第二章 オリエンテーション

詐欺師だと思ったら会長だった件

 春休みに入って三日が過ぎた。しかし私の生活は休み前のそれと大して変わらず、向かっているのが教室の机か、それとも自宅の机かどうかの違いしかない。

 学校から出された課題は、昨日までに全て済ませてあった。休みに入るとまず初めに課題をクリアしておくというこの習慣は、提出物が残っていると気持ちが悪くて落ち着かないと感じる、私の厄介な性格によるものだ。進学を売りにしているわが校では、高二までに高校教育課程を一通り終わらせるカリキュラムになっており、高三に入ると受験までひたすら演習と模試を繰り返していくことになる。


 どこで勉強しようとも、私は独りだ。いや、違うな。自宅では、私のかたわらには常にラジオがある。欠かさずに聴いているのはもちろん午後九時からのバラエティ番組「エルミタージュ」だけれど、昼は昼でこうして雑に音楽番組を聞き流すのも悪くない。じんわりと温かい三月の日差しが照らす私の部屋を、まだ冷たさを残した風がさらりと横切っていく。いましも流れてきた往年のシティポップミュージックが、私をこの閉ざされた世界から連れ去ってくれそうな。


 突然、私は後頭部に痛みを感じて振り向いた。そこには、丸めた雑誌を手にした我が弟が、なにやら怒鳴っている姿があった。私はイヤホンを外すと、私を現実に引き戻した憎らしい張本人をにらんだ。


「あいたー。何すんのよ、りく。今の衝撃で単語の四、五個ほども吹っ飛んだじゃない。責任取って、代わりに覚えろ」

「馬鹿姉貴。何度も呼んでんだから、返事くらいしろ。まったく、昼間から飽きもせずにラジオ三昧ざんまいかよ」

「ふん。脳みそが陸上競技で出来ている奴には、この至福の時間は理解できないでしょうね」


 弟は苦々し気に私を見下ろしていたが、何かを思い出したようにドアの外を振り返った。


「おっと、姉貴と無駄に話してる場合じゃなかった。友達が来てる」


 あんたの友達が来たからといって、私にどうしろというのだ。寝起きのままのジャージ姿の姉を見られると自分の恥になるから、この部屋にこもっていろとでもいうのだろうか。ちぇっ、わざと出て行って嫌がらせしてやろうか。


「陸、友達呼んだの? お母さん、それ知ってるんでしょうね。勝手に家に入れたりなんかしたら、怒られるんだから」

「俺の友達じゃねえよ。姉貴の友達だって言ってたぜ」


 私は鼻で笑った。私の友達などと名乗ったのか。しくじったわね、詐欺師さん。私に友人の一人もいないことは周知済みの我が家では、そんな嘘は一瞬でばれてしまうのに。それにしても、最近の詐欺師は電話やメールではなく、直接家まで押しかけてくるのか。怖い時代になったものだ。


「ふうん。試みに問うけれど、その人、なんて名乗ったの」

「白倉と伝えてもらえればわかると思います、ってさ。あの人、高等部の生徒会長の人だろ? わかるも何も、中等部の俺でも知ってるくらいの有名人じゃん」


 私は陸の言葉が終わるのも待たずに椅子からはね降りると、よれよれのTシャツとジャージを脱ぎ始めた。こんな姿、白倉さんに見られるわけにはいかない。それにしても、どうして私の家に彼女が。慌てふためいている私を陸が面白そうに眺めている。


「姉貴の友達なんて今まで一人もこの家に来たことがなかったのに、それがいきなり生徒会長って。姉貴、本当に白倉先輩と友達なの?」


 返事の代りに、私は枕を投げつける。


「急いで着替えなきゃならないんだから、早く出てけ!」


 陸は私の渾身こんしんの一撃をたやすくキャッチすると、それを部屋の片隅に投げ捨てた。


「まだ寝起きなので少し時間をください、って言っとくからさ。早く玄関に降りて来いよ」

「余計なこと言ったら殺す」


 白倉さんと友達かと問われれば、そうではないと答えるしかない。生徒会での仕事上の付き合いだとしても、まだあまりに浅すぎる。それでも彼女は、私の友達だと名乗って訪問してきてくれたんだ。にやけ顔を押し殺しながら、私はあたふたと私服に着替えると、急いで階段を降りた。我が家の土間では、陸と制服姿の女子が談笑している。


「あ」


 その女子生徒は階下に姿を見せた私に気付くと、小さく片手を振った。


「こんにちは、八尋さん。ちょっとこの近くに用事があったから、ついでに寄ってみたんだけれど。自宅にいてくれて良かったわ」


 長い黒髪に魅惑的な猫目、やはり白倉さんだ。私の頭の中が、なぜであふれる。なぜ、私の家がわかったのか。なぜ、私の家を訪問したのか。それに何より。


「こ、こんにちは、会長。今、春休みですよね。私が勘違いして、一人だけ春休みだと思い込んでいるわけじゃないですよね」

「いやいや、確かに今は春休みであってるよ」

「だったら。なぜに、制服姿なのですか」


 白倉さんは、制服のスカートのすそをちらりと持ち上げてみせた。陸が一人前に、顔を赤くしてそっぽを向く。年上の色香にやられたか、このませガキが。


「ああこれ? いや、学校の仕事の時は制服じゃないといけないかな、と思って」


 学校の仕事。白倉さんのそれは、恐らく生徒会長の仕事のことなのだろうが。


「会長。春休み中も生徒会活動をしているんですか」

「まあね」


 そんなばかな。校舎は今の時期は閉鎖されているし、部活動も自主練習のみで公式活動はおおむね停止している。黙って硬直している私に向って、陸が言った。


「姉さん。せっかく白倉先輩が来てくれたんだから、部屋に上がってもらったら?」


 何が姉さんだ、猫かぶりやがって。あんたの私に対する呼称は姉貴でしょうが。


「いいのよ、陸くん。お母様もご不在なんでしょ?」

「問題ないですよ、先輩。生徒会長が自宅に遊びに来てくれたのに、うれしくない親なんていませんから。どうぞ、上がってください」

「ちょっと、陸。何、勝手に仕切ってるのよ」


 しかし、弟の話にも確かに一理ある。他の誰も足を踏み入れたことのなかった私の部屋を生徒会長が訪れたなどと知ったら、私の交友関係を嘆いていた両親は、それこそ泣いて喜ぶかもしれない。

 それに深謀しんぼう遠慮えんりょの会長のことだ、偶然に思い出して私の家に寄ってみた、などという事があるはずもない。彼女の行動には、どうやらすべてにきちんとした理由があるらしい。私に何か用件があって、わざわざ訪問したと考えるべきだ。


「あの、会長。もし時間があるんだったら、陸の言う通り、私の部屋で少し休んでいきませんか」


 白倉さんの瞳がきらりと光った。


「本当? 口では遠慮しておいてなんだけれど、実は学年成績トップの人の部屋ってすごく興味あるのよね。私と何が違うのかしら、なんてね」

「裏返しのパジャマやら下着やらが乱雑に散らばっている、汚部屋ですよ?」

「陸、ふざけたこというな! 会長が本気にするじゃない!」


 白倉さんはけらけらと笑った。


「あら、陸くん。生徒会長に何か夢見てるかもしれないけれど、私も雨の日なんか、部屋の中に下着を干したりするわよ。一度見に来る?」


 今度こそ陸は真っ赤になってうつむいてしまった。ざまあみろ、あんたが白倉さんに秋波しゅうはを送るなんて、文字通りに十年は早いわ。

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