だろうか。いったん疑心暗鬼にとらわれてしまえば、安心を得るためには、もはやそれを完全に否定するしかない。椅子に上って天井を調べていた私の背中に、突然に声がかけられた。


「環季、あなた何やってるのよ」


 うわあ。パイプ椅子から転落しそうになった私を、誰かが背後から両手で支えた。なんだろう、この柔らかな感触は。そのまま振り向いて下を見た私は、驚いた表情の白倉さんと目が合った。よかった助かった、と思ったのもつかの間、私は彼女の扇情せんじょう的な装いに赤面してしまう。


「あの、会長。どうしてバスタオル一枚で生徒会室にいるんですか」


「質問に質問で返さないでよね。椅子に上って部屋の天井なんか見て、虫でもいたの?」


「虫。なるほど、虫に超小型のカメラを取り付ければ、それで監視は可能ですね。問題は虫の動きをどうやって制御するかですが。確か虫の感覚器官に電気刺激を与えることで、その進む方向をコントロールできるのだとか何とか」


「あなた、空想科学小説の読みすぎ? 監視っていったい何の話よ」


「いえ、すいません。私の罪の意識が、とんだ妄想を生んだようです。とりあえず、おりなきゃ……」


 なるほど、あの柔らかな感触はタオル越しの彼女の胸だったのか。椅子からおりようとして白倉さんを見下ろす形になった私は、失礼だと思いながらも彼女の姿態に目がくぎ付けになる。バスタオル一枚をまとっただけの白倉さんは、その身体の線をはっきりと見せていた。負けた、完敗だ。私は、自分が彼女に勝っている部分が成績ただその一点のみであることを、改めて思い知らされていた。くそう、学園武将ゲームにわがままボディのパラメーターがあったならば、彼女はそれも百じゃないか。私自身はといえば、盛りに盛っても四十程度である。雑魚い、雑魚過ぎる。

 しょげかえった私を不思議そうに眺めながら、白倉さんは私がおりるのを手伝ってくれた。気を取り直した私は、彼女に改めて質問する。


「で。生徒会室でそんな格好して、一体何ごとです。なんかの撮影ですか?」


「こんなエロい想像する奴にこの白倉莉子がテストで後れをとるとは、まったく納得がいかないわね。見ればわかるでしょ、シャワーを浴びてたのよ」


 白倉さんは親指で、生徒会室の奥の方にあるドアを指し示した。そういえば私は、あの向こう側にはついぞ入ったことがない。物置か何かだと思って、特に関心も持たなかったのだが。


「え。あそこって、シャワー室だったんですか」


「ふふ、いいでしょ。シャワーがある生徒会室なんで、そうそうないわよ。昔は先生たちの臨時の宿直室だったらしいんだけれど、ほとんど使われてなかったのを私が是非にとお願いして、昨年からこの部屋に生徒会室を移したってわけ。校長先生、快くオーケーしてくれたわよ」


 濡れた長い黒髪を拭きながら、彼女は笑ってピースサインを返した。またしても校長か、顧問も生徒会室もすべて白倉さんの言いなりじゃない。


「うちの校長先生も、コンプライアンスについては相当に適当な気がしますが。でも、いつでもシャワーが使えるっていうのは非常にグッドだと思います」


「そうでしょー。シャワーって気分転換にはちょうどいいわよね。環季もそうなの?」


 私は大きくうなずいて同意を示した。


「私もラジオのコマーシャルの間なんかに、ぱぱっと浴びたりしますよ。そうすると眠気がふっとんで、勉強だってもうひとサイクル頑張れますし。私が髪をショートにしているのも、ロングとは段違いに乾くのが早いからなんです」


「……そんな理由でヘアスタイルを決めてしまっているのね、あなたは」


「会長の髪は長くて、乾かすのが大変そうですね。ドライヤーどこですか?」


「わお、やってくれるの? 書記にパワハラしてるみたいで気が引けちゃうけれど、せっかくだからお言葉に甘えさせていただこうかな」


「了解です、会長。さあ、ここに座って」


「ありがと、環季」


 私はドライヤー片手に会長のつややかな髪を手櫛てぐしですきながら、幸せな気分に浸る。何だろう、令嬢にお仕えするメイドって気分だ。戦さ話ばかりで恐縮だが、自分を三国志さんごくし劉備りゅうび関羽かんういずれかに例えるならば、私は断然関羽タイプである。人に仕えることに喜びを感じる私ってば、家来としては大変お得だと思うんだけれどなあ。どこかの美形君主が、在野に埋もれている私を見出して登用してくれないだろうか。いやいや、白倉さんと私の今の関係こそが、まさにその状況かもしれない。


