第56話 ルードリヒ・アーノルド

 真っ白なキャンパスの中に放り込まれた魔王が辺りを見渡していると、視線の先にポツンと大きな洋館が建っているのが見えた。王国貴族なら当たり前に住んでいそうな様相の、しかし一般庶民にとっては無縁なごく普通の館である。


 前に進んでいるわけでもなく、後ろに戻るわけでもなく、勝手にムービーを再生されているかのように洋館の中へとすり抜けるように招かれる。そこでは、母、父、そして幼い娘の三人が仲睦まじく談笑している光景が広がっていた。


『私ね、大きくなったらパパより凄い剣士になるんだ! それでね、今日もパパにお稽古してもらってたの!』


『あらあら、イオナは勉強熱心で偉いわね。パパは今でこそ教員なんて剣術とは無縁そうな仕事をしているけれど、一度は国一番の剣士に輝いたこともあるのよ? この先、目指すなら相当険しい道のりになるけど頑張れる?』


『当然だよ! だって、パバとママの子だもん! 辛いこともあるだろうけれど、頑張れるもん!』


『ははは、イオナは才能があるからな〜。パパ、もしかしたら簡単に追い抜かれちゃうかもな』


『あなた、調子良いこと言わないの。でも、そうね。イオナには確かに才能があるものね』


『……? ママ?』


『ううん、何でもないの。イオナ、パパを喜ばせてあげるためにも頑張ってね』


『うん! パパより強くなって、パパを倒して親孝行するんだ!』


 そんな光景を見ていた魔王の隣に、現在のルードリヒが並び立った。彼はとても懐かしむように柔和な笑みを浮かべてはいたが、どこか複雑な感情が織り混ざっている感が否めない。


「……これを見て、どう感じた? 魔王」


「少なくとも、イオナの母は嘘を言ってはいないな」


「そもそも、私たちの親子関係についてはどこまで知っている?」


「どこまでも。イオナ・エンペルトは幼少の頃に母親を亡くして以降、現在のエンペルト家に引き取られた。それまでは、アーノルド家で暮らしていたこともな」


「そして、私が研究会に加担している事実すらも見抜いていた。流石だな、魔王」


「世辞はよせ。それより、貴様の母親は何を隠している?」


 魔王は話の途中、不自然な笑みを浮かべたり、変な会話の間を取ったりしていた。それに加えて、ルードリヒに視線を二度、三度送っては会話を意図的に誘導していたようにも思える。


 顔すら合わせたことないはずなのに、会話の一挙手一投足からそこまでの情報を読み取った魔王にルードリヒは関心して短い唸り声を上げた。元々、隠すつもりもなかったらしく、観念したというより「こいつには敵わない」という意味を込めた笑みを浮かべて口を開く。


「話せば長くなるぞ。そもそも、妻と出会ったのは、私が国の剣術大会で優勝した時のことだ」


 背景が切り替わると、今度は大きな闘技場へと移動していた。野球のファンが押しかけた時のようなドーム会場の中心で、沢山の声援と拍手に包まれながらそれに応える青年の姿があった。


 彼の手には金色のトロフィーが抱かれており、今現在進行形で勝利の女神の祝福を受けている場面だったらしい。


「これは、優勝した際のトロフィー授与の場面だな。この頃の私は、努力すれば何でも叶うと思っていた。元々、私の家は家族の中でも割と庶民に近しいものでね。私の優勝をきっかけに、アーノルド家も貴族としての格が上がったのは記憶に新しい」


「だが、それも井の中の蛙の話……」


「本当に、何でもお見通しなのか? その通りだ。私は、世界を知らなさ過ぎた。勇者候補、勇者、剣聖……。奴らは、私の力など到底及ばない化け物ばかりだ。こんな大会に参加していないからって、それが弱いわけではない。むしろ、表立って目立たないからこそ強いとも言える。貴様のようにな」


