第40話 幕間 あたしの覚悟

 彼女は幼少期から無邪気で、とても快活な性分の持ち主だった。両親の仲も円満で、きっと周囲からは理想的な家庭環境に見えたことだろう。


 事実、彼女……イオナ・「アーノルド」も当時はアーノルド家の長女として生まれたことを、とても幸せに感じていた。父はとある魔法剣術学園の講師、母は忙しい父に代わってイオナの面倒をよく見てくれていた。


「イオナ、今日の晩御飯はお牛さんのお肉を使ったシチューよ」


「やった! ママの作るシチューはね、とっても柔らかくて、ホカホカで、凄く好き!」


「喜んでくれて嬉しいわ」


 柔らかく微笑み、イオナと同じ髪色を持つ聖母のような姿の女性はイオナの母親だった。彼女は生まれながらに体が弱いせいで家の中を移動するのもやっとだが、料理を作ることは何があっても怠らなかった。


 料理を作るのが好きというのもあるが、一番は娘のイオナが喜ぶ顔を見るのが好きだからだ。大好きな娘が笑顔でぴょんぴょんと兎みたいに飛び跳ねながら、ちょこちょこ動き回るのが思わず抱きしめたくなるくらい可愛らしいのだ。


「ただいま」


「あ、パパが帰ってきた! お帰りなさい、パパ!」


 玄関から一直線にキッチンへとやってきた父親をイオナは小走りで出迎え、お仕事で疲れ切っているだろう健脚にひしっとしがみついた。彼女の父親は硬くて逞しい手の平を小さな頭が潰れないよう優しく乗せ、よしよしと頭を撫でた。


「イオナ、良い子でお留守番できたかい?」


「うん! 今日はね、あたしの大好きなシチューだったからね? パパのために、私が一生懸命守ってたの」


「そうか、イオナは偉いな。なら、一生懸命守ってくれたシチューを大事に食べなきゃな」


「うん! 早く皆んなでご飯食べよ!」


「もう、イオナったら。あまりはしゃぎすぎて、パパを困らせないでね」


「分かってるよ!」


 いつも笑顔の花が絶えることのない、温かくて居心地の良いまさに理想的な家庭だった。きっと家に上がれば誰もが、こんな風な家庭を築いて行きたいと思えるような幸せな家族の絵が……。


 別の日、今日は父から王国流剣術の稽古を受ける約束の日だった。お屋敷のすぐ傍に構えられた広い庭で、二人は模擬剣を持って構えていた。


「イオナ、今日こそはパパから一本取れるかな?」


「取れるよ! 私だって、日々鍛錬は欠かしてないもん!」


「パパは強いぞ〜? 何せ、一度はこの国一番の剣士にまで上り詰めたからね」


「あれ? 一番は剣聖さんって言ってなかった?」


「あれは確かに王国所属だけど、何百年も前から生きてる人だからノーカンなの。王都に自分の道場を構えてはいるけど、殆ど在留せずに世界各地を飛び回っているらしいし、そういう意味では王国一番はパパなの」


 実際、彼の言っていることは正しい。剣聖は王国所属、しかし世界中を飛び回っては魔物や魔族によって引き起こされる災害から人々を守り続けている。


 なので、今ではこの王国に所属しているかどうかもグレーなゾーンであり、剣聖の自由奔放で気ままな性格に振り回されているのが現状だ。


 そしてイオナの父は、十五年も前に一度王国一の剣術大会での優勝経験がある。たった一度とはいえ、その地位に上り詰めるには並々ならぬ努力と才能が必要であり、事実彼はその両方を持ち合わせていた。


 今では王国最強かどうか定かではないが、そうまでして王国一を言い張る理由は幼いイオナですらよく分かっている。


「うーん、つまり見栄を張りたいってこと?」


「ぐはっ!? 我が娘ながら手厳しい……」


 可愛らしくも無邪気な娘による容赦なき言葉の刃が、彼の心をグサリと抉った。聡明なイオナによる的確な言葉選びにより苦悶の表情を浮かべるも、愛する娘の言葉ならとすぐに立ち直った。