 白倉さんは気持ちよさそうに温風に身を任せていたが、思い出したように私を仰ぎ見た。


「そうそう、環季に生徒会の仕事を一つお願いしたいんだけれど」


「何です? もめごとは嫌ですよ」


「もめているのは、いつもあなただけだと思うんだけれど。大丈夫、単なるお使いだから」


「ふむ、お使いですか。まあ、それならば」


「ほら、文化祭委員長の森くんに頼んでいたパンフレットの原本、出来上がったって印刷会社さんから連絡があったらしくて。それを彼と一緒に取ってきてほしいのよ」


 おいおい、どこが単なるお使いなのか。男子と一緒にどこかへ出掛けるなど、私にとっては全くの異常事態だ。


「どうして生徒会の私が一緒に行かなきゃならないんですか。森くんが独りで行けばいいのでは」


「それがね、なんでも見積もりが当初と少し違っていたらしくて。印刷会社さんの提示する価格でいいかどうか、生徒会にもその場で確認してほしいんだって」


「なるほど、最終的に先生たちと折衝せっしょうしなければならないのは私たちですからね。たしかに見積もりもらった後で訂正するのは面倒だし。うう、仕方がないか」


 ふうん、と白倉さんは一人合点にうなずく。


「大丈夫よ。森くん、最近彼女が出来たばかりだから。それに彼の好みは年下で背が低い子だというデータも入手しているし。まず、あなたに危険は及ばないでしょ」


 いや、別に私は森くんを異性として警戒しているわけではないのだが。一緒に書類を取りに行くだけで彼にれられて告られる、なんて考えるほど、私は自意識過剰でも自信過剰でもない。森くんのほうだって、仮にこの会話を聞いたとしたら、きっと仰天しかつ憤慨するに違いない。

 とどのつまりは、私が他人との付き合い全般に苦手意識を持っており、誰かと二人きりになるという事態に慣れていないだけなのだ。白倉さんは、自分が私にとって特別だという事を、今一つわかっていないのかもしれない。


「まったく、会長はどこからそんな情報を入手してくるんですか。やはりあなたは、虫を偵察機として使役しているのに違いありません。生物兵器なんて、条約違反ですよ?」


「もう環季ったら、くだらないこと言ってないで。今週の日曜日、十時頃に二人で行きますって、私から印刷会社さんに連絡入れておいたから」


「ちょっと、会長。日曜日って」


「だって、ウィークデーは私たちが夕方六時まで補講だから、会社さんはもう閉まってるし。今週の土曜日は全国統一模試で、これまた一日潰れちゃうでしょ。だから特別に、日曜日に事務室を開けてもらうことになったのよ。どう、私の根回しさすがでしょ」


 すっかり乾いた髪をブラシで整えると、白倉さんは服を着るために再びシャワー室に入る。扉越しに聞こえてくる彼女の得意げな鼻歌と、着替えの衣擦れの音とを、私は恨めしい気持ちで聞いていた。


「マジか、私服って。着ていく服がない……」


 まさかジャージ? ありえない。そんな格好で出かけたりしたら、森くんを介して翌日にはクラス中のうわさの種になっているのは必至だ。みんなにドン引きされるならともかく、笑いものにされるのは何としても避けたい。日曜日だろうと構わずに制服で行けばいいではないか、という意見もあるだろうが、休みの日でも制服しか着ない女、などといういかにもガリ勉女にふさわしい後ろ指をさされるのもやはり業腹ごうはらである。頭を抱えて悩んでいる私に、シャワー室から顔だけを出した白倉さんが、心配そうに声をかけた。


「うーん、環季が男の子と出歩くのにそんなに難色を示すとは。私が代わりに行こうか?」


「ば、馬鹿にしないでください! 私だって、陸と数回くらいは一緒に買い物に行ったことがあります!」


「……幸運を祈るわ」

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