「……」


「話を戻そうか。そんな時、声をかけてきたのが妻のエレノーラだった。彼女は、私に……」


 ルードリヒの役目を引き継ぐかのように場面が変わると、そこには戦闘で打ちのめされた後のルードリヒと一人の女性が立っていた。赤い獅子のような髪を持った彼女は、破壊された剣の破片を踏み抜きながらボロボロになって地べたに這いつくばる彼に近づいた。


『情けない。こんな無様に負けた上に、立ち上がることすらしないとは。これが、王国最強とは笑わせる』


『……かもな。私は、所詮は奴らにとっては塵芥に等しい。大会での優勝など、何の意味もない。必要なのは、何者にも負けない絶対的な強さだけだ』


 しかし、彼にはもはや一人で立ち上がれる力など残っていなかった。いくら罵られようと、彼女の言うことは紛れもない真実であり、ルードリヒ自身もそれを受け入れてしまっているからだ。


 果てしなく暗く、そして冷たい絶望へと身を浸した彼はもう自力でそこから這いあがろうなどとは思えなかった。いっそ、このまま運命に身を任せて消えてしまえたらどれだけ楽だろうとすら考えていた。


『……本当に、情けない。なら、私が起こすのを手伝ってやるよ』


『……っ』


 ふと、ルードリヒの冷え切った体にほんのりと暖かな光が宿った。彼の指先に触れていたのは、彼女のか細くも白い手だった。


 見た目はとても冷たそうだが、実際はとても暖かくて、眩しくて、凍りついた体を段々と溶かして解していくかのような慈愛の御手だったのだ。


『……あんたは?』


『私は、エレノーラ。魔導叡智研究会の第三位階の称号を賜る研究員だ。あんたを強くしてやる。この私の、力でね』


「これが、私とエレノーラの馴れ初めだ。私は彼女の被験体として研究会に迎え入れられ、彼女の研究に協力する対価として圧倒的な強さを貰うことにしたのだ。私の持つ魔剣グレイプニルも、元々は彼女の魔力研究の過程で作り出された産物だ。表向きは、古代より伝わる家宝として扱うことで研究会との関わりは否定していたがな」


 また場面が切り替わると、今度は魔族の収容されていると思われる監獄のような施設に場面が移った。血臭と腐臭が漂うほぼ闇のような空間に、家畜と成り果て狂った魔族たちの爛々とした瞳が檻の間から輝く。


 ある者は既に正気を失っているらしく絶叫を上げたりもしており、まさに阿鼻叫喚といった地獄と化していた。百鬼たちの住み着くこの空間内で、最も地獄の鬼に近しい存在は……彼らを恋したような眼差しで以って恍惚とした笑みを浮かべて頰を赤るエレノーラだった。


『素晴らしい……。今日の研究も順調だ。そうは思わないか? ルードリヒ』


『うっ……』


 鼻が曲がりそうなほど酷い臭いと、耳をつんざく絶叫が三百六十度から反響して聴こえてくる空間で気分が悪くならない方が異常だ。胃の中のものが逆流して来るのを必死に抑える彼は、人として正常な反応を示していると言える。


「いくら、魔族が家畜だと教わってきたとしても当時の私には耐えられなかった。犬や猫を飼い慣らすことはあっても、普通は虐待や殺しには忌避感を覚えるものだろう。中には、そういったことを是とする人種もいるがね」


「それについては、否定しない」


「意外だな。こんな発言をすれば、怒り狂うのではないかと思ったぞ」


 魔王はどこまでも冷静だった。まるで熱しても形を止める時の止まった金属のように、彼の心はほんの数ミリ単位ですらも揺れ動くことはなかった。


「野蛮人どもと同列に扱うのは辞めてもらおう。我は少なくとも、今の世界では我々魔族が人権を主張するのは難しいと考えている。だが、その時代も今日を境に変わり始める」


「……貴様の考えることは読めんな」


「当然だ。貴様如きが、知る必要もない。それで? ここは、魔族を単に収容する施設ではないのだろう?」


「そうだ。ここでは、魔族たちから採取した血液やDNAから人間を魔族のような強靭な肉体、長い寿命、そして高い魔力適性を得るためのサンプルを保管していたのだ。彼女も組織内の地位としてはまだまだ下っ端だったが、いつも研究成果を上げるために仕事をしていた。そして、私はその血やらDNAやらを打たれては魔力強化実験に付き合わされていたよ。見てみるか?」


