第57話 過去の果てに

 ぽちゃり、真っ白なキャンパスが水面を突かれたように歪み、元の正常な景色を取り戻して行く。


 現実の時間にして、凡そ一分にも満たない時間旅行は終わりを告げ、ルードリヒは苦虫を噛み潰したような苦渋の表情を浮かべながら口を開いた。


「……私は、妻のエレノーラを殺した後、研究会への忠誠心を示すべく自身が彼女の業務を引き継いだ。だが、娘を二度と暗部に関わらせぬようエンペルト家へと養子にくれてやったのだ。私と関わっていたら、いつか組織に引き込まれるだろうからな」


「娘を守りたかった、ということか」


「それだけではない。あの子は、母親を私と同じか、それ以上に愛している。あの子の気持ちを美しい思い出として飾っておくには、この秘密は墓場まで持って行く必要があった。だから、魔王……。殺す前に……」


「皆まで言うな。我は慈悲深い。例え、同胞を搾取し貪る巨悪の一角であろうとも、無関係な者を無闇に痛ぶるような真似はせん。ただし、貴様にはそれ相応の報いを受けてもらおう」


 魔王は細くも硬い黒剣をルードリヒの枯れた枝のような脆弱な首に添えた。喉元に当てられた冷たい感触は迎えにやってきた死神の鎌にも見え、自分自身がこれから容赦なく処刑される未来をルードリヒ自身へと容易に想像させた。


「貴様の記憶は既に読み取った。貴様の知り得る限りの同胞たちの居場所はこれから魔王軍全体に周知され、やがて解放されることだろう。よって、貴様はこれで用済みだ」


「いいのか? 私を活かせば、研究会の潜伏場所や実験データの詳細も得られるやもしれんぞ?」


「貴様がこの場で正体を明かした時点で、もはや無意味なものだろう。加えて、我々は最初から研究会のデータなどどうでも良い。我らの目的は、魔族という種族の再興だ。その過程において、貴様のようなマッドサイエンティストは無用の長物」


「……打つ手なし、か。なれば、せめて一思いにやってくれ。娘には正体を知られたからな。娘から恨み言を言われるのは御免だ」


「……せめてもの慈悲として、受け取るが良い」


 無情な赤い双眸がギラリと光ると、彼は切先を高々と天に向けて掲げた。それを止める者はいない、いや止まられる者がいない。今ここで手を出せば、自分たちが同じ運命を辿ることを誰も彼もが理解しているからだ。


 そして、目を見開いた魔王は息をする間もなく剣を振り下ろしたその時だった。


「待ってくれ! お願いだ!」


 ルードリヒの首を刎ねる直前で剣は止まり、二本の紅色の月光が声のした方向へと向けられた。そこに立っていたのは、ルードリヒを一番恨んでいるはずの存在、イオナ・エンペルトだった。


 ……。


 魔王とルードリヒの戦いが始まる直前まで、時は遡る。イオナは壁に埋もれたユイナを救出すると、傷ついた彼女の介抱を行っていた。


「クソ、こんなひでえことしやがって……。大丈夫だ、まだ意識はある」


 イオナは自分の制服の上着をビリビリと破り、彼女の出血箇所や骨折箇所へと巻いて応急処置を済ませる。本来なら救護室へと剥がしたいところではあったが、イオナ自身も魔力切れな上にユイナとの戦闘の傷が癒えておらず、人ひとりを運ぶなど到底不可能だった。


「不甲斐ねえ……。友人一人、助けられねえなんて」


 目の前で横たわる彼女の目からは、レンズ越しでも傷がよく映るほどに透明な涙が溢れていた。友達であるイオナから見て、ユイナが単に痛めつけられた程度でこんな風になるなど考えられなかった。


 何やら外の方が騒がしいが、構うものか。イオナはユイナの傷を処置することに集中する。


「魔王の奴……。ユイナの心まで、弄びやがった」


 あちこちを骨折させ、流血で肌を染め上げるほどに傷つけた挙句、心までズタズタに引き裂いた。そのことが許せず怒りで脳の内側が沸騰しそうだったが、それ以上に、こんな姿にした友人の敵を打てるほど自分が強くなく、立ち向かう勇気すら残っていなかったことに体を引き裂かれそうなほどの悔恨を覚えていた。


「……あれには、どうやったって勝てねえ。ユイナが一方的に遊ばれた相手だ、勇者でも連れて来ねえ限りは……」


 こんなの、自分が弱いことに対する単なる言い訳に過ぎない。そんなこと分かっていても、自分が立ち向かわない理由を正当化できなければ自分までユイナとの同じ運命を辿りそうなことが、同時にどうしようもなく怖かったのだ。


