第12話 一時の選択が、運命を定める

 一寸先は闇と表現するのが適当な森の中、慌ただしく地面を蹴りつける音が早送りで再生されていく。木枯らしを散らし、幹に体の所々をぶつけながらも後ろにいないはずの死神からジークは必死に逃げていた。


 手の平サイズの魔石による転移は長距離移動には向かず、あくまでも目の前の事態から逃走し時間を稼ぐ程度のものでしかない。彼は魔石に込められた魔力の全てを用いて、プエラ山脈から程なく離れた森林地帯にワープしたのだった。


 本来なら範囲内であれば転移場所も自由に設定できるはずだが、そんなことを考える余裕もなかったのでとにかく一番遠くに逃げられるよう願った結果が今の状況というわけである。


「何なんだ……。あの化け物は……! あんなの、計画には一切なかった!」


 息を切らそうと、体のあちこちが痛もうとお構いなしに文句を吐き散らしながら逃走を続ける。研究者の一人であるジークからすれば、自分にとって未知の存在にはとてつもない興味をそそられる。


 自分の知らないことを解明する、それこそが研究者の本質であり、本能であり、性でもあった。それにも関わらず、彼がルナの力に畏怖を抱き尻尾を巻いて逃げ帰ったのは「それが自分の手に負えないものである」と本能的に察知したからだ。


 いくら未知の力を探求できると言っても、命を失っては元も子もない。あれに関わり続けたら自分は生きて帰れないことを悟り、逃げの一択を迷わず選択できたのだった。


 しかし、彼はまだ知らないのだ。彼の逃げた先には、ルナなど到底比べ物にもならないような死神の存在が向かってきていることを。


「今宵はとても静かだな。木々は安らかに眠り、大地の息吹は我らの出会いを厳かに祝福している」


「誰だ!?」


 ジークは周囲に視線を向けるも声の主を発見することはできず、再び正面に視線を戻すと彼はそこに佇んでいた。まるで気配を感じることもできず、声をかけられなければ森の木々がそこに並んでいると錯覚していたくらい夜の闇に溶け込んでいた。


 背丈は五歳か、六歳程度で声色の高さから少年だと推察される。貴族が着るような白いワイシャツと黒い仕立ての良いパンツ、纏っているのはフード付きの黒いマント、そして怪しげな仮面の組み合わせと恰好は非常に奇怪だ。


 だが、ジークはその少年の皮を被った化け物に酷く怯えていた。今すぐ回れ右をして引き返したいのに、足がガクガクと震えて身動き一つとることができない。


「……何なんだ、今日は一体何だと言うのだ……。お前は、何なんだ!」


「吠えるな、獣。せっかくの清らかな空気が濁ってしまうだろう。我は今、この静寂なる雰囲気に身を興じさせているのだからな」


 彼はただ、その身に自然の営みを取り込むように安穏と呼吸を続けている。特に何をするでもない様子だったが、もしもこのまま踵を返して逃げ帰ろうものなら一瞬で殺されてしまうビジョンがジークの脳裏には映っていた。


 いつの間にか、自分が呼吸をしていたのかすら不安になって急いで呼吸を繰り返す。心臓の鼓動がやけに鼓膜の近くで聴こえ、徐々に頭の内側から酔いが回ったような鈍い痛みが走り眩暈を引き起こし始める。


 一刻も早く、この状況を何とかしなくては。


 ジークは気絶しそうになるのを必死に堪え、彼と会話することを試みた。


「頼む、僕を見逃してはくれないかな? お前には何もしない。大人しく去ると誓おう」


「……」


 少年は何も言わずに黒光りの剣を作り出し、その手に握った。闇の中でも黒曜石以上に綺麗に輝くそれは、非常に高純度の魔力で練られた業物であることをジークは見抜いていた。


 そして、それがその手に握られている意味は当然、逃がすつもりはないということだ。


「剣を取れ、獣。その腰に下げているそれは飾り物か?」


「……」


 ジークは荒く息を乱しながらも、何とか自分の手に剣の柄を握ることができた。だが、腕が震えてしまって剣を引き抜くのに一苦労してしまう。


 先ほどの戦闘の疲れが残っているのもあるが、目の前の太刀打ち不可能な恐怖と強制的に向き合わされていることが一番の問題だった。


「震えているな。怯えか? 剣士ともあろう者が、情けないにも程がある。この程度の殺気に、怯えるとはな」


「……っ! 黙れ、黙れ、黙れええええええ! 僕は! 魔導叡智研究会の中でも、それなりの地位を得ているんだぞ! もう少しで、幹部の末席に加えていただけるところなんだ! こんなところで、死んでたまるか!」


 彼は左手に例の赤い液体の入った注射器を懐から取り出し、首筋に刺して注入した。


「はは、はははははは! 実は、もう一本持っていたのだ! 本来なら複数本の服用は自我を失い、魔物と化してしまうから禁じられているが……。もはや、そんなこと言っている場合ではない!」


 彼の全身が雄叫びを上げるように蠢き始め、あらゆる血管が表層へと浮かび上がり姿を変形させていく。魔力の増幅に彼の肉体が耐えられるはずもなかったが、死にたくない、相手を殺さなければという強い思いが彼を新たな生物へと進化させた。