「老害の苦しむ様など興味もない。話を前に進めるがいい」


「……そうだな。そうするとしよう」


 そして、再び場面が変わると、今度はどこかの研究室らしき部屋になった。その椅子に座るエレノーラのお腹は、ボールみたいに大きくなっていた。


「私とエレノーラはいつしか肉体関係も持つようになり、イオナを授かった。研究会での実験と実戦を繰り返す日々は辛かったが、彼女と一緒だったからこそ乗り越えて来れたと言える。私は、イオナを大事に育てると決めていた。それは、私のように闇に染まるのではなく、太陽の下を胸を張って走り回れるような子に育てたいと本気で願っていた」


「同胞に随分と手厚いもてなしをしてくれていたみたいだが、父親としての心は待っていたと?」


「一つ言っておくが、我々は正しいことをしている。魔族は我ら人族にとっては脅威だからこそ虐げる。そして、家畜としての利用価値を見出し、利用する。これも全ては、貴様がかつての大戦で敗北した結果が招いたことだ。そうだろう?」


「ああ。それを否定するつもりはない。単なる皮肉だ」


「ならいい。貴様は勝手に私の過去を覗きに来たのだ。ならば、最後まで見て行くがいい」


 再び場面が切り替わると、今度はルードリヒとエレノーラの寝室に移った。そこでは、悪魔的な笑みを浮かべたエレノーラが衝撃的な提案をルードリヒにしている場面だった。


『イオナを被験体にする。あの子から血を抜き取り、ルードリヒ……。あなたに注射する』


『何を言っているんだ、エレノーラ?』


 ルードリヒは、彼女の発言を理解することができなかった。実の娘を自分を強くするための実験体に据えるなど、正気の沙汰ではなかったからだ。


『魔族と人族のDNA適応率は数%未満だ。その数値も定かではなく常に不安定、時と場合によっては0ということもある。しかし、血縁関係にあればDNAの相性の問題は解決されるだけでなく、あの子の力であなたの持つ本来の力を呼び起こせる』


『待て! あの子にはまだ未来があるんだぞ! 夢だってある! あの子の気持ちを、尊厳を、母親である君が踏み躙る気か!』


『あなたがどう言おうと、別にどうでもいい。私は、私自身の研究を完遂できることが市場の喜びなの! そのために! あなたと結婚して子供を作ったのだから! あははははははは!』


 そこに立っていたのは、イオナの母親としての人格ではなく己の欲望に取り憑かれた強欲な魔女だった。相容れない思想を抱く彼女に潜在的な恐怖を感じつつも、このままではいけないと考えたルードリヒは密かに彼女を殺すことを決意する。


 そして、その時は訪れた。イオナに手をかけようと計画を立てていた彼女をフードの男が殺害した場面だ。


『あなたが、何故……。強く、なりたかったのでは……』


『私は、自分が強くなることよりも大事なことができたのだ。君と研究を共にすることで、君を愛し、そして娘を愛した。だが、君は違ったみたいだがね』


『……地獄に、落ちろ』


『きっと、すぐに追いかける。私も、目的を果たすために色々なものを犠牲にしてきたからな。だが、あの子だけは守り抜いて見せる。君とは、違うのだ』


『……』


 恨み言を吐いた彼女は、それを最後に事切れた。糸の切れた人形のようになった愛する妻を前に、ルードリヒは一人静かに頰を雫で濡らしたのだった。

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