 自分の醜い心と葛藤するのを諦めていたその時、魔王の前に一人の影が降り立ったのが目に入った。


「……あれは、お父様! 何故、お父様が魔王と……!」


 こうしてはいられない! イオナは反射的に立とうとしたが、全身が今にも砕け散りそうな痛みが走りその場に留まってしまう。


(クソ、やっぱり今のあたしには……。でも、お父様なら、あるいは)


 イオナはルードリヒに対して、シャボン玉のように突けば消えそうなほど脆い希望を抱いていた。かつて、王国最強と呼ばれた男ならばあるいは勝てるのではないのか。


 頑張れ、お父様。そう心の中で応援しかけた直後、ルードリヒが自身の剣を捨てた時は気でも狂ったのかと思ったが、彼の手にイオナにも見覚えのある剣が握られたのを見て脳内が真っ暗な闇に包まれた。


「何故、お父様があの剣を……。あれは、魔剣グレイプニル」


 イオナが見間違えるはずもなかった。何故なら、あの魔剣はイオナの母が持つ彼女の家から伝わる家宝のはずなのだから。


 そして、母親殺しの犯人は魔剣グレイプニルを持ち去っていることをイオナは知っている。そして、イオナの中で想定し得る最悪の仮説が成り立ってしまう。


「まさか、お母様を殺した犯人は……。お父様?」


 いや、そんなはずがない。イオナは自分の考えを即座に否定したが、徐々に体の中から魔力を吸い取られていくのを感じて思考を中断せざるを得なくなる。


「これは……。魔剣に、魔力を吸い取られてる……? まずいぞ、あたしは大丈夫だが、ユイナがこれ以上魔力を失ったら……」


(確か、魔剣グレイプニルの特性上、近くにいればいるほど強い影響を受けるはず。なら、ユイナを遠ざけて私が近くにいれば気休めくらいにはなるか)


 これで対戦相手の魔王も疲弊すれば良かった、しかし、いざ戦いが始まってみれば単なるワンサイドゲームだった。


 ルードリヒの攻撃は尽く弾かれ、やがて魔王が手を下すまでもなくその時は訪れた。ルードリヒの全身から川を作るように血が流れ出し、地べたに小さな湖を形成し始めていた。


 早急な応急処置が必要となる中、剣を持つことすらも困難となった彼の首に魔王の魔の手が伸びた。何やら問答を繰り広げているが、会場の端っこである位置からは何を話しているのか聞こえない。


(でも、このままいけば……。お母様の敵を、ようやく殺すことができる)


 確かに、父親が母親殺しの犯人だったかもしれないことはショック以外の何物でもなかった。ただ、復讐のために強さを求めてきた自分からすれば、ここで長きに渡る復讐劇に終止符を打てるのなら、それでも良いと思った。


(もちろん、証拠なんてない。でも、犯人がずっと目の前にいたことを考えれば、捕まらなかったことにも説明がつく。これで、ようやく終わるんだ)


 魔王の持つ黒剣が天へと掲げられた。断頭台に立つ母親殺しと死神の姿が目に映り、振り下ろされる黒い軌跡がイオナにとってはスローモションにも見えていた。


 このまま何もしなければ、ルードリヒは死ぬ。


 彼女の抱いていた憎しみとは裏腹に、彼に頭を撫でてもらったり、優しい言葉をかけてもらった記憶が蘇ると、もういてもたってもいられなかった。


「待ってくれ! お願いだ!」


 自分でもどうしてこんなことをしたのか分からない。しかし、このまま殺されてしまっては後悔することだけは直観的に理解したのだ。


 魔王は乱入してきた不届き者に心臓を握り潰されそうなほど多大なプレッシャーを乗せた殺意を向ける。必死に口を動かすが、呼吸することすらも困難な彼女はただ空気を味わうのみで反論一つできはしない。


 それでも、このままではいけないと自分を叱咤激励し、負けじと魔王を睨み返した。それを見た魔王は不遜だと切り捨てることはせず、むしろ不適な笑みを浮かべて剣を下ろした。


「面白い。小娘が魔王に刃向かうとはな。何が望みだ?」


「……お願いします。父を、解放してください。その人は、母親の仇かもしれない。でも、私を育ててくれた大切な人なんだ。私は、この人から真実を問い正さなければいけないんだ」