 膨れ上がっていた筋肉は収束し、やがてほっそりとした人型を形成した。全身が黒光りの鱗で覆われた悪魔のような姿になったそれは、右腕を剣へと変形させて彼に殺意を飛ばし始めた。


「堕ちたか、獣。そのような者に、もはや名乗るような名などあるまい。我が身を以てして、地獄へと送り返してやろう」


「ぎゃあああああああおおおおおおおおおお!」


 膨れ上がった魔力の奔流を本人は制御できていないらしく、理性を失った悪魔はただ目の前の獲物を葬るために駈け出した。理性のタガを手放した今、彼に恐怖は微塵もなく殺意の衝動に任せて剣の腕を振るった。


 並大抵の相手ならば、受け止めようものなら剣ごと真っ二つになっていたところだろう。しかし、彼はたった一振りの剣で難なく刃を受け止めるどころか、次々と繰り出される連撃をまるで赤子でも扱うように易々と受け流し鋼鉄にも勝る皮膚を容易く切り裂いた。


「ぎゃああああおおおおおおおおお!」


 悪魔は自分の皮膚がまさか割かれるなどと思っていなかったのか、雄叫びを上げながら大きく後退する。傷つけられたことで更なる怒りが殺意へと変換され、彼の内に眠っていた魔力を最大限まで引き出すことになる。


 更にスピードを上げた連撃が繰り出されるが、彼はその全てを弾き、その分だけ斬撃を相手にお見舞いする。もはや剣を振るうことすら面倒になったのか、彼は左拳で悪魔の腹を小突くとその場所に拳大の風穴が空けられてしまった。


「ふん、底が見えたな。力ばかりを追い求め、知恵を失くした愚者には制裁を」


「……っ!?」


 理性を失くした獣に、冷や汗が伝う。彼の体から溢れ出る黒い魔力の嵐は周囲の木々をざわつかせ、あまりの事態に大地を吹く風は警戒するように低い唸り声を上げる。


「まだ練習中だから、必殺技って程じゃないんだけど……。この無数の斬撃を避けられるのなら、避けてみるといい」


「ぎゃああああおおおおおおおおお!」


「吠えることしか能がなくなったか、愚かな。苦痛に塗れて逝くがいい」


 大量の黒い魔力は黒い剣へと収束し、彼がそれを一振りすると無数の魔力の斬撃が悪魔に向かって放たれた。十個とか、百個とかそんなものではなく、文字通り無数の斬撃である。


「ぎゃあああああおおおおおおおおおお!?」


 ジークだった悪魔の体は黒い刃の雨に晒されると徐々にそれらは細切れになっていき、彼の醜い雄叫びが聴こえなくなる頃には血の一滴すらも残ることはなかった。それどころか、漏れた斬撃は周囲の森すらも消し去り、広範囲に及んで更地と化してしまった。


 標的が消えたことを確認すると刃を繰り出すのを辞め、剣を魔力に変えて消し去った。そして、彼は消してしまった森の大部分をしきりに観察すると、顎に手を添えて独り言を呟く。


「やっぱり、まだまだ精度が不十分だよね。標的のみを確実に消すっていうのができればいいんだけど、そのためにはもっと魔力操作の感覚を拡張しないといけないし、何かこう空間みたいなのを作るとかしないといけないし……。まだまだ、試行錯誤の余地ありだね」


 彼は魔王として君臨するのに、やはり必殺技のようなものを幾つか持っておく必要があると考えていた。それは、魔王としての圧倒的な実力を分かりやすく周囲に知らしめる指標になれば良いくらいの感覚である。


 今の無数の斬撃を飛ばす技もそのうちの一つだが、まだまだ彼の納得のいく領域には届いていないようだ。しかし、彼が一番落胆しているのはそんな出来損ないの技でも簡単に相手を葬ることができてしまったことだ。


「全く、滅茶苦茶強い魔族だからどんなものかと思ったけど……。この程度なのか……。これじゃあ、蛇と比べても大した差はなかったな」


 彼、魔王イグニスは落胆を隠すように大きく背伸びをし、先ほどの戦いのことを思い返す。


「蛇の場合は拳で戦った方が面白そうだったからやったんだけど、効率で言うならやっぱり剣だよね。悪魔の方は拳も結構効いたみたいだけど、手応えとしては剣の方があった気がする。まあ、今まで戦った中では一番強かったとは思うけれど、ただ速くて力があるってだけなら配下にゴロゴロいるからね。ルナやアテナ辺りだったらギリギリ勝てると思うし」


 しかし、所詮はその程度ということだろう。ルナやアテナといった魔王軍の中でも飛び抜けた強さを持つ者たちが届くような相手なら、自分には取るに足らない相手なのだ。


「色々と闘ってこの世界の生物の強さがどの程度か試したけれど、このままだと楽しめないかもしれないね……。でも、もしかしたら「そういう存在」もいるかも? それに期待して、これからも鍛錬に励むとしますか」


 彼は今一度周囲を確認するが、もう自分が相手をする必要がありそうな敵はいない。となれば、もはやこの場所にも用事はなくなった。


「それじゃあ、ルナたちのところに戻るか。きっと、彼女たちなら良い成果を出しているはずだ。だって、とても優秀だからね」


 彼はルナたちの戦いの成果への期待を膨らませながら、再び静寂の訪れた穏やかな森の空気に抱かれながら仲間の元へと向かうのだった。

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