第5話 伝説の一人②
彼らには歩んできた道があり、それまでの苦悩や挫折は彼らにしか分からない。
私たち観客が見ていたのは輝かしい演奏の一部で、それまでの過程は全くと言って良いほど情報がない。
それに、彼らの表面的な美しさを求める私たちは、その裏に何を抱えているのか、知ろうとも思わない。
アーティストというのは本来“そういうもの”だと、私は心のどこかで思っていたのかもしれない。
客を楽しませる道化のようなものだと。
そんな身勝手な考えが、知らぬ間に彼らの首を絞めていたのかもしれない。
彼の言葉に目が覚めた私は、冷水を頭から被った感覚だった。
「ごめんなさい、いきなり失礼なこと聞いてしまって」
「そんなことないよ。それに、客をほったらかして俺たちは逃げ出してしまったんだから、アーティスト失格だ」
彼は空を見上げながら言った。
いつの間にか辺りはすっかり暗くなり、星が煌めき始めていた。
「じゃあまたね」
彼はギターの入ったケースを背負うと、背中を向けながら手を振った。
彼の背丈は180センチほどで、身長は大きい方だが、今の彼の背中はとても小さく見えた。
見送ることしかできない私たちを尻目に、彼はどんどん離れていく。
彼がこのまま、もう二度と届かない場所に行ってしまう気がした。
ドン
私は前に押し出されて、倒れそうになりながらも足を前に出した。
振り返ると、トモコが手綱を離していた。
彼女は何も言わず、ただ微笑んで彼が去っていった方向を指差していた。
そうだ、気持ちを伝えなきゃ、何も変わらない。
彼らにどんな事情があったとしても、私は観客であり続けるしかないのだから。
彼の背中が見えた。
あともう少しで追い付く。
人混みをかき分けながら進むと、彼はタクシーに乗り込もうとしていた。
赤く光るランプと乱雑する車両の流れで、交差点はサーカスのように踊っていた。
「アナライザー!」
ドアが閉まる瞬間、私は大声で叫んだ。
行き交う人の視線が一斉に私に集まった。
彼はビクッとして辺りを見回したが、私と目が合うことはなかった。
しかし、彼は右腕を高く挙げると親指と人差し指を曲げ、運転手が急かすまでそのポーズのまま動かなかった。
アナライザーはまだ彼の中に残っていたのだ、そう確信した。
私は頬をつたう熱い滴を手で拭い、彼を乗せたタクシーが見えなくなるまで見送っていた。
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