「なるほどな。結論から言う。貴様の母を殺したのは、この男で間違いない」


「……っ!」


「付け加えれば、こやつは魔導叡智研究会に所属する研究員でもある。国の暗部に潜む組織の一人が実の父親で母親殺しとは傑作だな」


「……それは、本当なのか?」


 イオナの問いかけに対して、彼は悪辣極まる笑みを浮かべたルードリヒは「そうだ」と答えた。


「お前の探していた母親の仇とは、私のことだよ。ようやく会うことができたな、イオナ」


「どうして……。どうしてお母様を殺した!」


 涙交じりの慟哭が試合会場全体に響き渡るも、まるで鉄でできた体を操るかの如くルードリヒは「ふん」と冷たく一蹴して淡々と告げた。


「お前も知っているだろう? 魔剣グレイプニルは妻の持っていた家宝の中でも特に優れたアーティファクトだ。だが、あやつが持っていても使い物にならん。故に、譲って欲しいと頼んだが、それは大事なものだからと拒んだ! だから殺した! 己の力のために、私はエレノーラを葬ったのだ!」


「……! お父様が、そんな人だったなんて……」


 イオナは悔しさと憎しみ、そして失望感で崩れ落ちそうになるのを奥歯をグッと噛んで堪えた。目の前に母親の仇がいるのだ、こんなところで無様に倒れるわけにもいかない。


 その様子を見ていた魔王は、意味ありげに口の端を吊り上げるとイオナにとある提案をする。


「ならば、どうだ? この男を、貴様の手で殺して見せよ」


「……いいのか?」


「ああ。祭りの余興、その締め括りとしては十二分だろう。母親の仇である父をその手で殺し、復讐を果たすが良い」


 魔王は持っていたルードリヒをイオナの足元に放ると、自身の魔力で生み出した黒い短剣をイオナの手元へ投げた。イオナはそれを起用に受け取ると、短剣の柄を憎しみを込めるようにしっかりと握り締めた。


 憎しみに燃える彼女の表情が、まるで心を映す鏡ような短剣の刃に反映して黒く光った。そして、目の前で横たわる父親の喉仏に狙いを定めて両手で短剣を支える。


 彼女が手を下さなくとも、もはや虫の息となった彼は抵抗する気もないらしい。眼前に構えられた黒点が揺れ動くのを静かに見守っていた。


「……よく狙うのだ、イオナ。それでは狙いを外すぞ」


「分かってる……。あんたは、仇なんだ。絶対に、殺してやる」


「そうだ、私はお前の母の仇だ。普段の私なら魔剣の力を持つが故に殺せないだろう。だが、今はもう魔力もなければ戦う力も残っていない。千載一遇の、好機だ。……さあ、殺せぇ!」


 イオナの心の中で、憤怒の悪魔が甘く囁く。敵を殺せ、敵を殺せ、これこそが今まで狙ってきた絶好の機会だと。


 それでも、彼女の手の震えが止まることはなかった。敵を殺すことができる瞬間が訪れて打ち震えているのか?


 いや、違う。彼女だけは、理解していた。


 これは、恐怖による震えだ。仇とはいえ、自分を大事に育ててくれていた実の父親を失うのはやはり怖い。


 脚色された幼い頃の記憶が、燃え上がる復讐の炎が燃え広がるのを阻害している。今すぐにでも殺してやりたいのに、自分に向けてくれた温かな笑みや太陽のような優しい眼差し、どこまでも広い青空のように大らかな手のひらの感触も、全てが偽りだったのだとはどうしても思えなかった。


「……あ、あぁ」


 涙で視界が霞むと余計に狙いが定まらなくなる。故に必死になって涙を止めようとするも虚しく、堰を切ったように止めどなく溢れて止まらない。冷たい柄を強く握れば握るほど、自分の心を締め付けているかのように痛くて痛くて堪らない。


 最後の最後まで、彼女は自分の震えを止めることはできなかった。


「どうした? さっさと、殺せ! イオナ!」


「あ、あぁ、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 イオナは父親に背中を押されると、最後の一押しに絶叫を上げることで雑念を振り払った。もはや何も考えることはない、ただ自分の過去諸共、父親の喉仏を切り裂き決別するのだ。


 そして、この場に彼女を止められる者はいなかった。魔王の御前では、彼の行動が、趣こそが正義なのだから。


 そして……ドロドロでぐちゃぐちゃになった歪な悪感情を固めた黒い刃が、無造作に振り下ろされた。

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