行
これは後に全てを愛する幸福論者になる話。
それまではしがない自殺志願者だった話。
外は氷点下30度。アメリカの巳も陽もない片田舎。小さく細かい氷がザラザラと音を立て静かに地面を這います。
朝起き外の銀景色が窓を通して広がる。食堂からくすねたリンゴを齧り、YouTubeを開いて【何か】を見て【何か】で時間を潰し【何となく】で過ごし、空が帳を下ろしたら眠り、また繰り返す。
平穏でありました。平和でありました。
一人の男が来る迄は。
ある日別の国から転校してきた男。
当時、私は日本人、韓国人そしてアメリカ人のコミュニティで生きておりました。刺激は無い日々、感覚が麻痺していただっただけかもしれない。しかし、確実に平坦な日々でありました。
その男は笑顔で当たりも良く、頭も切れる奴だった。私たちは受け入れました。仲間として迎えました。
ある日の夜、金曜日皆が静かに眠る時、ドアに一つ二つと叩く音が聞こえました。
何事かとドアを開けるとそこにはその男、そして隣には私と仲の良い友人。友人曰く彼が私に伝えたい事があるとの事。
玄関で暫く話を聞くとそれは壮絶なストーリーでした。内容としては、その男が転校して来た理由は、そいつの親友が目の前で飛び降り自殺を行った事によるショック。そして彼の家庭環境が如何に悪いかだった。後にこれらの物語が全て嘘だったと判明するのは別の話。
当時の私は心身未熟でありました。彼の突然の語りに涙を流し、吐き出るように同情が溢れていました。これが、洗脳の始まりでした。
男が来てから2ヶ月、私の友人が言った。『あの男は何なんだ』と。『突然やって来ては、今となってはコミュニティで王様気分である彼は誰なのか』と。
友人のその言葉はハッと出た一言でした。しかしあまりに私の気を引く意見でありました。
洗脳と言う物はきっと何時の時代も覚めた時が一番の苦痛でありましょう。気づいてしまった私は頭が浮く感覚を覚える。視点がずれ始める。年月かけて築き上げた平和なコミュニティが知らぬうちに壊されている事を知る。
暫く話を飛ばしましょう。きっと長くなる。
一先ず私と友人はコミュニティの人達にその考えを伝えた。皆同じだった。皆の精神が揺るぎ始めました。それはまるで地獄のような、集団ヒステリーの様な光景でした。友人の一人はその日を境に腕の傷が増えます。友人の一人は好きな食べ物も喉を通らなくなりました。
私は大好きな筆すらも握れなかった。
私はもう一歩下がるべきだった。元々しょうもない中途半端な利他主義である私は、皆を守ろうと必死にその男が皆に近付かないように立ち回っていた。優しさを盾にした弱小者の私に出来る精一杯だった。
その男が謝りたいと言おうと、必ず私を通す様にした。
ある日私の友がいました。彼女は一番仲が良いと言っても良かったかもしれない。今となっては過去の人でありますが。彼女はその男の洗脳から抜け出せず、静かに付き合っていたようで、彼女はそれを私に打ち明けました。
彼女は純粋でありました。故に染められたのだと今は分かる。彼女は既に男と体の関係を持ってしまい別れようとすると洗脳物語で引き止めるらしい。別れたいが、別れられない。恐らく当人にしか感じれる事の出来ない恐怖なのでしょう。
ここからが長かった。実際は半年程であるが体感は何年も経った感覚。
皆、疲れていた。
皆、終わらせたかった。
午後七時、私は部屋に帰ってきた。
瞬きをする体力も残っていない。
ベッドで数時間何もせずに天井を見ている。
ストレスが限界に達していた私は幻聴と幻覚に悩まされるようになった。
今まで優しくしてくれた人達が私に優しく言葉をかける。しかしその声は徐々に大きくなり、仕舞いには言葉はそのままで怒号のようになる。耳を塞いでも聴こえる。
足から大量のアリが這い上がってくる幻覚を見る。
急いで足を払うが、そこには何も無い。
いつも通りの足から視点を上げると、その先にはネクタイがあった。
何処かで知った。
人はネクタイとドアノブがあれば首を吊れるらしい。
私はネクタイをドアノブに結ぶ。
輪を作る。
私が守りたかった、輪を作る。
首を通した。
そして気づいた。頭に電撃が走ったようだった。
冷静に輪を外す。
死ぬ事の簡単さは想像以上である。何時でも好きな時にリセットが出来るのならまだ地獄を楽しんでやろうと思った。
全てが変わろうとしていた。
その男を追い出す為に私は動き出した。
生気の戻った私を見た友達は今思えば安心しているように見えた。
その日の夜だった。私は友人とクソ不味い夕飯を楽しむ為に食堂へと向かう。
歩く先、食堂の入口まで数メートル、その男が立っていた。こちらに気づき悲しそうな顔でその場に立っている。
冷静になれば分かった、それは嘘で作られた顔だ。
今にでも殺してやろうかと思ったがその瞬間、友人が助走をつけて男の顔面に拳を振り上げていた。
時間の流れが遅くなる。歪んだ顔が雪の中に落ちていく。
同情させる顔も作れず呆気に取られた男は自分の顔を摩りこちらを見あげていた。
一言も発さずに歩き出す友人を私は早足で追い掛ける。
食堂の席に着き言う『ついカッとなった』そんな不鮮明な言葉とは裏腹にその目に浮かんでいたのは【全てを終わらせる】という火炎のような、やるべき事が決まった清々しい風のような何かだった。
後日、私達は校長に今までの出来事を全て打ち明けた。
校長は私たちの話を聞くと深いため息を着いて窓辺に浅く腰掛ける。
何の反応なのかと伺えず二人で校長を見つめる。すると校長は口を切った。どうやらあの男は我々のコミュニティだけでなく色々な所で問題を起こしており手を焼いているとの事だった。
想像以上の被害の大きさに気が迷う、同時に同じ者がいると知って少し安堵もした。
校長は話を進める。
『もし彼が君達の一人にでも一回でも話し掛けたら警察が動くようにする。』
ここに来てそいつのヤバさを理解した。
3日ほど経ち、その週の終わりに私のスマホが鳴る。
"あいつと別れた"
友達からのその一言のメッセージを見て安堵した。涙が込み上げた。暖かい涙が心から湧き出す。
全てが終わった、皆の心には大きな傷が残ったが、理想的な形で全てが終わった。
私は人が変わったように明るく起き、会話し、飯を食う。それは私だけでは無かった。一人も欠ける事無く此処まで来れたのは奇跡だろうと懐う。
結局その男は国外追放となった。恐らく学生ビザも失効だろう。この先会うことは無い。
それから時間が過ぎた。その男に関する記憶は地獄の日々を象徴する墓石のようになった。皆が冗談交じりで過去の話をする。
午前6時、氷点下30度。小さく細かい氷がキラキラと音を立て静かに地面を這います。
朝起き外の銀景色が窓を通して広がる。食堂からくすねたリンゴを齧り、YouTubeを開いて新しい曲を見つける。ビデオ通話で時間を潰し何となくで過ごし、空が帳を下ろしたら静かに寮の隣人にちょっかいを出し、また繰り返す。そして、繰り返す。
守られ生きてきた私は、初めて自分で幸せを掴む過酷さを知った。
初めて私は【与えられて生きて来た】なんて初歩的な事に気づいた。
与えられた。
なら、与えるまでだ。
紡ぐまでだと、筆を握りキャンバスを前にした。
斜陽がアトリエを照らします。
この時、私の人生が始まった。
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