第19話 幕間 愛はいつだって歪んでいて、歪なものだ

 いつからだったか、彼女は彼を目の前にすると心臓の鼓動が煩く鳴り止まなくなった。この発作のようなものは、ここ暫くはずっと起きていなかったので特に気に留めてもいなかった。


 しかし、今日、この日に彼と再会したとき、再びそれは自分の体に襲いかかってきた。条件反射的に体が沸騰したかのように下の方から熱くなり、それが喉元を超えて頬の辺りまでやってくると徐々に理性が働きにくくなってくる。


 彼の優しくて安心する声音を聞くだけで、留めていた熱量が頭頂部にまでやってくるといよいよ駄目だ。吐息にも熱とは違う何か邪な思いが乗り始め、目線を下に向けて顔を直視しないようにしないと暴走してしまいそうになる。


 彼の目はある意味で、彼女にとっては魔眼だった。自分と瓜二つの瞳に自分の顔が映り込むと、瞳の奥に潜む彼の暗闇に吸い寄せられて目線が外せなくなる。


 例え瞳を塞いだとしても、生まれつき魔力に敏感な彼女は彼の気配を感じただけで繰り返される鼓動が耳元で鳴り出してしまう。この不治の病の症状を和らげる方法は、彼から離れることだと一番よく分かっているが、それはそれで締め付けられるような思いに悩まされる。


 それでも、何かをやらかして嫌われるくらいならいっそ距離を取った方が良い。そう考えて、この日も彼への想いを振り切らん勢いで疾く走った。


 心臓の高鳴りを自分の息遣いと足音で誤魔化し、彼と離れることで生じる胸の締め付けと息苦しさで鼓動を抑えつける。


 他人との関わりを制限され、剣術と座学に生きてきた時間の大半を割いた代償だ。もっと上手く話ができれば……そんなどうにもならない気持ちに苛まれながら、彼女、ユイナは次の授業がある教室へと向かった。


 本日の授業が全て終わると、彼女は誰とも会話することもなく自室へと戻ってきた。彼女が住んでいるのは学園が特別な生徒のために用意した高級な寮で、一人で住むには持て余すほど広い部屋を一室借りている形だ。


 そして文字通り、彼女はこの部屋を持て余していた。あるのは隅っこにある机と椅子のセット、剣を手入れするための道具、そして中央に置かれたベッドのみ。


 元の住んでいた屋敷でもそうだ、彼女にはそもそも娯楽などの不要なものを部屋に置かない。彼女の手にあるのは剣術、学術、そして彼だけで十分なのだ。


「いっそ、兄様をベッドの代わりに飾ることができればいいのに。でも、それはできない」


 口惜しいことに、兄をオブジェにするような真似はできない。彼女自身は、彼が彼女よりも圧倒的に強いことを理解していたからだ。


「兄様は、とんでもない魔力をお持ちのはず。剣術はそこそこ、体術に至っては素人同然、おまけに覇気もない。その筈なのに、兄様の前で剣を構えて向かい合うと足の震えが止まらなくなる」


 自分が生まれた時、自分を見下ろす圧倒的な存在がそこにはいた。自分の両親と思わしき人物たちよりも遥かに巨大な魔力を持ち、彼から発せられる魔力の光は他のものよりも綺麗で美しかった。


 彼女の恋慕はきっと、その時点で始まっていたのだ。そして、彼を観察しているうちにやがて落ちてしまった。


 だからこそ、分かるのだ。彼は一度たりとも、自分の力を見せたことなどないと。自分の感じる震えの正体は本能から来るもので、何より信用できる感覚だとするならば……自分など足元にも及ばない存在なんだと納得せざるを得ない。


 今思えば、剣術も、体術も、敢えて自分の実力に合わせることで完全に気配を消し去っていたのだ。自分こそが弱者なのだと、皆に分かりやすく示すために。


「兄様がどうして、ご自分の才覚を隠されているのか私には分かりません。ですがきっと、それは私の為なのではないかと思うのです。私が勇者になることで、私の将来は安泰なものとなる。兄様は他人に心を許さない、でも本当は私を思ってくださっているはず」


 なんて都合の良い解釈なのだろう、そんなことを思わなくもない。しかし、わざわざ出世の道を絶ってまで力を隠す意味があるとすればそれは、妹である自分のためなのだと彼女は信じることにした。


「だって、私と兄様は愛で結ばれている。そうでしょう、兄様?」


 彼女は自分のハンカチを懐から取り出すと、その折りたたみをゆっくりと丁寧に開いていく。その最奥に隠されていたのは、一本の何の変哲もない髪の毛だった。


 それには濃密な魔力が先ほどまで込められていたが、徐々にエネルギーが霧散して今や力を感じるのも一苦労だ。


「ああ、兄様……。髪の毛の魔力保有時間など本来なら数秒なはずなのに……。放課後にまで持ち越せるなんて、やはり凄いお方ですね」


 彼女は彼の魔力の残り香を堪能し尽くすと、大事にハンカチへと包み直してから机の中にそれをしまった。一瞬見えた机の引き出し、その中にはびっしりとアーティファクトによって映写された彼の写真がびっしりと貼られていた。


「兄様コレクションがまた一つ、増えました。勝手なことをしてしまった不出来な妹をお許しください。ですが、これもいずれは私の思いを兄様に届ける為……。しかし、それには邪魔者がいますよね」


 彼女は机の引き出しを閉める際、魔力を込めすぎて取っ手の部分に少しばかりのヒビを入れてしまった。それもこれも、全ては敬愛する兄の側をうろつく魔族のメイドが原因だ。


「常に兄様の側にいて、兄様に一番近い存在……。そう言えば、偶に兄様が何処かにお出かけなさる時も一緒だった気がしますね。魔族の分際で目障り極まりない……!」


 しかし、語尾に乗せた怒気と共に取っ手を破壊、金属で装飾されたそれは彼女の手の中で紙屑のように丸まり、見るも無惨な姿へと成り果てた。


「でも、このところは見かけませんね。奴隷をお捨てになったのかしら? まあ、それはそれで構いません。兄様の周りをうろつく輩が一人減り、兄様が真実の愛に気づく日に一歩前進したのですから」


 彼女は自分の魔力を更に高めて手の中にあった金属を灰燼へ変えると、まるで踊るようにステップを踏みながら夢見心地にベッドへとダイブした。


「時間はまだたっぷりあります。この学園に在籍中には必ずや、振り向かせてみせますから。待っていてください、愛しのあ・な・た♡」


 そこにはいない彼の温もりを確かめるように布団を握りしめて、彼女はゆっくりと目を閉じた。

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