「だが、言われてばかりの男ではないぞ! パパはね、本当に強いんだから」


「知ってる! でも、そのパパを超えれば、私が最強ってことになるよね!」


「流石はパパの子! 威勢は凄く良いな! だが、勢いだけじゃ勝てないぞ!」


「やってみなきゃ、分からないよ!」


 そして今日も、金属が踊るようにぶつかり合う元気な音と楽しそうな笑い声が庭中に響く。それらは丸々三時間ほど止むことはなく、静かになる頃にはイオナは地面に大の字になって視界いっぱいに太陽の光を浴びていた。


「また勝てなかった! 悔しい〜!」


「はは、まだまだイオナの力ではパパには勝てんよ」


「何で何で? どうしてパパはそんなにも強いの?」


「何でだろうな〜?」


 彼はわざとらしくはぐらかして、知りたがりのイオナが悔しそうにしてる顔を見て悪戯心から湧いてくるニヤニヤが止まらない。


 しかし、いつもならここで終わる彼もこの時ばかりはおちょくるのを止めた。流れを理解していたイオナは、彼の様子が違うことに首を傾げて疑問符を浮かべる。


「どうしたの? パパ、いつもならおやつにしようって言うのに」


「……強くなる秘訣、教えておこうかと思ってな。イオナくらいの年齢になって、私も自分の師から強くなる方法を教えてもらった」


 彼はイオナの目線と重なるようにしゃがんで瞳の位置を調整すると、彼女の可愛らしくも小さな頭にゴタゴタとした手を置いた。


「強くなる秘訣、それは何かを守りたいと思う心だ。家族、友達、仲間、夢、希望、野望……。それが良いものであれ、悪いものであれ、人が一生でこれだけはなさなければならない、成し遂げなければならない、あるいは添い遂げなければならないと思うものがある人間は強い」


「……どういうこと? もっと分かりやすく言って」


「ははは、イオナにはまだ難しかったか? だが、いずれお前にも絶対に守りたいと思えるものができる。そうしたなら、あとはひたすらに鍛錬することだ。一生に得難いものほど、失うときは一瞬なのだから」


 その時の父の顔は、まるで燃え尽きゆく小さな炎の揺らぎを見つめているかのように寂しそうで、悲しそうだった。その時の表情を鮮明に思い出せるほどに、今でもイオナの脳裏にはあの時の父の様子が焼きついて離れない。


 しかし、それからは至って関係性に変化は生じなかった。ごく一般的な家族よりも幸せな家族、その幸せはどこまでも続くとイオナは信じていた。


 あの日、父親の様子がおかしくなるその瞬間までは……。


 その日、イオナは近所の子供達と楽しく遊んでから家に帰ってきた。玄関先で、扉を開けたらいつものように温かな声音で母が「お帰りなさい」と出迎えてくれて、優しく自分を抱き留める。


 その後は今日の晩御飯の話をして、母と一緒にお風呂にも入って、寝る前は大好きな絵本を子守唄のように読んでもらって、その後はぐっすりと大好きな父と母に囲まれて幸せな夢を見るのだ。


 しかし、玄関の扉を潜りかけて彼女の鼻先を撫でたのは、とても酷く生臭い空気だった。イオナの未成熟な鼻が簡単に折れてしまいそうなくらい、とても手で口元を覆わなければ耐えられないほどの悪臭はどこから来ているのか?


「……パパ? ママ?」


 イオナは恐る恐る扉を閉めると、ランプもついていない暗い屋敷の中を探索し始めた。


 コツ、コツと自分の足音がやけに響くような気がする。もう何年も住んでいる思い出の染みついた屋敷のはずなのに、まるで初めて訪れた幽霊屋敷のような不気味さが漂っていた。


