名前で呼ばせてもらいます

 すっかり冷めたお茶を入れ直そうと、私は立ち上がりかけた。と同時に、部屋の扉がからりと開かれる。


「あ」


 噂をすればなんとやら、ニット帽をかぶった長身の男子生徒が、入り口で黙って私たちを眺めていた。やはり表情には乏しいが、初めて会った時のような私たちを拒絶する雰囲気については、影を潜めているように私には思えた。白倉さんは私の顔をちらりと見ると笑って立ち上がり、そんな彼に快活に声をかけた。


「お帰りなさい、金澤くん。待ちかねたわよ」


 お帰り、と白倉さんは言った。金澤くんが中学で生徒会長の職を全うして後の、久しぶりの生徒会活動に戻ってきたことに対する、お帰りなさいなのだろう。

 白倉さんのなにげない挨拶に、金澤くんは一瞬言葉に詰まったように見えた。笑顔を絶やさない彼女を彼は探るように見ていたが、やがて帽子を脱ぐと軽く頭を下げた。


「白倉会長、お世話になります。それに」


 金澤くんは顔を上げると、かたずをのんで見守っている私へと向き直った。


「八尋先輩、でしたね。金澤です。一年間ですが、よろしくお願いします」


 おお、見事にカウンターパンチを食らってしまった。初対面であれだけの悪印象を与えておいてからの、この素直な挨拶。私の反応を意地悪く楽しんでいるのではないかとすら、勘繰かんぐってしまうほどに。


「あ、あの、八尋です。た、環季と、呼んでいただいて構いません」


 どもるのも構わず、私は勢いのままに言った。お茶を飲みかけていた白倉さんが、むせてごほごほと咳をする。


「ちょっと。なにテンパってるのよ、八尋さん」


 金澤くんも、さすがに困惑した表情だ。


「どうしたんですか、いきなり。まさか、先輩を名前で呼び捨てなんてできないですよ」


「じゃあ。た、環季先輩で結構です。その代わり、私も金澤くんのこと、つ、司くん、って呼ばせてもらいます」


「待ってください、八尋先輩。どうしてそんなにお互いの呼び方にこだわるんですか」


「そ、その方が。君のこと、少しでも知ることが出来そうな、気がするから」


 白倉さんは一瞬ぽかんとしていたが、すぐに目を輝かせると、私と金澤くんを交互に見比べている。金澤くんは私の言葉の意図をはかりかねていたようであったが、私のしどろもどろの押しについに折れたようだった。


「……別に構いませんよ。ただし、先輩から僕への敬語はやめてください。組織ですからそういうのは大切ですし、部外者に聞かれたら変に思われますから」


 そして彼は小さくため息をつくと、きまりが悪そうにリュックを担ぎなおした。


「それじゃ俺、人待たせてるんで。お先に失礼します」


 金澤くんは私たちに一言もはさませることなく、風のように部屋を後にした。二人きりになった生徒会室で、私と白倉さんは憮然ぶぜんとして顔を見合わせる。


「え、もう行っちゃいましたよ。ちょっと会長、いいんですか」


「まったくせわしないわねえ、せっかく入れてあげたお茶も手つかずだし。せめて、ポテトチップスくらい食べていけばいいのに」


 ぴしゃりと閉じられた扉を眺めながら、白倉さんはふくれっ面だ。


「あの、会長。司くんは一体、何をしに来たんですか」


「挨拶、でしょうね。まあ、彼にしては上出来かな。それよりも八尋さん」


「なんでしょうか」


 白倉さんはふふんと笑うと、横目で私を見た。


「あなた、結構やるわね。君のことを知りたい、なんて男の子を下の名前で呼んじゃったりなんかして。はた目にも初々しくて、私の方が思わずときめいちゃったじゃない」


「い、いや。私、そんなつもりじゃ」


「金澤くん、格好いいもんね。ちょっと気になる?」


「誰がですか! 彼、今朝も女の子と一緒に通学してましたし。しかも、終業式の時に会った高森さんとはまた別の女の子ですよ。私、軽い人は嫌いです」


 私の告げ口に、白倉さんは眉を上げた。


「ん。金澤くん、女の子と一緒に登校してきたの? どんな子?」


「眼鏡をかけた、スレンダーな感じの。ああ、そういえば左の足が少し不自由なような」


 白倉さんは顎に人差し指を当てて考えていたが、やがてなぜか満足そうに笑った。


「ふうん、そうか。さすがは金澤くん、やることはしっかりやってるじゃない」


「なんですか、それ」


 振り向いた彼女は、私の顔をいたずらっぽく覗き込んだ。


「いいこと教えてあげようか。金澤くんって、すごく真面目ないい子よ。私が保証する」


 女の子をとっかえひっかえするような奴が真面目だなんて。たとえ白倉さんの保証付きであっても、こればかりは鵜呑みにするわけにはいかない。私は皿に残ったポテトチップスをまとめてかみ砕くと、帰り支度を始めた。とにかく新体制の生徒会はようやく始動したばかりである。まずは知ること、知ることだ。


 同じくバックパックに荷物を詰めていた白倉さんが、思い出したように顔を上げた。


「そういえば、八尋さん。聴いてみたわよ」


「え、何をですか」


「決まってるじゃない、エルミタージュよ。石田さんってパーソナリティーの人、面白いわね。みやじーさんも、二人そろって頭いいし」


 感動だ。やっぱり、ただの口約束じゃなかった。有言実行、白倉女史はやはり生徒会長のかがみである。


「そうなんですよ。本当に聴いてくれたなんて、会長は最高です」


「やあね、おおげさな」


 嬉しい。誰かとラジオについて楽しく会話ができるなんて、思ってもみなかった。


「それで会長。どのコーナーがお気に入りですか?」


 ひょっとして、「恋の試し書き」のコーナーだったりして。白倉さんだって女の子なんだ、夢見る乙女であってもおかしくない。もしそうであれば、彼女と恋バナの一つでもしてみるのも一興かも。うーん、青春だなあ。


「それは、やっぱり」


「うんうん、やっぱり?」


「断トツで『ブリーフ・ブラジャーズ・ショー』のコーナーでしょ。あのタイトルって、往年の『プリーズ・ブラザーズ・ショー』のパロディだよね」


「え」


 まさか、筋金入りのリスナーであるこの私ですら赤面する、あの下ネタのコーナーか?


「先週のネタ、八尋さん聞いた? すべての男は作詞・きょく家である、ですって! 石田さんが真面目な声で連呼するもんだから、もう、おっかしー。男の人ってみんな左に曲がってるのかしらね、あなた知ってる?」


 そんなの、私が知るわけないだろうが。金澤くんがこの場にいなくて本当によかった。おなかを抱えた白倉さんは、思い出し笑いが止まらない様子だ。わからない、白倉さんのことが私にはさっぱりわからない。


「あの。年頃の女性の方には、『恋の試し書き』のコーナーなんて、いかがでしょうか」


「ん。それって、終わる直前の最後の奴? ごめん、その頃には私ってもう寝落ちしちゃってるんだよね。ああ、だから私はテストで八尋さんに勝てないのか。あなたを上回るためには、そこまで頑張って起きて聴くべきかなあ」


「……いえ、無理にとは申しません」


 やはり白倉さんは、生徒会長の資質抜群だ。彼女に隠された天然の愛嬌ぶりは、私だけが知っている。

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