「……二人とも、どこにいるの?」


 小さな震えが空気を伝わるも、場の空気に飲まれるようにして響かない。この時、自分が恐怖ですくんでしまっているのを彼女は感覚的に理解することができた。


 この先に進んではいけない……。父との研鑽で培った感覚や本能が、頭の中で強く警鐘を鳴らし続けている。


 それでも、決して歩みだけは止めようとしなかった。行ってはならない、しかし、だからこそこの先に待ち構える何かを目撃しなければならないと何となく思ったからだ。


 やがて、一つだけ不自然に小さく開けられた扉を発見する。彼女はごくりと唾を飲みながら、息を殺して隙間を覗き見る。


 すると、そこには黒いローブで身を隠した謎の人物と、その足元に血塗れで倒れていたイオナの母の姿があった。彼女がそれを見た時点で母の顔から血の気は引いており、出血量から考えても既に亡くなっていることは明らかだった。


 声を殺さなければならない……。イオナの聡明な頭では理解していたが、行動に移せるほどイオナはまだ成長しきれていなかった。


「ま、ママ……!」


「誰だ!?」


「ひっ!?」


 咄嗟に口を塞ぐも、漏れ出た声音を引っ込めることはできない。黒のローブは扉に向かって歩いてきており、フードの暗がりから覗かれた仮面は赤い返り血で染まっていた。


 逃げなければ! 彼女は脇目も振らず来た道を戻り、そのまま屋敷を飛び出した。そのまま街の詰所に駆け込んで、警備兵を連れて戻ってきたが……。


 そこにあったのは母の死体のみで、犯人の姿はどこにもなかった。魔力痕跡などを元に下手人の捜索は行われたが足取りは掴めず、仕事から帰ってきた父は何が起きたのか分からないといった様子だった。


「……すまない、イオナ。きっと、私と居たらお前はママと同じ目に……。いや、それ以上に酷いことになるだろう」


「どういうこと? 私、訳が分からないよ……。何か知ってるなら話してよ!」


「言えないんだ。どうしても、この事だけは……。だから、お前とはここでお別れだ。イオナ」


「待って! 行かないで! パパ!」


 手を伸ばした背中を掴むことは叶わず、勢い余って地面に転んだ衝撃で……目が覚めた。


 どうやら、イオナは自分がベッドから落ちたらしいことを自覚した。確かに、見上げた天井の高さを思えばあの人に手が届かなかったのも頷ける。


「……嫌な夢。どうして、あたしが子供の時の夢なんて……。もう、何年も見てなかったのに」


 彼女は愛していた父の言葉を思い出す。それは、訓練の時にかけてもらった大切な言葉で、今でも忌々しき思い出と共に脳裏に焼き付いている。


「一生に得難いものほど、失うときは一瞬……。今の生活に不満はないけど、やっぱり……」


 パパと暮らしたい。いや、それも少し違う。

 

 パパとシュウヤ、そしてシュウヤの父、そして自分……。この四人で食卓を囲めるようになるのが一番な幸せなのだと、イオナは絶対的な確信を得ていた。


 しかし、その心の底に仕舞われた本当の望みは今の段階では叶わない。


「パパは、何かを隠している。それは、あたしを守るため。なら、あたしはもっと強くならないと。勇者か、それ以上の力を手に入れれば、きっとパパも……」


 そのためにも、自分はもっと強くならなければならない。その成果を示せる絶好の機会、それが武闘会だ。


「武闘会にはユイナも出る……。相手は理不尽なほどに強い。それこそ、空に浮かぶ月を手にするくらい無謀なのかもしれない」


 それでも、と。イオナは手足に力を入れて起き上がり、グッと力強く拳を握りしめた。思わず魔力を出力してしまい、小さな稲妻が体を駆け抜ける。


「私は、この大会で優勝して聖剣に近づく……。絶対に、諦めてなるものか」


 家族の幸せを、再びこの手に取り戻すため……。イオナまた、武闘会に向けて気持ちを引き締め直すためにすぐに着替えて早朝訓練へと出る。


 その際、玄関に飾った家族写真に対して「行ってきます」と声をかける。そこに映った小さなイオナに身を寄せる男性は、現在のシグルス王国魔法剣術学園の学園長、ルードリヒ・アーノルドの姿だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る